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「大丈夫だよ」

こんな言葉が口癖になったのは、一体いつからだったっけ?

一年の秋、御幸くんに一世一代の告白をした。と言ってもそんな大層なものではない。「好きです」と震える声で告げただけだ。
「じゃあ付き合おっか」一呼吸置いた後に返ってきた言葉には心臓を鷲掴みにされる思いだった。眼鏡越しに細まる彼の目にドキリとしたのを、今でもありありと思い出せる。

「本当に?」
「うん、大丈夫」

電話越しの彼に平気で嘘をつけるようになったのは、いつからだったかな?

付き合い始めの一年の秋も、暫く経った春休みの今も、彼の毎日は野球。でもそんなことに文句を言うつもりはない。野球をしている御幸くんはとっても素敵だし、好きなことをあそこまで頑張っているのだから応援しない訳がない。
ただ、思うのは、付き合っている意味だ。

「……大丈夫、だよ」

通話が切れた携帯に向かって呟いた言葉はどことなく震えていた。
御幸くんはわたしの彼氏でわたしは御幸くんの彼女。そんなことはわかっている。
『御幸くん、今付き合ってる人いないんでしょ?私じゃダメかな?』
でも他の子達はそう思っていなかったらしい。たまたま聞いてしまった御幸くんへの告白で、それを痛感した。

部活が無い日なんてたまにしかなくて、その休日だって予定が合わないこともあるし付き合ってから遊ぶようになったのなんて片手の指で事足りるほどだ。
電話もメールも、練習で疲れているかもしれないと思うと手が鈍る。休み時間に教室を覗いてもスコアブックを見ていて話しかけていいのか迷う。
彼氏と彼女って、なんなんだろう。「大丈夫」言えば言うほど、自分を追い詰めている気がした。

好きなのは私だけなのかな。付き合っている意味を求めているのは私だけなのかな。
御幸くんと一緒にしたいことはたくさんある。でもそれを、本当に思っていることを口に出せない。言ったらこの薄っぺらな関係すらも途絶えてしまうような気がして。

「明日空いてる?」

春休みも終わりかけた頃、ベッドの上に放り投げた携帯が御幸くんからのメールを知らせてくれた。

「うん、空いてるよ」
「部活終わったら時間あるから、会いたい」
「わかった、学校行くね。明日も頑張って」

付き合っている男女のするメールなのか疑いたくなるくらい簡素な文面。だけどそんなこと気にならなかった。明日、御幸くんに会えるんだ。

「名前!」
「御幸くん、お疲れ様」

休みだけど学校に入るから私はいつも通りの制服を着てきたけど、御幸くんは練習あがりだからかTシャツにジャージ。それにメガネも黒縁じゃなくてなんかこう、サングラスみたいなのをかけている。いつもと違うところをたった数秒でいくつも見つけて、きゅんと胸が鳴る。

「なんか楽しそうだね?」
「わかる?いやー、面白い中学生が来たんだよ。あの東さんから三振とったんだぜ」
「あの東さん?」
「ほら、ドラフト候補のお腹出てる怪物」
「あははっ、何そのジェスチャー。でもすごいね。プロ候補の人から三振とれる中学生なんて。来年が楽しみなんじゃない?」
「ま、ね。ただ課題はたくさんあるんだけどな。ピッチャーのくせにストレートしか球種がないとかスピードがないとか」
「あらら、たくさんだね」

自然と話題は野球に繋がっていく。そこまで野球の知識はないけどわからないことは聞いたら答えてくれるし、嫌な顔もされない。
そんなことが嬉しくて、久しぶりに御幸くんと会って話せるのが嬉しくて、ついつい頬の筋肉が緩んでしまう。

「明日も練習?」
「ん」
「そっか、ならそろそろ帰るね」

私が来てから一時間と少し。きっと御幸くんはこの後も自主練とかあるだろうし、スコアブックと睨めっこする時間も必要になってくる。
もっと話したくても、一緒にいたくても、我慢しなければ。
スカートに着いた砂を払って立ち上がると手首を掴まれた。

「は?」
「え?」
「まだ一時間しか経ってないんだけど?」
「うん、まあ……でも自主練とかするんでしょ?」
「そりゃあ……って、気使ってんの?」
「え」

ぎゅ、と手首を握る力が強くなる。血液の流れる音が伝わっているんじゃないだろうか。
ガラス越しの御幸くんの目が少し鋭くなった気がした。スコアブックと向き合っている時のような目つき。

「だって……御幸くんは野球部だし、レギュラーだし」
「名前の彼氏でもあるんだぜ」
「そうだけど……」
「……電話でもメールでも毎回大丈夫って返してくるけど、それって本心なのか?」

大丈夫。御幸くんとどこかへ出かけたり一緒に何かを楽しんだりなんて時間はほとんど取れないけど大丈夫。私よりも野球優先で全然大丈夫。
脳内で何回も自分に言い聞かせてきた言葉。
考えるよりも先に首を縦に振っていた。

「ならいいけど」
「……うん」

手首を掴んでいた御幸くんの手が離れ、その手が地面を叩いた。もう一度座れということらしい。

「悪いんだけど、俺が大丈夫じゃないんだわ」
「えっ」
「?」
「いや……その、御幸くんは……別に私のことはそんな気にしてないと思ってた」
「ははっ、俺、気にしてないやつと付き合うような嫌な男に見えんの?」
「う、ううん」
「……だよな」

地面に置いていた手がいつの間にか重なっていた。
野球をしている人だからか、それともキャッチャーというポジションだからなのか、御幸くんの手は私のなんかよりずっと厚かった。

「門まで送る」

御幸くんと手を繋いだまま、校門へ向かう。夕日はもうほとんど沈みかけていて目を凝らせば星の一つでも見えそうだ。

「名前が『大丈夫』でも俺が大丈夫じゃないから、明日も同じ時間にここな」

きっと御幸くんは私の嘘に気づいてる。気づいてて、気にしてくれてたんだ。口元をつりあげて笑う彼に胸が暖かくなる。
彼氏と彼女の関係の定義なんて辞書にも載ってないし教科書にも書いてない。春休みに練習終わりのたった一時間学校で話すような関係は端からみたら彼氏と彼女には見えないかもしれない。
でも今の私には、これだけで十分。

「……うんっ、また明日ね」

別れ際に御幸くんへ投げかけた声は、もう震えてなかった。