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その日は珍しく寝付けなかった。瞼を閉じて寝ようと試みてどれくらいたっただろうか。睡魔はいっこうに来なくてベッドから体を起こせば、窓越しに月が目に入る。満月より少し欠けた月は明るく、それでいてどこか儚い雰囲気が漂っているような気がした。
椅子の背もたれにかかってるカーディガンを羽織って部屋を出た。誰も起こさないように細心の注意を払って階段を下りて、靴を履いて玄関の扉を開ける。ひやりとした空気が頬を掠めた。11月の夜の空気は真冬の皮膚に刺さるような冷たさはないけれど、それでも体を冷やすには充分な冷たさだ。うん、カーディガンを羽織ってきて正解だ。カーディガンの袖を少し引っ張って手を包んで、私は月明かりとわずかな街灯が照らす道を歩き出した。


ただ散歩でもしたくなって外に出た。
その選択がまさかこんなことになるなんて誰が予想できただろうか。顔を上げれば数分前まではいなかった、私より少し前を歩く人物が目に入る。
夜空と同じ様な色の髪と、少し眠そうに細められた瞳。白くて細長いけれど、よく見れば綺麗に筋肉のついた手足に高い背。野球部レギュラーで、クラスメイトで、そして片想いしている彼――――降谷暁の姿が。
降谷君も寝付けなくて外でなんとなく月を見てたらしい。学校の近くで遭遇した降谷君はそのことを私に伝えると、少しだけ眉を寄せて不機嫌そうな顔になったかと思ったら学校の寮とは逆側の方向に歩き出した。その行動の意図が分からずにいたら、「送るよ。」と言われて今に至る。

「苗字さん。」

降谷君の低めで静かな声が私の鼓膜を震わせる。それだけでもどきりとしてしまう。なるべく冷静を装いつつ、「何?」と返せば、「あのさ…」と口を開いて降谷君は足を止めた。

「夜、もう出歩かないでね。…心配だから。」

…心配、だから…?
降谷君の言葉を頭の中でもう一回繰り返す。言われた言葉を理解したと同時に顔が熱くなるのを感じた。どきどきと心臓の音がうるさい。降谷君が心配してくれてる。特に深い意味もないんだろうけど、それでも、少し期待してしまう私がいた。
気づけば降谷君は既に歩き出していて、私はその背中を追いかける。追い付いて隣に並んだとき、ふと、ある言葉が頭に浮かんだ。直ぐにその考えを振り払うように空を見た。満月より少し欠けてはいるが月の明かりが眩しい。
あぁ、失敗した。こんなことしたら、余計に頭から離れない。…もういっそ言ってしまおうか。
ぎゅう、と自分の手をカーディガンの袖ごと握った。心臓の音がさっきよりもうるさい。


「降谷君…月が、綺麗だね。」


とある小説家の有名なある言葉。ほとんどの授業で寝てしまう降谷君のことだから、きっとこの言葉の本当の意味は分からないと思う。
降谷君はきょとん、とした顔で私を見たあと視線を空に移して、「…そうだね。」と言って視線を元に戻した。
やっぱり、気づかなかった。よかった、と思うと同時に少しだけ鼻の奥が、つん、とした。なに泣きそうになってるんだろう。こんなの気づかなくて当たり前なのに。込み上げてくる色々なものをぐっと堪えて前を向けば、私の家はほぼ目の前だった。

「降谷君ありがとう。家、そこだから。」
「あ、うん。」

降谷君は足を止めて私が指差す家の方を見る。「近いね。」なんていう彼に、「青心寮ほどじゃないよ。」と言って門の柵に手をかける。ありがとう、ともう一度言って家に入ろうかと思って口を開こうとしたら、「苗字さん、」と呼ばれて開きかけた口を閉じる。


「…僕、死んでもいいよ。」

「え……?」


降谷君は私が何かいう前に、「それじゃ。」と短く言うと走り出した。一瞬だけ、でもはっきりと見えた顔は微かに赤くて。どくん、と跳ねた心臓と頬の熱。
もしかして…いや、まさか、そんなこと…。
さっきの私の言葉と別の人のある言葉がぐるぐると頭の中を回る。


私と降谷君がお互いの言葉の意味の真相を知るのは、もう少し先の話。