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ようやく寒さを実感し始める10月下旬。今年の気温は浮き沈みが激しく、特にここ数週間はずっと暖かさが続いていた。その為、毎年楽しみにしている金木犀の香りはいつもの季節よりかなり遅れてきていた。普通なら9月から10月上旬。もって10月中旬くらいまでだというのに、とにかく、今年は異常なのだ。

「ただいま〜」

部屋のドアを元気良く開けるが、当然のように誰もいない。歩いてきたばかりで暑苦しさを感じ、窓を開ける。何の気なしに携帯のメールをチェックすると、「えんちょ」の一言。きっと他の人の目を盗んで慌てて入力したのだろう。うが抜けているし、変換すらされていない。

「なんだ、またかー」

今日は、彼と久しぶりに2人で晩御飯を食べる約束をしていて、とても楽しみにしていた日。いわゆる、記念日と言う奴だ。まあ、シーズン中の合間を縫っているわけだから、こういうこともある。しかし、延長に邪魔されるとは...。
ふぅ、と軽くため息をつくと、冷蔵庫からビール缶を取り出し、おつまみの鯖缶を開ける。そうだ、今日はちょこっとだけアレンジするか。と冷蔵庫から葱を取り出し、刻み始める。鯖缶を一口パクリ。そのまま火にかけて葱を投入。しんなりするまで煮た後、七味と山椒をかけてできあがり。

「よっしゃー!さすがネットの情報、レシピが簡単!我ながら上手く出来たわ〜」

とテレビをつけ、自画自賛。付き合って9年かぁ。長いようで、短かったなぁーと昔の自分たちに思いを馳せる。
最近、ひとりでいる時間が長くなった気がする。高校を卒業して、大学を卒業後、普通企業にOLとして普通に就職。ただ、普通の人と違うところは、高校の時から付き合っている彼がプロ野球選手の御幸一也だと言うところ。高校時代はマネージャーで、一也を支えてきた。卒業と同時にプロ入りした彼と、大学に進学した私が会うことは難しく、なまじ3年間一緒だったもんだから寂しさのあまり「近くにいるのに、遠距離みたいだ。」と罵ったことさえある。それでも、お互いにメールは欠かさなかったし、専用携帯を買って電話もほぼ毎日していたしオフには必ずデートしていたから、今ほどひとりを実感する回数は多くなかった。

(あの頃は初々しかったなぁ)

有名人ということもあり、殆どが家デートだが、それでも十分幸せだった。社会人になり、一也もプロ入りしてから少しずつ心にも体にも余裕もでき、ずっと一緒にいられるようにと同棲を始めたのだが、私は毎日仕事に追われ、一也はシーズン中ほとんど帰ってこれない。しかも、同棲期間が長くなればなるほど遠慮かなくなり、メールや電話もほとんど無し。メールにいたっては、「うん」とか「わかった」の一言が多くなっていた。

『延長12回、バッターは御幸一也』

テレビから流れる彼氏の名前。ヒッティングマーチが聞こえる中、缶ビールを開ける。仕事終わりのこの一杯がたまらないのだ。一気に残りが1/3になるまで飲み、オヤジっぽくプハーと一息。おもむろにテレビへ視線を戻すと映像でもわかるくらいの一也の楽しげな表情。どんだけ野球バカなんだか。出会って10年目、付き合ってもう9年。親にも周りにもいつ結婚するの?と毎度毎度会うたびに聞かれる。こっちが知りたいわ。

『さすが!御幸一也、やってくれました!サヨナラ満塁ホームラン!!』

実況アナウンサーの声で現実に引き戻される。サヨナラか。この試合の様子だと、ヒーローインタビューは恐らく一也だろう。ゆらゆらと立ち上がり、冷蔵庫から二人で食べる予定だったケーキを取り出す。ヒーローインタビューがある日は大体帰ってこれない。先輩達に飲みに誘われるに決まっている。

「プロの方って、すっごいらしいよ?」

キッチンで友人が私に向けた言葉をぼんやりと思い出す。彼女が言いたいことは、「浮気に気をつけろ」ということ。確かに、プロ野球選手って美人アナウンサーと結婚しているイメージが強い。美人アナウンサー対仕事終わりのビールが唯一の楽しみな干物の自分。勝負は見えてるなァとひとり、笑う。ひとしきり笑ったあと、ふっと不安に襲われる。


一也は私の事、まだ、好きでいてくれているんだろうか?


一緒に暮らしているとはいえ、ほとんど会えていないし、メールもせっかく買った携帯電話も久しく鳴っていない。夜の生活だってすっかりご無沙汰になっている。そういえば、最後に喋った言葉は「鯖缶買ってきて」だったような気がする。


ヴヴヴヴッ


「!?」

携帯が震え、心臓が跳ねる。差出人は友人。メールを開くと、今すぐテレビ!!の一行。なんだ、一行メール、流行っているのか?とぶつくさ文句を言いながらリビングへ。丁度、ヒーローインタビューの最中。が、なにか様子がおかしい。会場はざわつき、女性の「いやー!!」という声があちこちから聞こえてくる。

『それは!もしかして、最近噂されている、あのアナウンサーさんじゃ..』
『はっはっは、』

再び会場がざわつく。肯定とも否定ともとれる一也の笑い。あー、あの美人アナウンサーか。この間飲みの時に隣に座ったとかなんとか。途端、お腹の辺りがギューッと痛くなる。彼女は私、なのに。こういう思いをすることも増えた。私は一端のOLだし、一也はテレビはおろか、ファッション雑誌にも引っ張られるほどの有名人。プレーも一流だし、その上であの容姿。モテない筈がない。もしかして、シーズンで忙しいというのも、他の女と会うときの理由になっているのではないか、そう一瞬でも疑ってしまう自分が嫌いだ。ズンと重くなる心。

「やだ、あたし、何で泣くのよ」

頬に涙が伝う。拭っても拭っても溢れ出てくる。
と、

『違いますよ』


テレビから聞こえてくる一也の声。いつもなら笑ってごまかすのに、今日に限ってははっきりと否定する。

『僕には8年間支えてくれている大切な人がいるので』

重くなった心を軽くする言葉。いままで彼女がいる事を頑なに隠してきた一也が、あっさりと喋る。彼女は私だと、8年間という言葉がそう言っている。

『そ、それは』
『高校の時からの付き合いで、今日が記念日なんですけど...延長になってしまったもんですから、いやー打ててよかった』

さらにざわつく会場。女性の叫び声が目立っている。カメラが一也に寄る。一也はへらへらと笑ったままだ。延長12回まで伸びたせいか、放送時間を大きくオーバーしている。実況席からの『とんでもない爆弾発言が飛び出しましたが、ここで番組は終了いたします。』という声が聞こえてくる。


『名前、待たせてごめん!こんな俺でよかったら、』


切り替わる映像。まって、今、私の名前、呼んだ?というか、なんか、さっきの...

ヴヴヴヴッ

震える携帯。メールを開こうとすると、次々とメールが届いて開くことができない。そして、止まない電話。対処しきれず電源を切る。どうしてこんなことに..

プルルルルッ

久しく鳴っていない携帯が鳴る。ディスプレイをみると、御幸一也の文字。受話器を耳に当て、恐る恐る話し出す。

「もしもし、」
『もしもし、見た?』
「うん、途中で切れてたけど」
『は!?まじで!?』
「うん」

『うわー、俺、かっこわりー』と笑う一也。

「あの、さっき放送で切れた先だけど...」
『あー、やっぱ、後で言うわ』
「へ?」
『すぐ帰る、待ってて』

プツン

ツーツーツーと切れた音が聞こえる。しかし私は動かない。動けない。全身が心臓になったみたいに熱い。ドクンドクンと煩く鳴り響く。

ふいに金木犀の香りが鼻腔を擽ぐる。呪縛から解き放たれたかのようにベランダに向かう。少しだけひんやりとした風が心地いい。ドームから家まで1時間以上かかる。それまでの間、私はひとり。でも、こんなひとりぼっちの時間ならいくらでも待てる気がした。



alone




(会いたい、でも、もう少しだけこのままで)