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「降谷君がね」

苗字から聞き覚えのある名前が出てきて、微睡みかけていた頭がゆっくりと醒める。

「塗ってるって聞いて」
「…んー?」

眠い目をこすりながら指先に触れる冷たい何かをぼんやりと眺めた。

「昨日、沢村君に似合うと思って買っちゃった。あ、動かないで」

眠い、暖かい陽だまりの中でうとうととしていた至福の時間が、苗字の甘い声にゆっくりと消えていく。

「沢村君って、…あ、すごい、うわぁ」

右手が冷たい何かにしっかりと捕まえられたのが分かった。
左腕に支えられるようにして上げた視界の先には、前屈みに俺の手を握りしめる苗字の姿が映って、一瞬何をされてるのか分からずただその光景を眺める。

「…うわぁ!す、すごい、う、わぁー」
「…え、てか、何やってんの?」

何やら奇妙な感嘆の声を上げる苗字は、見慣れない小さな筆のようなものを俺の爪に塗りつけている。
爪にひんやりとした感覚が走り、ぞわりと背中が震えた。

「あ、起きた?」
「…な、マニキュア?!」

苗字が少し興奮したようなキラキラと輝く瞳をこちらに向けたのとほぼ同時に、俺はそう叫んでしまった。

「あ、うん、降谷君がね、塗ってるって聞いて…。ほら、沢村君に似合うと思って、オレンジの買ってきたの」

苗字は筆を持つ手で器用に小さな小瓶を俺に差し出して見せた。
赤にほとんど近い色をしたそのオレンジ色の小瓶からは、つんとする異臭が漂っている。

「は…?な、に、てか、塗ってるし!」
「あ、ちょっと動かないでー」

呑気な声を出して俺の手をその冷たく柔らかい両の掌がやんわりと捕まえる。
俯いた苗字の後頭部と睫毛、鼻筋がはっきりと間近に見えて、俺はどきりとしてしまった。

「すぐ終わるよ」

俺の動きが止まったことを確認して、苗字がへらりと上目遣いに俺に微笑む。
寝起きにこの笑顔は、正直卑怯だ。

「…いや、てか、俺マニキュアなんてしねーし…」
「え、でも降谷君はしてるんでしょ?ピッチャーだから」

降谷、降谷、って、いつの間にあいつとそんな話をしたんだろう。

「あいつは爪が貧弱だからだろ」
「そうなの?」
「そうだよ」

ぶっきらぼうにそう言うと、苗字はちらりと俺の顔を覗き見て笑った。

「でも、沢村君の爪、すごいよ」
「…はぁ?何が」
「すごい、長くて、綺麗。塗りやすい」
「へー。気にしたことねーなぁ…」

ひんやりとした感覚がまた、爪をなぞる。
俺の手を軽い力で掴む苗字の冷たい掌が心地良い。

「スクエア気味の女爪、なのかな」
「そんなんあんの?」
「うん。いいなぁ、憧れる」

憧れる、その言葉にそれ以上はないのだろうか。
触れた指先には冷たい筆の感覚しかしない。
もっとしっかり俺の手を握りしめてくれてもいいのに。

「二本目できたー」

笑うその顔を無遠慮にこちらに突き付けてきて、俺に今どういう目で見られているのかなんて考えもしないのだろう。
自身の女々しい思考に静かにため息が漏れ、気付かれないように目を逸らす。

ふう、とぬるい風が苗字の唇から俺に向けて吹いた。
口を尖らせてもう一度、ふう、と俺の指先を乾かそうとするその姿に何かがざわりと湧いてきて、慌ててそれをしまいこむ。
風が爪を掠める度にぞくりとした心地良さが体に走る。

オレンジ色に塗られた右手の人差し指と中指。
派手な色、俺のことをこんな色だと思っているらしい目の前の女。

「…てか俺、左利き」
「え?…あ、ああぁ!!」

にこにこと満足そうだった顔が途端に青ざめた。
百面相、笑いを堪えてオレンジの小瓶と筆を苗字の冷たい手から奪う。

「交代!」

悪戯っぽく微笑むと苗字が困ったように笑った。