甘く溺れる
アメリカにいた頃、ずっとずっと追いかけていた選手がいた。
私の中のヒーロー。否、ヒロイン。
彼女の影響を受けて私はバスケを始めた。彼女を追いかけること、彼女の出場した試合を何度も再生することにばかり時間を割いて上手になったとは思えなかった。それでも彼女の喜んでいるときの気持ちや悔しい時の気持ちを理解したくて続けた。
目の病気のせいで引退してしまったけれど、今でも彼女は私の憧れだ。
そんな彼女が、今私の目の前にいた。
『あの、あの、私、ちいさいころからファンで・・・!』
『本当か?そりゃうれしいな。』
アレクサンドラ=ガルシア。私のヒロイン。彼女は二カっと笑うと私と握手してくれた。
アメリカではバスケをしていたけれど、女子のバスケよりも男子のバスケに興味の対象が移行した私は高尾くんたちがいる男子バスケットボール部にマネージャーとして入部した。今日は本当は部活のほうに参加しなくちゃいけないけれど頼み込んで誠凛高校と陽泉高校の試合を見に来たのだ。陽泉高校に知り合いがいるので、応援したかった。
『アレクサンドラさんはどうして、日本に?』
『ああ、ちょっと弟子たちの試合を見にね。』
彼女はちょっとだけ照れくさそうに言った。弟子という単語を聞いて私はもしかしてと口を開く。
『弟子って・・・辰也のことですか?』
『おお、何で知ってるんだ?』
やっぱり、と私は小さく歓喜の声を上げた。
『中学校が一緒で、知り合いなんです。学年が一個違うけど。』
『そうだったのか。』
やるな辰也、とかなんとかごにょごにょと彼女は言った。どういう意味だろう、と思いながら首をかしげる。
と。
『辰也と知り合いなら、一緒に会いに行くか?』
『え、いいんですか?』
彼女がうれしい申し出をしてくれた。でもせっかくの辰也と彼女の再会にお邪魔してもいいんだろうかという思いが芽生えて遠慮がちな言葉が出る。
だって私と辰也はそこまで親しいわけではない。試合を応援に行くほどは親しいけど。でも中学時代、いくらお願いしても辰也はアレクサンドラさんと私を会わせてはくれなかったのだ。やんわりとやさしい言葉で私のお願いをいつも断っていた。それは辰也が私とあまり親しくしたくないからとか、そういう意味ではないだろうか。
『ああ。こんな美人連れてきたらきっと辰也は注目の的だな!』
アレクサンドラさんはそこらへんの事情は知らないようで、屈託ない笑みで言ってくれた。私は辰也のことを気にしながらも結局は二つ返事で彼女の申し出を受けた。
『あ、それと、私を"アレックス"って呼んでくれ。なんかアレクサンドラさんなんてちょっとむずがゆいんだ。』
『えっ、え・・・!!ありがとうございます!』
『いや、そんなにありがたがられることか?』
アレクサンドラさん・・・もといアレックスの困った様子を少し笑った後、私は彼女と一緒に辰也のところへといった。
結局、陽泉高校は負けてしまった。でも私にとってはエキサイティングな試合だった。いつ見ても、辰也のあの身のこなしには見惚れる。アレックスのプレイスタイルと似ているところがまた少し増えていた。将来バスケ選手の中で私は辰也のファンになりそうだ。冷静に物事を把握しながら常に闘志を絶やさない姿勢は好きだし(高尾くんに似てる)、大きくて無骨な選手がたくさんいる中で、美しさを放つものというのはひときわ目立つものだ(高尾くんのパスもきれい)。それに加え、私の尊敬するアレックスのプレイスタイルが織り込まれている。きっと私はバスケ選手においては辰也に自然と惹かれていくのだろう(高尾くんは辰也より総合的に惹かれる。バスケも、人となりも)。
「高尾くん、高尾くん、」
まだ部活が終わっている時間ではなかったので私は試合を見た後学校へと戻った。
監督や部員のみんなに感謝の気持ちを大きな声で述べてから、マネージャーの仕事を精一杯した。
今、部員のみんなは着替え中だ。
早めに帰る準備が終わったので私は男子の更衣室のドアの前で高尾くんをせかすように呼んだ。
今日の陽泉高校の試合で話したいことがいっぱいあったのだ。
「なまえちゃん、ちょ、まってまって。」
あわてて出てきた高尾くん。
「みどりまくーん、今日はたかおくんはわたしのだからーー!!明日はたかおくんは緑間くんのだよーー!」
私はまだ部室で着替える緑間君に叫んだ。
緑間君と高尾くんは仲がいいから、帰る日がなくなるのはさびしいだろうと思って、私と高尾くんが一緒に帰る曜日を決定していたのだ。今日は私が一緒に帰る日だったけれど、もしかすると一緒に帰れなくなるかもと考えていたから、緑間君に譲りますとメールで言っていた。結局、一緒に帰れることになったので一応緑間君にお断りを入れたのだ。
「大声でさけばなくていいのだよ!それに、日本語がおかしい!」
顔を真っ赤にして飛び出してきた緑間君は私に怒る。おかしい場所あったかな、と自分の言葉を反復しようとするけれど、
「いやこれはこれで俺、超うれしいわ・・・!」
その前に高尾くんからぎゅっと抱きしめられてあわあわしてしまったので考える余裕はなくなってしまった。
「てめーら帰るなら早くかえれ!轢くぞ!」
「は、はいっ!」
宮地先輩が今度は怒った。私は飛び上がって、未だに私を後ろからぎゅうぎゅうしてくる高尾くんをそのままつれて、帰った。
「俺らの前でいちゃいちゃすな!!」
更衣室のほうから、誰のかわからない声が私たちのほうに一言ぽーんと投げられた。
「宮地先輩怖かったー!」
靴箱にまできてからようやく体のこわばりが取れた。なかなか宮地先輩の怖さにはなれなくて、宮地先輩が怒った後はしばらくは体の緊張が取れないのだ。
両腕を伸ばし、背筋をそらせて体を伸ばす。んー、と声を洩らした後息を深く吐き出した。
「ははっ、まだ慣れねーの?」
「ちょっとだけ。」
私は苦笑する。靴箱で靴を履き替えると高尾くんはごく当たり前のように手をするりとつないだ。
緊張のスイッチが入る。
高尾くんは何てことないような顔をして、歩き出した。その横顔を見上げる。私ばっかりがいつも緊張してしまって、ちょっとだけ恥ずかしいし高尾くんに負けたような気持ちがした。
初めて手をつないだときもそうだった。高尾くんはなんてことのないように「手、つないでいい?」と聞いてきて、私は顔を真っ赤にしてうつむきがちにうなずいて。私の心臓はドキドキなってうるさかった。
今も、頬が熱い私とは反対に高尾くんは涼しそうな顔で余裕たっぷりに口角を上げて歩く。私はいっぱいっぱいなのに。この差は何なんだと少し不満だったりする。
「それで、今日はどうしてそんなにうれしそうなの?」
さりげなく、高尾くんが話題を振ってきた。
「そうだった!」
と私は高尾くんの腕に抱きつきながら目をぱっと開かせる。
急いでごそごそと携帯を取り出した。
「今日、私の大好きな選手と会ったんだ。元WNBAの選手で、アレクサンドラ=ガルシアっていう名前なんだけど、初めて会ったのにアレックスって呼んでいいよって言ってくれて!」
「この人!」と私は高尾くんに携帯を渡した。何枚か一緒にとったのでいろいろと見てもらおうと思ったのだ。
「何枚か一緒にとったの。」
そうなんだ、といって高尾くんは携帯を操作していった。かち、かち、かち。四枚ほど見たところで一度彼は手を止める。
「なまえちゃん、この人だれ?」
「ん?」
携帯を覗き込む。そこには私とアレックスと辰也の三人で取った写真があった。私とアレックスは屈託ない笑顔を浮かべ、辰也は照れたように笑ってた。
確かそのとき、辰也に聞いたのだ。どうして今までアレックスと私を会わせてくれなかったのかと。
『・・・なまえはバスケもしてるし、アレックスの大ファンみたいだから、アレックスが取られるんじゃないかって思ってたんだよ。』
と辰也は語っていた。もうとっくの昔の話だから語ってくれたのであった。それでも少し照れくさそうに笑ってた。
思い出すと、なんだかほほえましい。かわいいかわいい独占欲を聞いてアレックスもきっとうれしかっただろう。
「アメリカの中学校で一緒だった人。氷室辰也っていうんだ。今は陽泉高校にいってるよ。」
「へぇ!」
高尾くんはほほえましそうに写真を見た。私と同じ気持ちを写真から汲み取ってくれたみたいでうれしい。
少しの間写真を眺めて、高尾くんは次の写真へと進めた。
・・・のだが。
「・・・・・」
彼が不意に立ち止まった。
「高尾くん?」
私も立ち止まる。顔をのぞきこむけれど、表情は変わらない。一心に携帯画面を見ていた。
顔を覗き込んでも何もわからないなら、携帯画面だ。覗き込むとそこには、私と辰也の写真があった。辰也がからかってか写真に写るときに頬にキスしてきたのだ。
アレックスが、『思いっきりのキスをしようとしたときにはたしなめたくせに、挨拶程度のものはいいのか』と、ぶつくさ文句を言っていた。
『いいんだよ。こういうの写真で残しておくと悪い虫がつかないだろう?』と辰也は返していた気がする。悪い虫なんてちゃんと見極めますー、と私は言い返した記憶がある。
そのときのアレックスの顔は辰也を茶化すようににやけていた。
「なんで、こんなことさせてるの。」
高尾君の声の高さがひとつ下がった。
「高尾くん、怒ってるの・・・・?」
「当たり前じゃん!!」
高尾君がこちらを向いた。語気が荒いし、目は明らかに怒気をはらんで。
「えっと・・・どうして?」
どうして怒っているのかがよく分からなくて、困惑した。
「そんなの、」
高尾君の声が震えていた。肩をつかまれる。痛いくらいに強い力で恐怖とか心配とか、ぐちゃぐちゃになっていく。怒っているの?泣いているの?
「なまえちゃんに俺以外の男が触れるなんて、許せるわけないだろっ・・・」
責め立てるような視線だった。でも少しだけ潤んでて。
私は彼を不安にさせてしまったんだと、その不安が怒りになって一瞬で私と同じようにいろいろぐちゃぐちゃになっちゃったんだと気づかされる。
いつも朗らかな彼だから、そのいつもとの差に場違いながら胸がときめいた。
自分の姿なんて気にせずにさらけだした高尾くんを見ると母性本能と混じって、欲望が私を興奮させた。頬が少しだけ高潮する。今すぐ触れたい。
「高尾くん・・・」
吐息混じりに呼んで、そっと彼の背中に手を回す。バスケを毎日がんばって、筋肉がついている高尾くんの体は、実際に触れてみてしかそのたくましさは分からない。私にだけ分かるたくましさなのだ。
「ごめんね・・・?」
胸に顔をうずめながらそういうと高尾君はうん、と小さく返事をしてくれた。頭にこつんと彼の顎が乗る。少し頭に温かい息がかかってほっとする。
「なまえちゃんのほっぺってマシュマロみたいにやわらかいからさ、ほかの誰にも味合わせたくなかった。」
高尾君がぽつりと言った。確かに、と私もうなずく。私だって、私だけが知っている高尾君のことをほかの人に知られたくないもの。人をからかうけど、ちゃんと言葉を選んでたりしてることとか、元気付けようとしていることとか、キスするときは呼吸できる間を必ず作ってくれることとか。私だけしかしらない。私だけが気づいていること。ほかの人に知られるなんて嫌だ。
「高尾くん、ほっぺたキスして?」
私は今日、辰也にキスされたほうの頬を高尾君に少し向けた。高尾君はうんっていって、少しかがむ。
頬に息がかかった。
「こういうの、"消毒"っていうんだぜ。」
少しだけ戻ったいつもの調子で高尾君は私の耳にささやいた。ふふ、と思わず笑う。くすぐったいし、背中がざわざわする。でも高尾君の声が先ほどみたいに囁いてくれるならもうちょっとだけ続けてほしいかな、なんて。吐息が徐々に頬のほうに戻っていって、それから頬に熱が触れた。私は身を任せるように目を閉じた。頬を滑っていく熱い吐息と唇。心臓が鳴る。泣きたいくらいに気持ちが高ぶっていくのが分かる。もっと、もっと欲しい。
一度吐息が離れていって私は目を開けた。高尾くんと目が合って、もっと、っていう欲がどろどろと絡みつく。
少し背伸びをした。高尾君との慎重さは頭四分の三個分くらいだったから背伸びをしたらちょうどだ。
息と息が絡まった。背伸びをして少しきつい私を支える高尾君が目を閉じた。つりあがった目じりにまずひとつ。驚いたように高尾君のまぶたが持ち上がる。至近距離で見詰め合うと、瞳を通して何もかもを触れられているみたいでぞくぞくしてしまった。
高尾君が額をつけて、唇があとちょっとで触れてしまいそうなところでとめた。
それから囁く。
「今のなまえちゃん、すごく色っぽくてきれい・・・」
「高尾君の全部が、私すごくぞくぞくしちゃうの。」
「それ、最っ高ーだね。」
お互いに目を閉じて、そのまま互いに唇を寄せた。何度も、何度も。
そのとき初めて、私と高尾君は深いキスまでした。
「ふ・・・んっ」
高尾君のリードに答えようと私は必死に舌を伸ばした。重なり絡み溶け合っていく気がした。お互いに抱きしめる力が強くなる。高尾君の片方の手は、私の後頭部へ伸ばされ、やさしくなでおろされていった。
「は、」
高尾君の吐息が聞こえる。うっすらと目を開くと扇情的に少し眉間にしわを寄せている高尾君の表情があった。ぞくぞくする。みぞおちの辺りから高ぶる気持ちが脳にまで痺れをもたらして。
一度、唇が離れた。でも唇が触れそうな位置での呼吸を整えるための小休止だ。
「なまえちゃん・・・」
息を整える途中、ちゅ、と一瞬だけ唇がくっつく。
「ねえ、高尾くん、もっとお願い・・・」
羞恥心というものがなくなって、私は今自分の欲求を満たすためだけに高尾君に懇願していた。誘うように、ねっとりと唇を合わせた。高尾君が息を呑む。
「・・・これで終わるつもりないからね。」
高尾君はそういって、私を近くにあった何かまで後退させ、背中をつけさせた。
私に沈み込むように、彼は少しかがんでもう一度私に口づけたのだった。
甘く溺れる
(お前ら、いつまでやってる気なのだよ!)
(早く帰れつったろが!)
(・・・やべ。ここ、学校の正門だった)