100円の傘


「あ、柳さん」

毎度のことながら、赤点だった英語のテストの補習を受け、さあ帰ろうと昇降口を降りれば、その人が出入口横の壁にもたれていた。
俺の登場に気付いた柳さんは、手にしていた参考書から目を離し、こちらに笑顔を向けた。
その笑顔の向こうには暗い景色が広がり、白い線が次々と空から地上へ突き刺さっていた。

俺は喧しく簀の上を走り、目的の外履きを投げた。
素早く上履きを自分の棚に突っ込み、かかとの潰れた革靴を突っ掛ける。
ところどころに水と土がまざった、茶色の池が出来上がっていたので、それを巧みに飛び越えながら俺は走った。

「遅くまでご苦労だったな」
「思った以上に時間が延びちゃいまして…柳さんこそなんでそんな所に?」
「練習が終わってから、先程まで先生と話し込んでしまっていてな」

俺は、靴の裏にこびりついていた泥を床にこすりつけた。

「そうだったんスか。俺も今日そっちに顔出すつもりだったんスけど…」
「いや、気にするな。今日は中で筋トレだけだったからな。それより、ちゃんと頭に入ったか?」
「いくら時間かけても、出来ないものは出来ないんスよ」
「なんだ、次のテストへの予防線を張ったのか?」
「予防線?へ?」
「わからなければ良いよ」

言って、柳さんは俺の頭をくしゃくしゃにした。
雨が降ると髪の毛は元気になってセットしづらくなるが、断じてワカメではない。
頭を押さえられて足下を見ると、いつも手入れがされている柳さんの革靴は泥にまみれていた。
視線を上げていくと、靴だけではなく、ズボンもシャツも、よく近づけば頭までも濡れていることに気がついた。
俺の腕に提げていたビニール傘が揺れる。
俺は柳さんの手を払いのけて訊いた。

「柳さん、傘持ってないんスか?」

柳さんは、俺の頭から上げた手で自分の頭を掻いた。
今まで見えなかった水飛沫が飛んだ。

「俺はともかく……まさか、忘れてきたんスか?柳さんが?」
「いや、今日が午後から土砂降りになることは100%の確率で読めていたからな。ちゃんと持ってきたのだが…」

柳さんは俺から目線を反らし、自嘲気味に息を吐いた。

「二人してずぶ濡れだったテニス部のお偉い方に、くれてやったのさ」
「部長と副部長っスね?…でもこんなに濡れてたら、柳さんが風邪ひいちゃいますよ」
「いや、いいんだ…」

柳さんは参考書を鞄の中に仕舞い、かわりにタオルを出した。
それで頭をぐしゃぐしゃにしながら続けた。

「俺は、いいんだ…」

俺も自分のスポーツバッグからタオルを引っ張り、柳さんの肩にかけた。

「よくないっスよ!」


相変わらず目を下に向けたまま、柳さんは諭すように言った。

「これはどちらの方が重要かを優先させた結果なんだ。二人共びしょ濡れになって体調を崩すか、それが一人で済むか、な。大事なことなんだよ」

そう言いながら、タオルで顔を擦った。
顔は雨に濡れてはいなかった。

「俺、補習で頭使った後なんで難しいこと言われても分からないっス」
「はは……それは、すまなかったな」

言い終えると、柳さんは小さくくしゃみをした。
そんな鼻を啜る柳さんの姿を見るのは、とても久しぶりのことだった。

「それにしても、柳さんがびしょびしょになるのが分かっていながら傘借りるなんて…」

柳さんは優しすぎますよ〜と俺が腕に抱きつくのを、柳さんは身動ぎ一つせずに受けた。

「うわっ…冷たい!やっぱり酷いっスよ二人共」
「俺が無理を言って受け取らせたんだ。あまり責めないでやってくれ」
「そうなんスか?」
「あぁ。だから…」

柳さんは俺の腕にかかった傘を指さしながら言った。

「今日は一緒に入れてもらってもいいだろうか?」

俺はバッと、そのビニール傘を開いた。
持ち主の性格が出ているのか、それは開ききっても歪な形の花弁をしていた。

「いいっスけど、安物だから小さいし、骨も折れてますよ?大丈夫っスか?」
「構わない。もちろん、お前がよければだがな…」
「いいに決まってるじゃないスか!」

俺は開け放たれたドアへ駆け出して言った。
柳さんは、床に置いていた自分の鞄を肩にかけて、歩いてこちらについて来た。

「はい、柳さん」

俺が形の悪い傘の下に入り、柳さんを招き入れようとした。
しかし柳さんは長身だから、俺が用意した空間には頭が入らなかった。
あ、と思った瞬間に、手の中の傘の柄が浮いた。

「腕が疲れるだろう」
「あ、柳さん」

今度は、逆に俺が招き入れられるかたちとなった。
薄暗いカーテンのかかった世界に、俺たちは進み入った。

「さっきより強くなってませんか?」
「そうだな。夜は更に酷くなる」

ビニールに刺さる雨の音が煩かったが、声を張れば会話に支障をきたす程ではなかった。
柳さんは、傘の柄を少し俺寄りになるようにして言った。

「肩、大丈夫か?」
「平気っス」

嘘をついた。
さっきから雨粒が体を打って仕方がなかった。
が、柳さんの濡れ加減に比べればなんてことないと思った。

「そういえば、お前今日の補習は誰が監督に来ていたんだ?」
「あれっス、風紀の」
「理解した。1年の時は俺の担任だったよ」
「え、そうだったんスか」
「あぁ、一時期はテニス部にも顔を出していたぞ」
「知らなかったっス」

くだらない世間話を続けていると、すぐに校門を過ぎた。
人影のほとんど無くなった校舎が、グラウンドが、遠ざかっていく。

歩道を歩き、一つ目の信号に行く手を阻まれたとき、柳さんが呟いた。

「今日…」

雨粒に消されて、その声はほとんど俺には届かなかった。

「なんスか?」
「…今日、本当は先生と話なんてしてなかったんだ。」

信号はまだ赤のまま。
俺はずっとその無機物を見つめていた。
柳さんも、きっと俺と同じ方を見ている気がした。

「最初から、お前が傘を持って遅くまで居残りさせられることは分かっていたからな」
「そんなの…」
「そんなのズルいっス…と、お前は言うが……俺がお前と一緒に帰りたかったと言うことによってお前は怒ることをやめる、と俺は信じている。」
「………安物のビニール傘だってのも予想の範疇っスか?」
「勿論だ」

信号が青に変わった。
俺はツカツカと早足で白と黒の横縞を渡る。
柳さんも、俺に合わせて隣を歩く。
俺と柳さんと、どちらのテニスバッグも雨に濡れている。

「柳さん、俺肩と鞄が濡れてるんで、もう少し寄ってもいいスか?」

今度は本当のことを言った。
柳さんの様子は何も変わらない。

「傘が小さいんで、柳さんももっと中入って下さいよ」

柳さんは、小さく「あぁ」と呟いて内側へ寄ってきた。
バッグは相変わらず濡れている。
スポーツ少年二人が身を寄せ合って相合い傘をしている様を想像して、俺は他人事のように微笑んだ。



100円の傘



二人が離ればなれになる駅までは、まだもう少し道程がある。











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企画雨露様に参加させていただきました。
稚拙な文章をここまでお読みいただきありがとうございました!



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