おやすみの時間


「ねえ、起きてる?」

布団の中でこっそりと携帯の受信メールを確認したときに、二段ベッドの上の兄から控えめに声をかけられた。
数時間前の夕食時に届いていた柳沢からのメールにいつ返事をしようか思案したが、明日でいいやと静かに携帯を閉じた。

「起きてるよ」

僕は上から聞こえてきた声と同じトーンで答えた。
自分から発せられた声は先程のそれとまったく同じ声質で、一人の人間がひとり言を言っているようにも捉えられるなと思い、自分は密かに笑った。
すかさずまた上から声が降ってくる。

「淳、なにクスクス言ってんだよ」
「別になにもないよ」
「本当かな」
「本当だよ」

僕は気が変わってもう一度携帯を開けた。
薄暗い布団の中にディスプレイの眩しい光が広がり、瞬間的に僕の目を焼く。
写し出される時間は深夜0時を回ったところ。
柳沢はきっと寝ているだろうけど、かまわないやと返信画面を開いた。

「もう、明日帰っちゃうんだな」

やはり同じトーンの声が降ってくる。

「そうだよ。ゴールデンウィークもあっという間だったね」
「ああ、一瞬だったね」

この連休の前半は部活に専念したこと、後半は実家に帰ってきて六角中に顔を出しに行ったことが、走馬灯のように頭の中をかけた。
柳沢からのメール内容も「もう明後日から学校が始まるのが信じられない」というものだった。
僕は当たり障りのない言葉を選んで柳沢に同調した。
そして二段に満たないその単文をすぐに送信した。
こんなに簡単済むなら、もっと早くに送るべきだったなとか、時間かけといてこれだけかよ!とか思わないでね、と、心の中で柳沢に謝った。

僕は携帯を閉じて枕の横に置いた。
部屋には、壁に掛けられた時計が時を刻む音だけが響き渡っている。
そしてふと懐かしい感覚に包まれ、気が付いたら笑っていた。

「今度はなに」
「この時計の音…暗い部屋の中で唯一聞こえるこの音がさ、小学生の頃まで怖くて仕方なかったなって」

僕がそう言うと、兄は数拍間をおいた。
はっきりとした音が単調に時を刻んだ。

「そういえば。淳は口には出さなくてもびびってたよね。心細かったんだろ」
「亮こそ。自分の方から降りてきて、こっちの布団に入って寝てたじゃないか」
「それはお互い様じゃないか」
「そうかも」

上からゴソゴソとした布擦れの音と、静かな兄弟特有の笑い声がした。
それが止むと、しばらく時計の例の音が響いた。

低いトーンで亮は言った。

「明日帰る、か…」
「そうだよ」
「不思議だね」
「なんで?」

ため息とともに、消え入りそうなか細い声がした。

「淳の家はここなのに、寮に“帰る”んだね」
「そりゃそうだよ。もう一年近くも生活してるんだから」
「そうだよね」
「そうだよ」

また布擦れの音がした。
それに秒針のリズムが畳み掛ける。

「寂しいの?」
「別に。今更なんてことないよ」
「“今更”てことは、最初はやっぱり寂しかったんだ」
「…多少ね」
「多少なんだ」
「…ちょっと…ね」
「クスクス」
「もう」

時を刻む音がする。
ひとつひとつの音が鳴る度に、一歩一歩明日へと歩みを進めているんだな…なんて、柄にもなく詩的なことを考えてしまった。
昔あれだけ怖かったのに、いつの間に慣れてしまったのか。
暫くこの二段ベッドの部屋から離れていた間、毎晩響き続けていたこの音の存在なんて忘れていた。
そして自分が居なくなった部屋で、一人この音に包まれていた亮のことも。

「じゃあ淳、もう寝るね」
「待って」
「なに」

僕は枕元に置いていた携帯を握って起き上がった。
その動く気配に、上の亮が反応する。

「ちょっと。こっちくる気?」

「うん」

「もう中三だよ?」

「うん」

僕はベッドの下段から降りて背伸びをする。
容易に、上段の布団の膨らみを覗き込むことができた。
亮はこちらに背を向けて横になっていた。

「狭いよ?」

もぞ、と塊が動いた。
薄暗闇に慣れた自分の目は、こちらを向いた亮の顔を捉えた。
布団を深く被り、目だけを出している。

「だめなの?」

寝返りをうち、亮はまたこちらに背を向けた。

「淳がどうしてもって言うんだったらいいよ」
「やった」

僕は握っていた携帯を上段のベッドの手前に置き、下から枕を持ってきて小脇に抱えた。
目の前のベッドの柵を片手で掴み、頼りなく軋む梯子に足を掛けた。
昔はすべての段を踏みしめていたところを、たった一歩で上にたどり着いてしまった。

「あんま揺らさないでよ」

「ごめんごめん」

亮はもぞもぞと壁の方へ寄ってくれた。
空いた手前に枕を据え、僕も布団の中に潜った。
下と同じで、冬物から春物に替えたばかりの新鮮な匂いに包まれる。
先程まで亮が占有していたその場所は、ほんのりとした暖かみに満ちていた。

「真横の梯子、怖いね」
「もう慣れてるでしょ」
「前はもっと自分と距離があったよ」
「そりゃ成長してるんだからさ」
「そうだよね」

最後に一緒に寝たときのことを思い出した。
あの時はもっとスペースもあったし、毎晩もっと話もした。
それに……

「ねぇ、もっと寄ってもいい?」
「だめって言ったら?」
「降りちゃうかも」
「降りれば?」
「降りるよ?」
「……いいよ、寄れば」
「うん」

枕をすこし内側にやり、手をついてにじり寄る。
シャンプーの香りが鼻をくすぐる。
同じものを使っているはずなのに、どうしてこんなに別物に感じられるのだろうか。

「クスクス。楽しいや」
「なんか淳、へん」
「へんじゃないよ。普通だよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ」

そしてまた笑うと、隣からも独特の笑い声がした。
やっぱり同じ声をしている。

「それじゃ、また明日ね」
「うん、また明日」

訪れた静寂の中に、再び秒針の音が響き渡る。
昔抱いていた恐怖心は、きれいに消え去っていた。
むしろ心地良く、徐々に僕を眠りへと誘う。

「おやすみ、亮」

「おやすみ、淳」


その優しいゆりかごの中で、僕らは昔のように身を寄せあった。
薄暗闇の中で、時は少しずつ少しずつ明日へ進んでいく。




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