「1/f」 | ナノ


可哀想な噺をしよう


「やあやあこんばんは! とても善い月夜だね! 却説、此処でクイズ! こんな夜更けに私を何をしに来たのでしょうか!! そう、答えは暴漢に襲われて心身共に傷付いた名前の様子を観察に来たからだー!!」

 道化師ニコライ・ゴーゴリの登場は何時だって突然で、時間や場所、相手の都合等を気にしていない事がよく判る。ドストエフスキーは器用に片手で本を閉じるとふかふかの枕に背中を埋めながら物憂げに溜め息を着いた。

「ゴーゴリさん、夜更けだと判っているのならせめて声量を落として下さい。後、名前はこの通り熟睡していて目を覚ます様子はありませんよ」
「本当だね! でも何時もより少し疲れた顔をしているね。そんな名前に私からプレゼントをあげよう! はい、今日ドス君が取引した組織の残党の名簿だよ」
「ご苦労様です。報酬は別室に用意させているので後程持って帰って下さい」

 忠告した所でゴーゴリが訊くとは思えなかったが真夜中に似合わない明るい言動には多少疲れる。枕から少し背中を浮かせて、先程本を閉じた片手で差し出された記憶媒体を受け取る。朝になって横の名前が起きたら確認しようとベッドサイドのテーブルに其れを置いた。すると、ゴーゴリの視線が突き刺さる。優秀すぎる脳は、彼が何を問いたいのか其の答えを叩き出していたが形式上「何か?」と問う。ゴーゴリはニッコリと唇を吊り上げて手袋で隠した指先をベッド上の二人の間へ向けた。

「其の手……ドス君が片手しか使わないのは、もう片方の手を名前に握り締められているからかな?」
「そうですよ。この子が何処にも行くなと泣いて懇願するものですから」
「うんうん、相変わらず仲が善い! 夜、眠る事さえ出来ないのに共寝してあげる程大切にしているんだね! 其れは恋愛感情かな? それともドス君の隠れた父性若しくは母性が目覚めちゃったのかな?」
「残念でした。何れも外れです」

 ゴーゴリとは正反対の静かな声で、そう云いながらドストエフスキーはベッドサイドのランプを消した。室内が更に暗くなり、窓から射し込む雪の反射光だけが笑顔を貼り付けた道化師の顔を浮かび上がらせる。ドストエフスキーは、もう一度背中を枕へ預け、自身の片手を握り締めた儘、健やかな寝息を立てる名前の頭を撫でながら云った。

「ぼくは名前に其の感情の何れも持ち合わせてはいません。慥かに名前だけではない、誰か別の物を横に置くとぼくは安眠等出来ない。けれど構いません。徹夜には慣れていますし、翌日寝不足で名前の体調が悪くなる方が余程困ります」

 ゴーゴリは笑顔を崩さずに頷き先を促した。

「知っていました? この子、露西亜に来た当初よく熱を出していたんです。治れば直ぐにまた発熱、ベッドに寝そべったままずっと泣いていました。真逆、此処まで体が弱いとは思ってもいなかったもので煩わしさすら感じていました。ですが、ですがね。或る時を境にピタリと止まったんです」

 最早先を促す事はしなかった。ドストエフスキーのような異星人ではないゴーゴリでも顛末は理解出来た。だからドストエフスキーも先は云わなかった。彼はニコリと幸薄に笑って部屋の入口を指差すと、ゴーゴリに静かに退室を促したのだ。

「話に付き合って呉れてありがとう、ドス君! おやすみ!」

 大股に部屋を出た道化師の姿を見送れば、室内には先刻迄と同じ静寂が訪れる。レースのカーテン、窓辺に置かれた棚に乗る兎の縫いぐるみ。本棚には英語や露西亜語で書かれた子供用の絵本が並び、クローゼットには名前の服が所狭しと詰まっている。凡て他ならぬドストエフスキー自身が身繕い名前に与えた物だ。其れを凡て見渡して彼は満足気に微笑むとそっと目蓋を閉じた。何時まで経っても眠れはしない。朝日が昇る迄あと四時間。今日は先に起きていたふりをするか、其れとも狸寝入りを決め込むか。この前は先に起きたふりをしたから、今回は後者がいいかもしれない。幸せそうに笑う彼女が自身を起こそうと擦り寄って来るのは嫌いではなかった。

 これは断じて世間一般が考える『愛』ではない。愛情と呼ばれる類には分類されるだろうが、そう呼ぶには些か歪過ぎるからだ。道化師である同僚が狂い乍らも自由を求めるように、自分も又、敢えて道を違えながら少女とも女性ともつかない女に罰と救いを差し伸べ続けるのだ。深淵のような愛情を持って、誰に理解される事もなく、ただ雪が降り積もるようにゆっくりと。

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