露西亜のほぼ全土は寒冷気候に属し、短い夏を過ぎればあっという間に厳しい冬に覆われる。外の気温は摂氏零度を優に下回り、この時期に窓から見えるのは一面の雪景色だ。それにしたって今日は寒い、寒過ぎる。この極寒の大地で過ごすようになって既に六年が経過しているが何時まで経とうと冬の寒さには慣れそうにもない。
今日はフョードルさんはこの屋敷に居ない。大切な取引があるとかで、寝惚け眼で見送る私に「善い子にしているのですよ」と微笑んでゴンさんと共に出て行ってしまった。彼らが屋敷を発って十時間。そろそろ帰って来るだろうかと浮き足立つ私を笑うように玄関扉は風の叩き付ける音しか鳴らさない。抑々頭目自らで出向かなければならない取引とは一体何だ。しかも侍従長であるゴンさんまで連れていくなんて一体相手は誰なんだ。寂しさと寒さは既に限界を迎えつつあった。屋敷は古いけれど露西亜特有の防寒対策の施された造りをしているが、それでも寒いものは寒い。それに私は危ないからと暖炉の火を着ける事を赦されていないのだ。何時もなら暖炉の火が燃え尽きるより早く帰って来てくれるのに。「寂しかったでしょう? よく我慢出来ましたね」と暖炉の前で踞る私を、其の細く冷たい体で抱き締めてくれるのに。
「……暖炉、もう消えちゃったよ」
言葉にすると寂しさは倍増して、心細く震える私の体を襲って来る。被った毛布に顔を埋めて必死に漏れ出る嗚咽を呑み込んだ。
そうしている内に、どうやら私は眠っていたらしい。外は真っ暗、雪が月明かりに反射して暗い室内に一閃の光を届けている。周りを見る。どうやらまだフョードルさんは帰って来ていないらしい。
(なにかあったのかも)
彼の頭脳や異能の恐ろしさを私は知っているけれど、嫌な予感というものは一度去来すると中々払拭するのは難しいのだ。居ても立ってもいられず、毛布を引き摺りながら玄関を目指す。嫌だ、嫌だ。もう会えないのは嫌だ。だって約束したじゃないか。エントランスまでもう直ぐの廊下で私は足を止めた。窓の下、雪に囲まれた大地を何人かの男達が歩いて来るのが見えたのだ。フョードルさんではないし、ゴンさんでもない。構成員かもしれないが、この屋敷を知る構成員は存在しないとフョードルさんが云っていたのだからきっと違う。ならばあの男達は誰だ。此処で先程の嫌な予感が私に或る仮説をもたらした。若し、男達が今日の取引相手の仲間だとしたら──フョードルさんやゴンさんという強力な異能力者が居ない間にこの屋敷を狙っていたのだとしたら──ビリビリと肌が粟立った。頭からすっぽり覆っていた毛布を放り投げ、私は暖炉のあるリビングへと駆け込む。昔、若しもの場合にと渡された小型拳銃はソファの下に挟まっていた。
(どうしよう、どうしよう)
私は端末を渡されてはいない。頼れる相手はいない。あの道化師だって空気を読んで現れて呉れたりなんてしない。今、この屋敷にいるのは、頼れるのは私一人だけなのだ。ぎゅっと拳銃を握り締め、私は男達が来るのを待った。
扉が破られる音がしたのは直後の事だった。数人の男達がバタバタと足音を響かせて屋敷の中を荒らしている音がする。男達は何かを捜しているようだった。フョードルさんが盗んだ品々の内、何かが目当てなのだろうか。息を潜めながら思考を巡らせているとリビングの扉が開かれた。室内に踏み入れた足は四本。男が二人。ソファーの影から恐る恐る腕を伸ばす。そして安全装置を外して引き金を二回引いた。
バン、バン。耳が痛くなるような音がする。けれど男達の足は崩れない。それ所か痛みを感じているのは私の方だった。痛い痛い痛い。太腿が炎に焼かれているように痛い。ソファの肘置きに額を擦り付けるようにして私は声にならない絶叫を上げていた。
「驚かせやがって……だが手間が省けたな」
「早く縛り上げろ。あのドストエフスキーが飼っている女だ。何をしてくるか判らんぞ」
ああ、そうか捜し物は私だったのか。痛みでボンヤリとする頭の中でピンポンと効果音が鳴る。善い子ですね、よく出来ました。空想の彼が優しく頭を撫でてくれる。やっぱり嫌だ。撫でられるなら現実がいい。でも現実は痛いし怖い。力任せに髪を引っ張られてブチブチと嫌な音がした。
「おい、本当にこの女なのか? ただの亜細亜人じゃないか」
「そうだ。見てくれが悪い訳じゃないが、俺は本国の女の方が好きだね。肉付きも悪そうだし、ほら見ろよ。この腕なんて直ぐに折れそうだ」
もう一人が私の顔を覗き込みながら垂れた腕を握り締める。硬い指先に冷たい汗が頬を伝った。
「まあ、ドストエフスキーのような骨と皮しかないような男には丁度いいんだろうさ。却説、さっさとずらかるぞ。首領がお待ちかねだ」
此処で一つ。私は決して頭が善い訳ではない。けれどこの通り、嫌な予感は当たるのである。故に、これから私が如何なるのかもきっと当たる。
掴まれていない片腕に拳銃はない。然し、私から少しの距離には先程の発砲で割れた窓硝子が散らばっている。迷う時間はなかった。掌に突き刺さる痛みに泣き声を上げそうになりながら、掴んだ硝子片を振り翳す。男達が怒号を上げて拳を振り上げた。拳が私の顔面に吸い込まれる。チカチカ。衝撃に体勢が崩れて硝子片は掌から零れ落ちてしまった。
「この糞女……!! 手前、今直ぐ殺してやろうか!?」
私の胸倉を掴んで男が叫ぶ。飛び散った唾液が私の熱い頬を濡らした。気持ち悪い。痛い。気持ち悪い。痛い。何で私がこんな目に合わなければならないんだろう。濡れた目蓋をゆっくり開いて男を見上げた。汚い醜い男だった。六年前、私を見下ろしていた彼とは雲泥の差だ。
「……別に、貴方を傷つける心算じゃ、なかった……」
ピタリと止まった男が怪訝に私を見下ろす。口を動かす度に血の味がして、唇の端からは唾液混じりの血液が流れ落ち私の白いブラウスを汚した。
「あれは、あの破片は……私が、私を殺す為に……使う心算だった、の……」
イカれている。男の目が雄弁にそう語りかけていた。そして男は荒れた唇を持ち上げて、突如私の胸倉を離した。重力に従って床に倒れた私の上に馬乗りになった男は、私のブラウスに指を掛ける。破かれる。このブラウス、彼から購って貰って気に入っているのに。
嫌な予感、外れたな。この男が指に力を込めれば釦が弾け飛ぶだろう。其れにきっと痛い。最早悲鳴を上げる余裕さえもなかった。否、暇がなかった。バン。男は突然白目を剥いて私の脇に倒れ込んだのだ。パチパチ。瞬きをする私の視界に白い肌が浮かび上がる。次いで見えた深い紫色の瞳に私は喉を震わせた。フョードルさん。醜い声だった。
「はい、ただいま。すみません、遅くなりましたね。其の代わりと言ってはなんですがお土産を持ち帰りましたので赦して下さいね……と云いたい所ですが、嗚呼これは非道い」
血塗れで頬は腫れ上がり、ブラウスは乱れて朝見送った私の姿は何処へやら。倒れた侭見上げる私に細く形の整った眉を下げたフョードルさんは、脇に倒れた男の腹を脚で小突く。
「ねえ、未だ生きていますよね? だってぼく急所は外しましたから。あ、喋らなくて結構ですよ。どうせ痛みでまともに話せはしないでしょう」
世間話をするような声色と、長い睫毛を伏せるように微笑む瞳。其れなのにやっている事は、傷口を抉る行為なのだからちぐはぐだ。
いつの間にか現れたゴンさんが悲しそうな顔をして私を抱き起こした。だから彼と男の応酬がよく見える。
「貴方の首領ですが死にました。ぼくが殺しました。見た所貴方は彼方の構成員でなく雇われただけのようですが此れで只働きですね、御可哀想に。だからぼくが救って差し上げます。もう一人のお仲間ですが既に彼方へ行きましたよ。お話したら直ぐに追わせて差し上げますから、もう少し付き合って下さいね。却説、何から話しましょうか。嗚呼、そうだ。取引の最中、この屋敷を狙ったのは正解でしたね。褒めて差し上げます。ぼくも侍従長も居ない屋敷には其処の名前が独り、貴方達でも簡単に制圧出来ます。現に名前は傷付き倒れ、貴方から辱しめを受ける直前でした。ぼくが戻って来るのがもう少し遅かったなら、貴方は彼女を辱めていたでしょう。あ、でもいざ彼女を潜窟へ連れ去った所で首領は死んでいるのだから意味は在りませんね。ただ好ましくもない亜細亜人のか弱い女性で浅ましい肉体の欲を満たしただけで、一番の目当てだった金銭は手に入らない。おや、もう限界ですか? では、最期にもう一つ教えて差し上げましょう」
男のか細い呼吸音を掻き消すように大きく布のずれる音が響いた。彼は膝をついて袖口から銀色のナイフを取り出すと、そうっと男の首筋に当てた。そして私へ視線を投げる。涙が出る程優しい笑みだった。
「ぼくは自分の物に手を出されるのが嫌いです。若し来世があったならよく覚えておくように」
ナイフの切っ先が横に動き血しふぎが飛ぶ。雪の明かりに照らされた彼が、血塗れの私に血塗れのナイフを見せながら困ったように小首を傾げた。
「名前、泣かないで」
まるで聖書の一頁のような美しい光景だった。
「もう、ほんっっっとに寂しかったし痛かったんですから!!」
「ええ、撃たれたのだからそうでしょうね。よしよし、よく耐えましたね」
「うわーん、心が籠ってない!!」
「もう小一時間同じ文句を聴き続けているのですから仕方ないでしょう」
場所は変わって私の部屋の私のベッド。消毒をして包帯を巻いた脚を投げ出してしがみつく私の頬に氷嚢を当てるフョードルさんは、規則的にもう片手で私の背中を擦りながら疲れたように視線を彼方へ投げた。非道い。非道すぎる。
「というか、フョードルさん判ってて私を独りにしたんでしょう!?」
「おや、バレていましたか。怖い思いをさせてごめんなさい、名前。でも面白いものが観れてぼくも愉しかったです」
「うう、謝られたのに謝って貰った気がしないぃ〜」
ははは。乾いた笑い声を上げていたフョードルさんが私の背中を撫でる手を止めた。器用に私の体を片手で支えて足元に丸まっていた毛布を引き寄せる。促されるまま枕に片方の頬を埋めた。氷嚢の冷たさと枕の柔らかさが釣り合っていなくて気持ちが悪かった。
「ぼくの為に命を投げ出す其の覚悟は美しい。けれど、いけません。貴女が自ら命を断つ事を神は望んではいらっしゃらない」
「……だって」
「駄々は捏ねない。名前、貴女は生きてこそ価値がある唯一の人間です。生きながら罰を受け、罪を洗う事が出来るのです。何があろうと命を断つ事は赦されません。それに貴女に何かあればぼくは正気ではいられないでしょう。自分を大切になさい。其れがぼくの為になる」
毛布を肩まで掛けてくれた手が、今度はポンポンと規則的に私の体を叩く。お母さんみたい。言葉には出さない。云ったら多分この前みたいに呆れられてしまう。
「そうだ、今回の御詫びに何か一つお願いを訊いてあげましょう。何でもいいですよ。云ってご覧なさい」
「え」
「おや、怖い」
思わず目を見開いた私にフョードルさんが驚いたように目を瞬かせる。怖いなんて思ってもいないくせに、態とらしく肩を震わせて見せた彼は今にも起き上がりそうな私の体をベッドへ押し戻した。
「……何でも? 本当に何でも?」
「ええ、何でも。但しぼくに出来る範囲で、ですよ」
「じゃあ」
一度息を吸い込み直して、目の前の細い体に再度しがみつく。氷嚢がズレて私の頭を滑り落ちた。
「其れは随分と強欲だ」
小さく呟いたお願いに彼はクスクスと笑って体を起こした。え、嘘。何処へ行くの。咄嗟に服の袖を掴むと冷たい指先に包まれる。「大丈夫、灯りを消すだけです。何処にも行きませんよ」言葉の通り灯りが消えてベッドが軋み、隣に優しい気配がした。安堵の息をつく。善かった、今日はもう独りになりたくなった。
「おやすみ、名前。今日は本当に頑張りましたね。きっと明日は善い一日になりますよ」
ポンポン、ポンポン。背中に響くリズムに段々と目蓋が重くなる。其れは涙が出る程心地よくて、気がつけばポロポロと水滴が頬を濡らしていた。未だに熱を持つ頬を冷たい掌が包み込む。
「大丈夫、ぼくがずっと傍に居ます」
死ぬまで、否、喩え死んだとしてもずっとずっと私の傍に居てください。