「1/f」 | ナノ


『11』


 『11』と呼ばれる女が、この客船に連れて来られたのは、一週間は前になる。首には他の奴隷と同じく赤い宝石のついた首輪を嵌めて、無表情、無感動と云った風の従順そうな、悪く云えば詰まらない女だった。とは云え、この世に生気に満ち溢れた奴隷等は存在しないのだからありふれた存在とも云える。過酷な環境下で今日生きるか死ぬかも判らぬまま、細い糸にしがみ付いているような者ばかりだ。女は、客船に居る五十人の精鋭部隊の中で二番目に若かったし、ついでに云えば主であるAが女奴隷を連れて来るのは稀である。慥かに見目は悪くはないが、絶世の美女でもない。一体何を気に入ったのだろう、と内心首を傾げるのは、晴れて女の教育係に任命されたカルマである。

 一日目、先ず客船内を案内したカルマはうんともすんとも云わない女に非道く困っていた。意思疎通が出来ない相手との接し方等今まで習っては来なかったのだから仕方ない。二日目。女が話せない事に気が付いた。意思疎通は首を振る事で行う事になった。三日目。女が非道く不器用だと知った。Aが大切に飾っていた高価な壷を見事に粉々にした女は、Aに顔面をぶたれても泣き言一つ漏らさず無表情を貫いた。随分と胆が据わっている。Aは、そんな所を気に入ったのだろうか。四日目。雑用は任せられないと判断され、Aの元に呼ばれた女が新たな傷をつけて戻って来た。「靴の舐め方も知らぬ女だ」Aが苛立たしそうに呟いているのを目撃した。何をされたか想像がついて少しだけ同情した。五日目。この日は何も起こらなかった。カルマはAに命じられた仕事で忙しく女を構っている暇はなかったから、正確には何かあったのかもしれないし、実際何も起こらなかったのかもしれない。六日目。以前より依頼していた誘拐屋から連絡を受けた。明日、引き渡しの為船は港へ寄る事となった。女は、夜の海をじっと眺めたまま、矢張り表情を緩めない。ただ、その横顔は非道く幼く、泣いているようにも見えた。

 そして今日――

「おや、これは随分と愛らしいお嬢さんだ」

 カルマは初めて女の表情が変わる瞬間を目撃した。

 プロの誘拐屋に依頼して捉えた死の家の鼠の頭目は、予想していたよりも遥かに弱々しい風体の露西亜人だった。青白い肌に肩まで無造作に伸びた黒髪と、赤色にも見える紫色の瞳が深い隈の上に乗せられている不気味な男である。吸血鬼のようだと誰かが呟いていたが其の通りだとカルマは全力で頷きたい。それなのに、女はドストエフスキーの言葉に一瞬瞳を輝かせて恥ずかしそうに頬を染めたのだ。おいおい、真逆こんな男が好みなわけ!? この一週間世話して来た年上の女奴隷の好みに眩暈がしそうだった。
 麻袋のような服から、暖かそうな異国の装束に着替えたドストエフスキーは、Aと向かい合い札遊戯に興じている。自身の命運を握っている相手が目の前に居るにも関わらず紫色の双眼が心底詰まらなさそうに盤上の札を見つめていた。結局、勝負は、プロの賭博師であるAが勝利した。揃っていない札を盤上に投げ捨てて、ドストエフスキーは猫背に目の前のAを眺めた。そしてAの一方的とも云える交渉が始まる。Aの目的はただ一つ。鼠の頭目を自分の部下にして、ポートマフィアの首領森鴎外の首を取る事。組合さえ出し抜いた手腕には目を見張るものがあり、ドストエフスキーの力があればヨコハマを牛耳る事も可能となる為である。
 ふと、カルマは横の女を盗み見た。無表情に、女の視線はドストエフスキーの背に注がれている。一瞬でも逃してなるものかと、執念すら感じる程の注視にドストエフスキーも気が付いているに違いない。矢張り今日の『11』は何処か可笑しい。少なくともカルマの知る女ではなくなっている気がした。すると、Aと会話をしていたドストエフスキーが漸く表情を変えた。指先を噛み乍ら歪な笑みを浮かべて云う。

「ぼくが貴方を殺します」

 Aの表情が一変した。張り付いていた笑みは消え失せ、片手はワイン瓶へと伸び、何の躊躇もなくドストエフスキーの頭へ振り下ろす。耳を劈くような音が響き、狭い部屋に葡萄酒の香りが充満した。ポタポタと赤い液体を滴せるドストエフスキーの顔に動揺の色はない。見せしめるようにAが恐ろしい異能を発揮しても、其れが変わる事はなかった。其の様子を眺めるカルマは高揚しつつ思う。『11』の態度とドストエフスキーは似ていると。

「……おい」

 然し、そう思ったのは束の間で、カルマは咄嗟に『11』の腕を掴んだ。そうしなければ、今にも飛び掛かって行きそうだったのだ。女の視線がカルマへ注がれる。其の瞳は無感情ではない。明らかな怒りを感じた。Aが出て行って直ぐ、女はカルマの腕を振り払い部屋を飛び出した。バタンと大きく扉の閉まる音が響き、ワインを滴らせたドストエフスキーが振り返る。

「彼女は一体……? 随分慌てている様子でしたが」
「あ、ああ……あんな様子の『11』、初めて見た」
「『11』? 其れが彼女の名前ですか?」
「いや、あいつはAが購った奴隷なんだ。なんで『11』なのかは……判らないや」

 興味もないしね。そう呟いて棚から取り出した白いタオルをドストエフスキーの頭に被せる。狭い空間に今度はカルマの言葉だけが響く。ぽつりぽつりと語るのは、自身の境遇と先程のドストエフスキーの言葉についてだ。カルマは、細く頼りない印象しかない幸薄な青年に、小さな希望をみた。もしかしたらこの男は、自分や『11』をこの地獄から解放してくれるかもしれない。そんな夢物語を想像し、笑う。すると話が終わるタイミングを見計らったように扉が開いた。『11』が大量のタオルを持って立っていた。

「……もしかして其れ捜しに行ってたの?」
「……」
「おやおや、随分とあわてんぼうなのですね」

 ぼとぼと、女が大量のタオルを床に落とす。頭を抱えて蹲る姿にドストエフスキーは楽し気に笑っていた。

 Aが戻って来る刻限より前に、女を連れてカルマは監禁室から出た。薄暗い廊下を並び歩く女の顔に表情はない。けれど、何処か雰囲気が違う。落ち込んでいるように見えて、カルマは恐る恐ると『11』を呼び止めた。

「なあ……あんた、あの貧血男に惚れたのか?」

 『11』は、日本人らしい黒々とした瞳を一瞬見開くと、直ぐに剣呑に細めた。不快感。其の色に口を噤む。女は、小さくカルマを睨みつけると独り先を行ってしまった。とは云え、向かう方角は同じだ。Aの宝石金庫の見張り、其れが部屋を出た二人に与えられた指示である。前方を歩く女の背からは、微かな怒りを感じる。これ以上の詮索は無意味だ。屹度女は何も答えないし、機嫌も更に急降下する事になる。気まずい空気が流れ、カルマは数歩の距離を空けて女の背を追った。
 然し、仮令女がドストエフスキーに惚れていたところで屹度其の想いは実らない。二人は相容れない悪と悪。あの監禁室から出る事は出来ず、首輪をつける事を拒否すれば、後数時間後には物云わぬ死体になっている事だろう。すると想像して眉を顰めるカルマに、突如として女が振り向いた。女の視線は、カルマの奥、歩いて来た廊下の奥へ向けられている。「な、なに?」問いかけると、つい、女の視線がカルマへ落とされた。

「……あの人は、フョードルさんは嘘が上手いんだよ」

 今、女はなんと云った。否、抑々何故声が出せるのだ。真逆、ずっと声が出ない振りをしていたのか。背筋を這い上がる予感に冷や汗が噴き出す。

「え……な、あんた話せて、あ、おい!」

 女はもうカルマの問いに答えはしなかった。興味の対象は既に廊下の奥へと向けられていて、駆け出した脚は迷う事なく目的地を目指す。灯りも少ない薄暗い廊下。目を凝らすと、ありえないものが見えてくる。真逆、そんな筈はない。けれどカルマの双眼に映るのは、夢などではなく、現実でしかないのである。絶対にもう見る事はないと思っていた異国の青白い男。そして、男の腕にしがみついて満面の笑みを浮かべる『11』の姿が其処にはあった。




 却説、何故自分がこんな状況に置かれてしまったのか。それを名前は、ドストエフスキーに説明する必要があった。己の血溜まりに沈んだ明るい髪を持った少年を見下ろしていたのはつい先程で、この客船で息をしているのは、もうドストエフスキーと名前しか居ない。客船の主であるAは自ら首を吊り、四十九人の精鋭部隊はドストエフスキーにより救いを与えられた。名前の首に、既に首輪はない。能力者であるAが死んだ事により効力を失った鉄屑は、今あの監禁室の床に転がっている。

「名前、よく言いつけを守れましたね」
「え?」
「若し誘拐されてしまったら声の出ない詰まらない人間のふりをしなさい。奴隷として売られるにしても声が出なければ体を売る可能性は低くなる。話したのはもう数年は前なのによく覚えていましたね。偉いですよ」

 怒られると思っていたから、自身を称賛するドストエフスキーの言葉に非道く驚いてしまった。思わず両目を見開いて彼の顔を見上げてしまう。暗い廊下に浮かび上がる青白い顔には薄い笑みが乗っていて、其処に怒りの色はまるでない。

「フョードルさーんっ」

 だから心の底から安堵した。耐えていたものが一気に噴出して、衝動に任せて目の前の薄い体にしがみ付く。ドストエフスキーは、判っていたように両手を広げて名前の体を受け止める。そして骨と皮の両手で彼女の頭と背中を抱いて小さく息を吐いた。

「まったく心配を掛けて……寿命が縮む思いがしました。云ったでしょう? 勝手に外に出てはいけませんと」
「ごめんなさいーっ。お醤油が切れてたから購いに行きたくて、近くまでだから大丈夫だろうって、そしたら、そしたら目の前が真っ暗になってぇ」
「そんな事だろうとは思っていましたけど……貴女も運がいいのだか悪いのだか。まあ、おかげでAの異能リストも手に入った訳ですし、云いたい事は山ほどありますが、とりあえず褒めておきましょう。約九日間よく耐えましたね。もう安心ですよ。おかえりなさい、名前」
「うん、うん……ただいま」

 誘拐されて二日、Aに購われて七日、計九日間。押し殺していた感情の波を押し留める事はもう不可能だった。ぎゅうぎゅうとしがみ付いたまま、船が港近く迄近づくのを待つ。ドストエフスキーの体から香る血の匂いに軽い眩暈を起こし乍ら、名前は彼の外套を握りしめる手に力を込め続けた。

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