ふぅ、と一人ため息を吐く。
さっきリザが言った言葉が忘れられなくて…何だか頭がぐるぐると回っているような感覚。
気を抜いたら崩れ落ちてしまいそうで、私は足に力を入れながら棚からお目当てのファイルを手に取り、机の上に積まれているファイルの山の一番上へと置いた。
『確かあと一つあったはず…』
午後使う資料を持ってきてほしいとリザに頼まれて資料室へ来たのは良いけど、どうにも量が多くて時間がかかってしまう。
『まあ時間がかかる方が有難いんだけど…』
リザとあんな話をした後だからか、ロイと顔を合わせるのが少し気まずくて…多分いつも通り、へらへらなんて出来ないから。
多分リザもそれを見抜いていたんだと思う、執務室から出るときに小声で "ゆっくりで構わないから" って言ってくれて。
いや、公私混同というのは良くないと思ってるし、なるべく気を付けてはいるけれど…でもやっぱりいざ目の前にすると顔を見れなくなってしまいそうになるのだ。
『…本当にそれでいいの、か』
何となく、何となくだけど……私は心のどこか片隅でずっとこの関係が続くんだって思っていたんだと思う。
だけどリザの言う通りで、何事にもいずれ終わりが来る。
…ロイだっていつかは誰かに本気で恋をして、恋人を作って…家庭を持つのだろう。
そうなると今の関係っていうのは当然崩れ去るもので。
その時私は、今と全く変わらない気持ちで居られるのだろうか。
今の関係をそのままずっと続けていて良かったって…そう思えるのだろうか。
ロイが私にしてくれる事全部を他の女性にしたらって考えた時、自分でも驚くくらいに自然と嫌だって思った。
それは私自身が今の関係のままじゃ嫌だって思っている、と言うこと…なのか。
『あーっもう!』
これでもかと大声を出して、大きなため息を吐く。
『分かんないよ…』
リザは、私が気付かないふりをしていると言っていた。
過去のしがらみに、とらわれているからと。
……忘れたくない過去ならある。
絶対に忘れたくない…今でも目を閉じるだけで昨日のように思い出せる過去。
『…あ』
ふと見上げた棚の一番上で探していたファイルを見つけて手を伸ばした。
だけど、背伸びをしてもほんの僅かに届かなくて…段々と震えてきた体に力を入れる。
女性の平均身長よりも少し高い私が棚の一番上まで届かないのには理由があって。
軍に在籍している男性の大半は、鍛えているので体つきも良くて大柄なのだ。
たまにフュリーみたいに小さくて可愛らしい人もいるけれど、それも極一部だし。
例えばアームストロング少佐とか、ブリッグズのバッカニア大尉とか…まあ他にも大柄な人は沢山いて。
そんな大柄な人達が資料を求める時、棚が小さかったら腰を曲げなくちゃだから凄く辛いし…だから大きめに作られているんだと思う。
……そう勝手に思っている。
『ううう…』
資料室の隅の方に行けば木製の梯子があるのに、私はこうなったら意地でも使わない気で。
『おりゃっ』
ぴょん!と軽く飛び跳ねてみたものの、ギッチリと隙間なく並べられているファイルを引っ張り出すのも難しくて。
『届いてよー…!』
…いつの日か、こうして一生懸命手を伸ばしてもロイに届かなくなる日が来るのかな。
ふとそんな事を考えてしまって、伸ばした手はそのままで足を止めた。
嫌だ、嫌だ…届いてほしい。
いつだってどんな時だって…手を伸ばせばロイは笑って私の所へ、
「これかな?」
優しい声と共に、手を伸ばしても届かなかったファイルが私の手元へと来る。
「無理に取ろうとしなくても、資料室の隅に梯子があるだろ?」
後ろから聞こえてくる落ち着いた笑い声と優しい匂い。
…それが誰かなんて明白で。
『な…んでここにいるの?』
思っても見なかったタイミングだったし、扉の音が聞こえなかったしで慌ててしまった私は振り向く事もせずにそんな事を言ってしまって。
「一人では運びきれない量だと思ってな、手伝いに来たんだ」
気にする様子もなくそう言うロイ。
私を気にかけて手伝いに来てくれたのが嬉しくて、でも何だか顔を見れなくて。
『あ、ありがとう!』
振り返ったはいいけど、目を合わせないように下を向いて机に積まれているファイルを指差した。
『そこのファイルで全部だから、』
「…」
『…ロイ?』
ロイが返事をしないのは凄く珍しくて。
…何かあったんだろうか、もしかして私が変な態度取ってしまっているから?
一度考え出したら止まらなくて、また頭がぐるぐると回りだす。
『あ、あの、』
「ななし」
『は、はい』
「顔、見せて」
そう言って私の頬に触れたロイの手は優しくて、温かくて。
今までの態度に罪悪感を感じて私はゆっくりと顔を上げた。
「…」
『ロイ…?』
何も言わずに私を見つめるロイ。
その表情はとても柔らかくて、リザ達に見せるような表情じゃなくて…
『っ、』
自分でも分かるくらいに顔が熱くなる。
バクバクと激しく心臓が動いてる。
もう自分でもどうしていいのか分からなくて、目を伏せればロイがはっと息を飲んだ気がした。
そのあと直ぐに、頬に触れていたロイの手が私の頭を優しく撫でて。
「…さ、行こうか」
『う、うん』
…ロイに触れられた所が熱い。
ねえ、ロイは今何を考えていたの?
二人で執務室までゆっくりと歩いていく。
最初ファイルを全部持ってくれたロイだけど、それは申し訳ないのできちんと半分にわけて。
『…さっき、来てくれた時…ちょっと言い方悪かったと思う、ごめんね』
「ん?気にしてないよ」
そうやって何でも笑って許してくれて、受け入れてくれるロイ。
何だか私が子供っぽく見えて恥ずかしい。
「そういえばこの前、ななしの好きそうな店を見つけたんだ、オムライスやココアが絶品らしい。今夜あたりに、どうかな?」
『えっ』
「きっとななしの気持ちも晴れると思ったんだが…嫌だったかな」
『嫌じゃない!…うれしい、』
「それはよかった、私も嬉しいよ」
私の大好きな食べ物を知ってるのとか、元気が無いと気づいているのとか…全部がどうしようもなく嬉しくなっちゃって。
『…へへ』
たった小さな出来事でも嬉しくなっちゃう私は、相当単純なんだろうな。
…悩む事、考える事は沢山あるけれど…今日だけ、今だけは忘れて。
ロイが連れていってくれたお店は、やっぱり私好みの素敵なお店で。
今日の事を文字通り忘れたように笑って、話して。
ああ、やっぱりロイの側は落ち着くし好きだなぁ…なんて考えて。
いつものようにただいま、と誰も居ない部屋に呟いた。
本来ならそこからは眠れない夜が始まるのだけど、今日は珍しく睡魔が襲ってきて。
ああ、ロイが沢山幸せをくれたから…今日は一人でも眠れるんだ。
今にも閉じそうな瞼を擦って、軍服を脱いでベットへと体を預ける。
薄れ行く意識の中、考えるのはロイの事ばかりで。
私は、ポカポカと温かい体を丸めてゆっくりと目を閉じた。
確かにその時私は、悩んでいる事や考えなくちゃならないことを忘れてしまっていて…だからだろうか。
その日見た夢は私を現実へと戻すには充分すぎるものだった。
絶対に忘れてはならない十字架という名の、過去。
2019/07/28