そろり、そろり。
執務室へ向かう私の足取りは歪なほどに可笑しく重い。
そのせいで周りからの視線が痛すぎるのだけれど、それすらも気にならない程度には焦っているのだ。

私は自分の両手を見てため息を吐く。
手のひらは所々赤く滲んでいて、その周りには砂が沢山付いていて。
そう、転んだのだ。
それはもう盛大に。

事は少し前に遡るが、お昼と称して外へ出掛けた時に子供達が遊んでいるのを見かけて。
ああ、子供は元気だ!なんて微笑ましく見つめながら歩いていたのだが、よそ見をしていたのがいけなかったんだと思う。
少しだけ段差になっている所で足を引っ掛けた私は、気持ち悪いほどの微笑みを浮かべながら地面へと崩れていって、はっと気づいた時には受け身も取れる状況ではなくて。

咄嗟に出た手と膝が犠牲となったのだ。


『休憩が終わるからって急いできたけど……どう説明しよう…』

運の悪い事に転んだ所は砂利道だったし、小道だったのでお店はおろか民家もほぼほぼ建っておらず。
唯一立っていた小さな置き時計を確認すれば、もう道を戻らなければいけない時間で。
本来ならば洗うのを最優先にするべきなのだけど、そういった小さな問題の積み重ねによりそのまま急いで帰ってきた。

が、一番大きな問題はこの先にあって。

ロイ。

ロイが正直面倒くさい。

『素直に転んだなんて伝えれば血相を変えそうだし…黙っていてもバレた後が面倒くさい気がする…』

膝を強くついたせいで足取りも重く、何とか周りにはバレないようにと気を使ってはいるけれどそのせいで歩くスピードも格段と落ちていて。
実はお昼時間ギリギリなのだ。

このまま黙って手を洗って手当てをして…とも考えたのだけど、ロイは意外や意外心配性で。
私が少しでも無断で遅刻すれば心配で仕事をしない……らしい、リザ曰く。

ただでさえ仕事をしなくて困っているのに、と少し溢していた事があって…申し訳なくてそれ以来、何が何でも遅刻はしないと決めてはいるのだ。

と言うことは黙って手を洗いに行く時間も、勝手に手当てをする時間も無いということで。


『…はあ、なんで転んじゃったかなあ』

盛大にため息を吐いても状況が変わるわけでもなく。
ゆっくりと執務室へ向かうその道のりで、どうにか誤魔化せないかと必死に考えた。
…結果たどり着いた答えはこうだ。

執務室に顔を出して何かしらの理由を付けて手を洗いに行く。
その後に手当てを簡単に済ませて、急いで戻って状況説明をして謝る。


『完璧じゃない…!?』

これなら遅刻してロイを心配させることも、怪我をしたからと血相を変えて心配される事も無いだろう。
我ながら完璧かもしれない…!と多少にやける顔を抑えて執務室の扉を開けた。



『ただいまー!』
「おかえり、ななし」

ボロが出ないようにと顔だけひょっこりと出して声を掛ければ、ふわりと笑ったロイが真っ先に返してくれて。
そんな顔で微笑まれると今から嘘を言いづらくなるじゃない…!
なんて思ったけれど、作戦を変更するわけにはいかない。
上手に、嘘を言わなければ。

「入ってこないのか?」
『う……あ、あのね、時間が押してて急いで帰ってきたんだけど、お手洗いがあれしてあれだから……その…あれしてくる!』

ばたん!と勢いよく扉を閉める。

……中々良い理由が作れたんじゃないかな!?
女性がお手洗いと言えば、きっと世の男性はそれ以上詮索してこないだろう。
それにロイは周りからも恨まれるほどのプレイボーイ…そう言った事への気づかいは忘れないはず!

『…作戦成功だ』

にやけた顔を今度は抑えることもせず、私は痛む手を洗いに女子トイレへと向かった。



『うう、地味に痛いなあ…』

手のひらから流れ落ちる水が傷に染み込んでズキズキとする。
いくら軍人で傷に慣れてるとはいえ、痛みまでは未だ慣れることは無くて。

早く済ましてしまおうと痛みを覚悟の上、両手でゴシゴシと砂を落としていく。
綺麗になった事を確認して蛇口を捻り漸く一息吐いた。
指の先からポタポタと落ちる水滴にはほんの少しだけ血が混じっていて。

『…こんなの、ロイに見つかったら、』
「見つかったら?」
『え』

聞き覚えのある優しい声と後ろから伸びてきた私よりも大きな手に思わず振り向けば、少しだけ不機嫌そうなロイが私と私の手を見て大きなため息を吐いた。

「こんな事だろうとは思った」
『え?え?な、何で』

執務室には顔しか出していない筈なのに。

「ななしは嘘をつくのが下手すぎる、何だ "あれしてあれする" って」
『そ、それは…!』
「歩く音も歪で、まるで足を引きずっている様だったし」
『うっ』

もう全てを知っているかのようなその言葉に、まさに開いた口が塞がらなくて。
驚きのあまり、じっと見つめればそれに気づいたロイが私の手を口元まで引き寄せた。

ちゅ、

『いっ!』

雷のように痛みが駆け抜けていって思わず声を上げる。
ロイが手のひらにキスをしたんだと理解するのに少しだけ時間が掛かったけれど、気づいたら気づいたで何だか急に恥ずかしくなってきて顔に熱が集まるのを感じた。

「…痛い?」
『そ、そりゃあ痛いよ!』
「…そうか、」

涙が滲んだままそう言うとロイは何やら不適に笑って、その表情に思わずどきりとして。
不意にもう一度キスをされて痛みが走る。

『いたっ、ちょ、と…ロイ…!』

ちゅ、ちゅ、とわざとらしく音を立ててキスをしていくロイ。
何がしたいのか全く分からなくてただ痛みに震えていたのだけど、段々と痛みに慣れてきた様で別の気持ちがお腹の底で渦巻いてくる。

『ん、あっ』

思わず漏れた自分でも分かるくらいに甘いその声はロイにも勿論の事聞こえていた見たいで。

「ふはっ」
『わっ笑わないでよ!』

笑われた恥ずかしさでロイの胸を小さく叩いてそっぽを向いた。
…そこでやっと思い出したのだが。

『…ねぇ』
「ん?」
『ここ…女性用トイレ』

そう、ここはトイレのはず。
男性であるロイが入る理由も無いはずの女性用トイレ。
あのロイが自分から女性用トイレに入ってくるなんてあるのだろうか。
いや、今現在進行形で入ってきているんだけど!

「おっと私としたことが」
『…絶対分かって入って来たでしょ!』
「どうかな、無闇に恋人を疑うのは悲しいなあ」
『私以外の女の子が居たらどうするの!』
「昼が終わって直ぐなのにトイレに来るのは極少数だろ、おまけにトイレは此処だけじゃないからな」
『!ほら!やっぱり分かってたんだ…!』

素晴らしいほどの推理力だけど、此処まで入ってくるのは中々頂けない事で。

じとっとロイを見れば、何やら思い付いたような仕草をして私をぎゅっと抱きしめた。

『えっ?えっ』

急な事に戸惑いを隠せず、背中を叩いたけれどロイは何も言わずに私と顔を見合わせると
ふっと笑って私へと唇を寄せた。

『んぅ、ん、んっ』

最初から深いその行為に胸を叩いたけれど止むことは無くて。
酸素が上手く取り込めなくて頭がフワフワとしてきた所でやっと唇が離れた。

『は、はっ…こんな所、誰かに見つかったら、』
「見つかったら?」
『…ロイが女子トイレで人を襲ってる変態になると思う』
「それは困るなあ」

全くもって余裕そうなロイ。
その余裕も、きっと先程の理由で人が滅多に来ないから…という所から来ているのだろう。

そんなことを考えつつ息を整えていれば、急に体が浮いて。

「じゃあ誰かに見つかる前に医務室で手当てをしてもらおうか」
『えっ!?』
「なんだ」
『いや、その…抱き上げる必要あるかなって』

そう言うとロイはじとりと私を見つめて、足の方を抱いている手に力を込めた。

『いったー!』
「よくこれで歩いて来れたな」
『…ロイが心配すると思って』
「…………はぁーーーー」
『ロイ?』
「医務室はやめて仮眠室へ行こうか」
『え?』
「私が手当てをしよう、足の他に怪我をしていたら大変だからな、体の隅から隅まで…」
『!?』

咄嗟にじたばたと暴れたけれど微動だにしなくて。
ああ、これは無理だな……と諦めた私は、恐らく全てを察しているであろう執務室の仲間へと心の中で頭を下げた。
…あとで有名店のマドレーヌ買ってこよう。

ちらりとロイの嬉しそうな顔を見て、心配するだろうと思った他に面倒くさいと思った事は黙っておこう、と心に閉まった。




2019/06/18