top text
帝立オペレッタ01(愛国の息子達)
彼がエメザレと出会ったのは二人が十六になる頃だった。正確に言えば出会ったのはもっとずっと昔のことだったが、意識して話し合ったのはその時が初めてだった。
暑くもないあの夏の日は、ただ日差しだけが強くて、外の光に慣れた彼の目には開けたドアの向こうの部屋が、やけに暗く冷たく感じられたのだった。
「よろしくね、エスラール」
部屋の隅に淋しそうに立っていたエメザレが、薄暗い部屋の中からこちらに歩み出て、そう言って微笑んだ時、彼は価値観が破壊されたように呆然と立ちすくみ、直感に打たれた。
エメザレの深い夜淵の色の髪は一本一本が絹のように細く、しとやかで、白い肌は純潔のまま、なんの傷もない。黒い黒い瞳には静かでありながら強い意思が宿り、先天的な悲観を無意識にまとって、そして真っ直ぐに穏やかな気持ちで何かを諦めている。
その瞳を見た時に彼はわかってしまった。
エメザレは美しい根底を保ったまま、腐りきった汚物の中でひたむきに生きているのだと。汚泥は表面にかぶさって、真理を妨げているだけなのだ。
エメザレはまだ無傷だ。まだ死んではいない。まだ狂ってはいない。
彼にはエメザレの本質がなぜか瞬時に、まるで運命のように理解できた。
おそらく今まで誰も、見ることのできなかったものだ。なぜ突然に自分にだけそれが見えたのか、エスラールはわからなかった。
だからエスラールは微笑むエメザレに返す言葉も考えつかず、なんだか感慨深くなるようなエメザレの不思議な瞳を見つめて、しばらく突っ立っているしかなかった。
「エスラール、話がある」
自分の名を呼ばれたのでエスラールは走るのを止めた。十人ほどと並んで走っていたので、仲間たちは次々とエスラールを抜き去っていった。
本日はすこぶる晴天であり、夏らしい夏の日だった。珍しいほどに空が青く晴れ渡り、太陽が照り付けていたが、特に暑くはない。適度に暖かい気温で、こうして延々と走るのにはなかなか丁度よかった。
時はまた昼前だ。普段ならば正午の鐘が鳴るまで走って、それから昼飯になる。このように呼ばれたりしない限り、走るのを止めてはいけないのだ。一緒に走っていた仲間たちは後ろを振り返り、エスラールを気にする素振りを見せながらも、立ち止まる者はいなかった。
クウェージアという国は色々と不条理である。少数の白い髪が、大多数の黒い髪を劣悪に支配している。絶対的な神聖な力とかなんとか適当なことを主張して、とにかく黒い髪を蔑みながら君臨している。
神聖な力やら血やら神やらを、やたらめったら口ずさむくせに国力は貧弱で、黒い髪は慢性的な飢餓に苦しんでおり、毎年の餓死者を積み上げればひと山もふた山も築けそうなほどである。
娯楽も乏しく、そこらの男女が気軽に楽しめそうな行為など一つしかない。望まれない命が産まれ、そして捨て去られ、荒廃し尽したクウェージアには大量の孤児が湧いていた。
クウェージアにおいて孤児というのは国の持ち物でもあった。保護という名目で各地からさらうように孤児たちを集めてきて、女児は諸外国に売り払い、男児は精鋭の軍人に育て上げるのだ。
帝立軍事教育所ガルデンは、最強の軍人を育成すべく設立された軍事施設である。十五から二十四までの男子が在籍しており、休みなく戦闘訓練と勉学と戦争に従事している。
環境としては悪くない。むしろ恵まれているかもしれない。戦闘中に死ぬことはあるが、少なくとも寒さで凍え死んだり、餓死したりはしない。自由を制約され、外の世界を見ることはできなくとも、なかなか上等な飯を食べ、そこそこかっこいい制服を着て、ささやかな日常に笑っていることができる。
二十五になればガルデンを出て、決められた場所になら住むこともできるし、結婚も許されるのだ。それはそれで幸せなことだ。だから孤児たちは、自分を捨てた親を憎んでも、白い髪を憎みはしなかった。
白い髪は孤児を『愛国の息子たち』と呼んだ。
エスラールはガルデンに在籍する、そんなクウェージアの孤児の一人だった。
「悪いね。訓練の途中に」
声のした方向には外廊下があり、誰かが立っているのがわかった。外があまりに明るいせいで、外廊下は薄暗く、立っている人物の顔がよく見えなかったが、エスラールはとりあえず近付いていった。
そこにはサイシャーン前期総隊長が、無愛想な顔つきで佇んでいた。
前期総隊長といっても歳は十九でエスラールと三つしか変わらない。
顔全体は刃物のように鋭く、特に人工的に作られたかのような細すぎる鼻筋が、強く冷徹な印象で、近寄りがたい雰囲気を作り出している。襟足の長めな黒髪を全て後ろに流していて、その髪型がまた神経質そうに見えるのだ。
だがエスラールは、サイシャーンが見た目に似合わず面倒見のいい穏やかなひとであることを知っていた。
「いいえ。走るの、飽き飽きしてたんで助かりました」
とエスラールは笑って見せた。エスラールの笑顔には徳がある。魔法のような徳だ。彼はけして美男子というやつではない。美しいとか整っているとか、そういう部類ではないが、不細工なのかと言われると、そうでもない。つまり取り留めのない顔立ちであるのだが、凡庸と呼ぶには愛嬌がありすぎる。
普段から少し垂れ気味の目元は、笑うと絵に描いたような弧を作り、頬にはくっきりとした笑窪ができた。大きめの口元も彼の表情を最大限に生かしている。髪は茶色に近く癖毛であり、いくらとかしても外はねが直らない。それが適当に放置されて、後ろ髪が肩の辺りまで伸びている。
体格は痩せ型でひょろ長く、まだ横幅の成長が縦に追いついていなかったが、いずれはもう少々の筋肉がついて男性らしさが増しそうな感じである。
「そうか。走るのは飽きたか。私も訓練は飽きた」
サイシャーンはエスラールにつられるようして笑った。その笑顔は微妙に不気味であったりしたが、悪意があるわけではない。顔面の構造上、仕方がないのだ。
「今日はなにかの会議ですか?」
総隊長といえども偉そうなのは名ばかりで、実際はただの一隊士である。本来であるならば、サイシャーンも訓練に参加していなければならない。
サイシャーンの服装をよく見れば正装をしていた。普段の制服に三本タイをつけているだけなのだが、それが正装ということになっている。エスラールのような平の隊士は、三本タイなどめったに使う機会に恵まれない。そういえば俺は、三本タイをどこにしまったかな、とエスラールは唐突に気になった。
「会議というか、呼び出しだよ。軍事教育総監直々にお呼び出しをくらったんだ。そして一方的に面倒ごとを押し付けられてきた」
と言ってサイシャーンは深くため息をついた。軍事教育総監というのはガルデンで一番お偉い方である。早々お目にかかることもなく、行事の挨拶かなにかで演説を見たかもしれないが、顔は浮かんでこなかった。
「軍事教育総監とは、なんだか物々しいですね。もしかして三日前の殺人事件の件ですか?」
「ああ……まぁ、関係はあるな」
言葉を濁してサイシャーンは深刻そうに頷いた。
「でも殺人事件は二号隊で起きたことで、僕たちの一号隊とは全く関係ない、とまでは言いませんが、さして関係ないような気がしますけど」
ガルデンの構成は十九歳までの前期と二十四歳までの後期にわかれているが、さらにそれぞれが一号隊と二号隊にわかれている。一号隊か二号隊か、というのはガルデンの入隊時に勝手に振り分けられて卒隊まで変わることはない。集団での戦闘が常なので、団結力とチームワークがなによりも大切だからだ。
一号隊と二号隊は同じガルデンという建物にいながら接点がほとんどない。仲が悪いというのではなく、話す機会に恵まれないのだ。寮も別々の建物だったし、カリキュラムは設備の問題で、わざわざ被らないように調整させている。食事の時間帯すらずれている。年に数回、合同訓練や剣術大会で顔を合わすことはあるが、あとは廊下ですれ違うくらいの交流しかなかった。
殺人事件となれば、それはさすがに大事件ではあるのだが、二号隊での出来事は近くでありながらも遠い世界の出来事のように、頼りない噂話しか流れてこない。お偉いさんから説明の一つも欲しいところだが、ガルデンはそこまで親切ではなかった。むしろそういった事柄は隠蔽する傾向にある。
そんなわけでエスラールは、ガルデン内で殺人事件が起こったことは知っていたが、誰が誰をどのような動機で殺したのかは曖昧にしか知らなかった。
「殺人事件自体はもう解決したからそれはいいんだ。犯人はその場で取り押さえられたんだ」
「え、そうなんですか」
「問題は殺人事件の原因の方だ。なんせ原因である彼は被害者でも加害者でもない。制裁を加えるわけにもいかないが、二号隊に放置しておくわけにもいかない。再び同じような事件が起きるのは困る。だから一号隊に彼を転属させることにした。ということだった」
「その説明だと、僕にはよくわからんのですが」
もしかしたら総監から事件の詳細を言いふらさないように、と言われているのかもしれない。サイシャーンは故意に要所をぼかして説明している。
訓練中にわざわざエスラールを呼んだということは、エスラールに関係があり、なおかつそれなりに重要な用件である、ということだ。しかし、察するにあまりいいことではなさそうだ。エスラールはちょっとばかり逃げたい気分だった。
「君には悪いと思っている。私は責任転嫁するつもりはないが、とにかく彼が一号隊に転属してくることは、総監からの絶対命令で止めようがなかったわけだ」
「はぁ」
「そういうわけだから彼は強制的に一号隊にやってくる。私は基本的に、彼を歓迎してやりたい気持ちはあるんだ。しかし明らかに面倒ごとが起きそうな気配がするのはわかるだろう?
なにしろ殺人事件の原因を作った奴だ。ぽいと一号隊に放り投げて、勝手に自然に仲良くやってくれ、というわけにはいかないんだ。最終的には仲間になってほしいが、まずは彼に誰かが手を差し伸べて、一号隊の輪の中に入れるよう手伝ってやらないといけない」
「なるほど。その誰かが僕なわけですね。彼が仲間に入れるようフォローしろってことですか?」
確かに適任だな、とエスラールは思った。エスラールは友人が多かった。仲がいいとかよくないとか、あまり気にせず誰にでも親しげに話しかけてしまう性格なので、とりあえず知り合いは半端なく多い。というか一号隊で話したことのない人物が思い当たらないほどだ。顔の広さには自信があったし、誰がどんな性格で、なにが好きか嫌いかというのをだいたい把握しているつもりでもある。
「だが生半可のフォローでは駄目だ。名目上はフォローということにしておくが、実質的には監視に近いこともしなくてはならない。彼が妙な行動を起こさないよう四六時中、くっついて見ていてほしい」
「四六時中……? ということは、もしかして僕、お引越しですか!?」
さすがに驚いてエスラールは叫んだ。
四六時中ということは、つまりその“彼”とやらと一緒に住むということになる。話を聞く限りでは得体の知れない奴であるだけに、エスラールはいささかビビってしまった。
それに、これまですっと同室だったヴィゼルのことも気にかかる。ヴィゼルとは帝立軍事教育所に入隊する前の、大護院の入学時から――つまり七歳の時から十年近く同じ部屋で暮らしている。一番の友達で大きなケンカもすることなく、仲良く楽しくやってきていた。
さすがにもう十六なので、部屋がわかれたくらいでヴィゼルも泣きはしないと思うが、長い間一緒にいた同居人が突然にいなくなるというのは寂しかろうし、何を隠そうエスラール自身が結構心細かった。
「そうだ、エスラール。君は彼と同室となり寝起きを共にすることになる。申し訳ない。しかも今日からだ。唐突すぎて本当にすまない。荷物はもう運び出されているはずだ。勝手に本当に申し訳ない。しかし総監に適任者を挙げよと言われて君しか思いつかなかったのだ。それにしてもすまない。激しく申し訳ない」
「ええええぇぇぇ! き、今日からですか……!」
「そうだ。すまん」
しかし本当に申し訳ないと思っているのかどうなのか、サイシャーン総隊長の顔面は言葉とは裏腹に大変涼しげである。これも顔面の構造上、仕方のないことということで片付けてやりたいが、やはり納得がいかない気がする。
エスラールは自分の意思に関係なく物事が運んでいることに多少苛立ったが、嫌だと駄々をこねたところで、どうしようもないのだ。ガルデンで意思を主張しても全く意味がない。上からの命令はとにかく絶対だ。
それが餓死も凍死もしないで、ちゃんと生きていられることへ対しての、ささやかとはいえない代償なのだった。ゆえに、ここで暮らしていると妙に物分りがよくなるようである。
「まぁ……決まってしまったことは仕方ないです。どうせ異議の申し立ては不可なんでしょうし……ムカつきますけど。で、彼って誰ですか?」
サイシャーンは先ほどから彼、彼、といって名を出していない。せめてこれから一緒に住む奴の名前くらいは聞いておきたいものだ。エスラールは不服そうな顔をしつつ、そう言った。
「彼は彼だ」
「名前は?」
「彼だよ。あの例のエメザレだよ」
「え」
エメザレ、と聞いてエスラールは言葉を失ってしまった。
エメザレ。その名はあまりに汚れている。悪い噂しか聞かない。二号隊の内情は噂でしかわからないが、流れてくる噂の半分以上がエメザレに関することで、しかも気分が悪くなるような、えげつない艶聞ばかりなのである。
簡単に言ってしまえば、エメザレは誰とでも寝る、というのだ。
ひどい淫乱で一日三人に相手をしてもらわないと寝付けないとか、誰かとやっていないと正気を保てないとか、魂がもう死んでるとか、二号隊でエメザレと寝てない奴はいないとか、夜に二号寮の前を通ると喘ぎ声が聞こえるとか、挙げればきりがないが、とにかくそんな部類のことだ。
ガルデンには男子しかいない。年頃の男子を一つの建物に押し込めば同性愛が蔓延るのが当たり前で、否定のしようもないし止めようもない。その闇は根深く、心の染みのようになって完全に取れることは生涯ないだろう。それも代償の一つだ。
それはそれとしても、同性愛を美談にまとめあげることくらいはできるはずだ。もともと称賛されないことに、さらなる不名誉を捧げる必要はない。
エメザレと話したことはないが何度も見たことがある。つい振り返って、まじまじと見つめたくなってしまうような顔立ちだ。華奢で儚い印象がする。目立とうとしているわけではないのだろうが、オーラともいうべきか独特の雰囲気がある。そういう対象になる要素は充分だ。
だがエスラールにはエメザレが、ガルデンのありったけの背徳を固めて掲げているように見えた。エメザレはガルデンの闇を目立たせる。闇はそっとしておけばいいのだ。エメザレを見かけるたびに、やりきれない気持ちになった。嫌悪に近かったのかもしれない。
「勘弁してくださいよ! 無理です。嫌です。たぶん嫌いです。僕。彼のこと」
無意味なのは知りつつ、エスラールは抗議した。回避できるならば、腹踊りでも裸踊りでも喜んで踊ったことだろう。
「私も申し訳ないとは思っているんだ」
「それはわかりましたけど……」
「君の言うことには影響力がある。友人も多く、皆、君には一目置いている。また君は強い。君とケンカをして勝てると思っている奴は少ない。君がエメザレの傍にいるだけで寄ってくる奴は減るはずだ。そして君は純情で無邪気な男だ! エメザレに毒されないと信じている! それが君を選んだ最大の理由だ」
サイシャーンはエスラールの両肩にがっちり手を掛けると、冷徹な表情のまま器用にも瞳だけ輝かせて力説した。
「確かに僕は、童貞を異性に捧げたいと思っていますけれども……」
「そうか、よく言った! しかし、そういうことは声に出して誓わなくてよろしい。心の中で唱えてなさい。そういうわけだからエメザレを頼んだ。まともな生活というやつを教えてやってくれたまえ」
サイシャーンはエスラールの肩をぽむぽむと二度強く叩くと、惚れ惚れするような華麗な動作で身を翻し左手を控えめに掲げた。
「では、さらば」
堂々とした、痺れるような気風に圧倒されて、エスラールは男らしいサイシャーンの背中を見送っていた。
そしてすっかり見送ってしまってから気が付いた。
「てゆーか、部屋、どこになったか聞いてねーし……」
◆◆◆
エスラールはガルデンの外観を数えるほどしか見た事がないが、印象深い建造物だと思う。ガルデンは箱に似ていた。黒く大きな綺麗な箱だ。
ガルデンのある軍事都市ザカンタは、いたく機能的な街並みで、エスラールが幼少を過ごした大護院から見える田舎の風景とは全く違う佇まいだった。
ガルデンは白い髪が愛国の息子たちに与えている恩恵の象徴のようなものなのだろう。ザカンタの中で場違いに綺麗だった。
ガルデンの構造はといえば、長方形の額縁の縁を連想させる。ぽっかり空いた真ん中は砂地で大規模の訓練を行えるようになっていて、四方には二階建ての長い建物がある。上が一号寮、下が二号寮、左右は共同の実用施設で、四棟は輪を描くように外廊下で繋がっている。
そんな一号寮を、エスラールはとぼとぼと歩いていた。正午を知らせる鐘はまだ鳴らない。一号隊はいまだに中庭を延々と回りながら走っているらしく、時々まとまった足音が近付いてきては遠ざかっていった。誰もいない一号寮は静まり返っている。
エスラールは一度自室を訪れてみた。一番の友達と暮らしていた楽しい思いの詰まった部屋だ。だが開けてみると自分の荷物がどこにもなくなっていた。たったそれだけのことなのに、実際目の当たりにすると、まるで自分の存在が消えてしまったみたいで寂しくなった。
ふと机に目をやると紙の切れ端が置いてあった。
“エスラールは総監命令により、本日から部屋移動となった。移動先は二〇二号室だ。急ですまない。本当にすまない。泣かないでくれ。申し訳ない――――サイシャーン前期総隊長”
この文を書いている、サイシャーン総隊長の冷酷な面が浮かんできた。案外心を痛めているのかもしれないな、と思いながらエスラールは大きなため息をついて、二〇二号室に向かうことにした。
二〇二号室は二階ある。二階に上がると、外廊下から一号隊の仲間達が走っている姿が見えた。本来ならばすぐにでも二〇二号室に行って、エメザレと挨拶を交わさなければならないのだろうが、そんな気分にはなれなかった。
なにを話せばいいのかもよくわからない。どんな顔をして会えばいいのかも見当がつかない。
エスラールはしばらく、仲間達と晴れ渡った青空を交互に見つめて、ああ、なんかもう俺、雲的な存在になりたい。などという女々しい空想を繰り広げながら、ため息ばかりをついていた。
「行くか……」
エスラールは自分なりの覚悟を決めて呟いた。もう決まってしまったことだ。嫌でもなんでも突撃するしかない。
重い足をなんとか引きずって、エスラールはやっとこ二〇二号室の前に立った。中には、もうエメザレがいるだろう。深く深く深呼吸をしたのち、彼は二度ノックをして間髪入れずに勢いよくドアを開けた。
外の光に慣れた彼の目には開けたドアの向こうの部屋が、やけに暗く冷たく感じられたのだった。
薄暗い部屋の隅で細い影が立っている。
よく表情も見えないのに、エスラールはまるで来ない誰かをずっと待っている孤独のようなものを感じた。エスラールに気付いたその影は、そっとこちらに近付いてくる。彼は思わず身構えた。
「よろしくね、エスラール」
そう言って微笑んだ時、やっとエメザレの輪郭がはっきりと見えた。エスラールは初めて間近でエメザレを見たのだ。
遠くから見るよりずっと目元が鮮やかだ。静脈が透け、僅かに青味がかっていて、その上から上気しているような赤味がうっすらと差している。
深い夜淵の色の髪は一本一本が細くしっとりした光沢を放ち、はっとするような白い肌は、まだ誰にも踏まれたことのない雪のように純潔だ。
黒い瞳には静かでありながらも屈強で直線的な意思が見て取れた。本有的な悲愴を背負い、全てを抱きしめるようにして、そして何かを諦めている。
エスラールはエメザレから目を離せなくなった。けして一目惚れに落ちたのではない。エメザレの瞳を見て直感に打たれ、わかってしまったからだ。
エメザレは無傷だ。魂は死んではない。狂ってもいない。噂は全て嘘なのだ。誰かが悪意を持って作り上げたのだ。そうでなければこんな生きている眼を持っているわけがない。
エスラールにはエメザレの本質がなぜか瞬時に、まるで運命のように理解できた。おそらく今まで誰も、見ることも気付くこともできなかったものだ。なぜ突然に自分にだけそれが見えたのか、エスラールはわからなかった。
このひとを、助けなくてはいけない。
とにかくエスラールはそう思った。
【前へ
次へ】