6



記憶が無いというのは、心にぽっかりと空いた穴のようなものだ。

血も、肉も、骨も。
五体満足に詰まっていて、どこにも悪いところなど無いはずなのに。

脳の――自分を自分たらしめる精神の、その中にある一部分の、記憶と呼ばれる部分。
その部分に、埋めようのない大きな欠落がある。

知識は詰まっていても、『思い出』は無い。
何とも奇妙な感覚だと、バクラは繰り返し思う。

バクラ――そう、便宜上呼ばれるその名前だって、『彼女』がくれた仮の名前にすぎないのだ。
今、玄関先で、警戒心をむき出しにして訪問者に応対している女。

ミョウジ ナマエという彼女。
ケイサツと名乗った奴らが口にした名字といい、彼女が風呂に入っている隙にこっそり盗み見た身分証の住所・氏名といい、彼女の身元に関しては恐らく嘘は無いのだろう。

後ろ暗い部分があって、素直じゃなくて、でも『バクラ』にだけは健気さすら感じさせるほど懐いてくる女。

そんな女が、身元不明の怪しい異国の男を出し抜いて、ケイサツを呼んだとは――やはり考えられない。

であれば、この家に警察とやらが訪ねてきた理由は何だろうか。
蓮っ葉なナマエは、バクラの知らぬ間にどこかで悪事でも働いて、とうとうそれがバレてしまったということなのか――

あるいは。
今ここにいる『バクラ』という人間の存在が、全ての元凶だとしたら。

どうやらこの国は、身元の確かでない異国人の滞在を許すほど寛容ではないようだし、それこそ『バクラ』が記憶を失う前に、巷の警察官を血眼にさせるような大犯罪を犯していたのだとしたら……

分からない。

バクラは部屋の奥でじっと息を殺し、玄関先のやり取りに耳を済ませていた。
それから窓の方へ音もなくにじり寄ると、カーテンの隙間から外を伺ってみる。

ここは2階だ。
いざとなれば、窓を開けて飛び出し……壁に沿って上下に伸びる排水パイプを足場に、多少荒っぽくとも階下へ降りて単身逃走することは不可能ではない。

実際に試したことはないが、これは確信に近いものだった。
記憶のないバクラだが、己の身体能力、そして空間の上下左右の距離感を目測で測ることには何故か自信があった。
勿論、その自信がどこから来るものかは分からないが。

「……本当に、ほとんど何も渡してません!
お金を貸したことはあったかもしれないけど……覚えてないくらい少額だし。
結婚の話だって、そんな――」

ナマエの色めき立った声が玄関から響いてきて、バクラは窓から離れると再び玄関口の方へ意識を向けた。

「――でも、彼の口から君の名前が出たのは確かだから。
……本当に、何も被害はない?
後から申し出ても遅いんだよ?
結婚を匂わせて、ちょっとずつ借りる金額を増やしてって、そういう手口だから」

「ッ…………、
ていうか、あたし、ぶっちゃけ迷惑してたんで!
別に、そこまでちゃんと付き合ってるわけでもないのに……
なんか将来のこと? とか勝手に盛り上がられて……

あたし、全然本気じゃなかったんで。
他にちゃんと付き合ってる人もいるし。
だからあんまりあの人のこと、覚えてないっていうか……
もし彼があたしの名前出したとしても、そういうの信じないで欲しいっていうか……」

「……じゃあ逆に、彼から何か援助を受けた覚えは?
金銭じゃなくても、高額な贈り物とか、旅行とか」

「ないです。
あったらこんな生活してません」

「そうですか……わかりました。
また何か思い出したらここに連絡ください」

………………


ガサゴソという雑音。
それから、バタンとドアが閉まる音。

間髪入れずガチャン、と鍵の回される音と、チェーンを仕掛ける音。

直後にやってきた静寂は、2人組の警察とやらが退去し、ナマエが直後に内側から鍵とドアチェーンを掛けたことを示していた。

「…………死ねよ、もう」

ボソリと吐き出された悪態は小声だったが、バクラの耳にもしっかりと届いた。

怒りのこもった女の声。
バクラは、警察が自分を追ってきたのではないことに安堵しつつ、彼らの来訪ですこぶる機嫌を損ねてしまったらしいこの女をどうするべきかと、人知れず肩を竦めたのだった。



「………………」

食卓と化しているテーブルに並べられた二つのカツカレー。
ドレッシングのかかったサラダと、飲み物。

それらを前にして、未だナマエは口元を引き結んで何かを考え込んでいる様子だった。


国家権力の犬である男たちが帰ったあと。

バクラは、正直いいところで中断されて持て余し気味だった熱を再びナマエに向けようと、慰めるフリをして玄関先で立ち尽くす彼女の肩をそっと抱いてみた。

――が、やんわりと褐色の手を振り払い、バクラの腕の中から抜け出て行った彼女は、
「お腹すいたでしょ。もうすぐ出来るから座ってていいよ」
と、バクラの顔を見ずに言い放ち――その声からは、必死に不機嫌を出さないようにとの努力が伺えて――バクラは、これはもう今は駄目だと諦めて、大人しく居間へ戻ったのだった。


テレビから流れるくだらない笑い話。
チャンネルを切り替えれば、見たことのないアーティストが聞いたことのない音楽を奏でている。

カツカレーを有難く平らげたバクラは、「カレーのおかわりあるよ」という彼女の言葉に甘えて二杯目のカレーを胃袋に収めたあと、冷凍庫にあった棒付きアイスを頬張っていた。

「…………ていうかさ、」

唐突に開かれたナマエの口。

ぐっと寄せられた眉根に、これは長引きそうだと思ったバクラはなんとなくテレビを消してやった。

訪れる静寂と、はぁ、という大きなため息。
食べ終わった皿をずらしテーブルに頬杖をつく女は、それからポツリポツリと話し始めた。

「……あたしの男運が悪いのと、あたしに人を見る目がないのと、あたしが馬鹿なのが一番の原因だってのは分かってる」

「けど、少しくらいは期待したっていいじゃん?
ようやくまともな……、まともすぎる人が現れたんだから」

「若干上から目線なとこと育ちのいいところがムカついてたけど、ふっつーにまともだったし。
殴らないし、怒鳴らないし、働いてるし、お金せびって来ないし、常識あるし、浮気しない……ていうかそういう素振り見せなかったし」

「ははっ、笑っちゃう。
ぜーんぶ嘘だったんだって!
仕事も、家族も、経歴もなんもかんも!
家族写真だって見せてくれたアレも嘘だったとか。ウケるんだけど」

「結婚詐欺だって。馬鹿じゃない??
……他に何人も被害者がいて、何やかんや理由つけて、お金渡しちゃってたんだって。
バッカみたい。金せびられた時点で気付けってーの」

「……じゃあ、なんであたしにはお金要求しなかったんだよって話じゃん??
そのせいで、警察に疑われたんだけど。
『あたしが奴の本命で、みんなから集めたお金あたしにつぎ込んでるんじゃないか』って。
そんな金あったら苦労しねーっつーの!」

「あたしがあまりにも金欠なもんだから、取るものも取れなかったんだろうね。
だったらなんで、あたしが振るまで付き合ってたんだろ。
やっぱ体目当て? それしか考えられないもんね」

「…………本当サイアク。
あんなのと、一度はちょっとでも将来を考えた自分自身に一番腹が立つ」

「でも、結果的に奴を振ったあたしの『勝ち』で、それがあったからバクラに出会えたんだからまぁいっか」

「……そいつを振った晩だったんだよ、路地裏で寝てたバクラを見つけたの」


ナマエと呼ばれる女は、バクラの無言の相槌を意に介さず、長々と一連の出来事について語った。

それは、何故先程警察が彼女を訪ねてきたかという疑問に対する答えであり、何故それで彼女が惹かれ始めていただろうバクラの手を振り払うほど気分を害したかという理由にもなっていた。

バクラ自身にもわかるほど心を許し、甘え始めたナマエ。
触れ合うことが嬉しいという興奮を隠さずにバクラの熱を受け入れようとした彼女はしかし、無情な横槍のせいでふと我に返ったのだ。

自分がどれほど、過去に男関係で泣かされて来たかを。

昼間の、『友達だと思ってた女に男を寝盗られた件』といい、彼女が自分で言う通りナマエという女は確かに人を見る目がないのだろう。
それはもう、悲しいほど。

だから彼女は、『邪魔者』である警察が帰っても、記憶喪失正体不明の男と再び触れ合う気にはなれなかった。

端的に言えば、『そういう気分じゃない』というやつだ。
複雑な女心――そう言ってしまえば理屈は容易いが、バクラにしたらとんだとばっちりだった。

体目当て――ナマエがかつて交際していた詐欺男を揶揄した言葉だ。
彼女はお得意の意地とプライドで、その男に一時は本気で絆されていたことを警察から隠した。
結婚詐欺男に金を巻き上げられるよりはマシだが、体目当てでキープされていたことも彼女にとってはだいぶ堪えたに違いない。

そんなところに、いくら少し前まではその気だったとはいえ、欲望むき出しの男が手を出したらどうなるか。

ナマエはきっと失望するに違いない。
バクラに、というより、男という生き物のデリカシーの無さに。

無論、本来であればバクラ的には、彼女にどう思われようが関係ない……というより、彼女の心が離れてしまうことで、メソメソ凹むような湿っぽい精神性は持ち合わせていない。

けれども、その女が、『身元不明の自分を居候させてくれる都合の良い女』であるところが問題なのだ。

現状、ろくに仕事もしていないバクラをほぼ無条件で家に置いてくれるナマエの親切心はどこから来ているものか。
考えるまでもない。

少し尻尾を振っていれば飼い主がニコニコ顔でエサと寝床を用意してくれるのに、わざわざ飼い主の手に噛み付く犬が居るだろうか。

もっとも、この例えはバクラという人間の本来の気質から考えれば大変不本意なものではあったが……
だが、それがどれだけ不本意でも、バクラは現状空手に近いのだからぐうの音も出ない。

そういうことだった。


「さっきは手を振り払ってごめん。
……欲求不満なんでしょ、バクラ。
いいよ。好きにしていいよ。

なんて言うか……
バクラは、最初から『怪しい』って分かってるから。
だから手のひら返されても多分傷つかない。
……だから、いいよ」

――哀しいほど、憐れな女の強がりだった。

黙り込んだままのバクラを一瞥し、ナマエはのそりと立ち上がる。
テーブルの上にあった皿をまとめ、キッチンへ持って行った。

次いで聞こえてくる水の音と、カチャカチャという食器が触れ合う音。
これが心から優しい男なら、食器洗いくらいしてやるよと気遣うのだろうか。

ただ一つわかることと言えば、たとえ記憶があろうとなかろうと――バクラという人間はそもそも、そういった安っぽいヒューマニズム精神は持ち合わせていないということだった。

女、いや女に限らずとも、相手が何を欲しているかは、ちょっと頭を働かせれば推測することは難しくない。
が、頭の中で浮かべたその『答え』を、では実際に提供してやるかといえば……恐らくきっと、そうではない。

(くだらねえ)

根本はきっとそれだった。
女の複雑な感情も、表に浮かび上がってくる機嫌も。
大層傷ついたらしい過去その他諸々も。

『バクラ』にとってはくだらなくて、滑稽で、どうでもよくて、無関係なのだ。

バクラと名付けられた記憶喪失の男の前にただ『通りすがった』、ナマエという女。
図らずもその男に好意を寄せてきた、ただの女。
その好意に胡坐をかいて、もてあました欲求や一時的な衣食住が満たされればそれで良かったのだ。

ただ、それだけだった。
……そのはず、だった。



食事を終え、後片付けを終えたナマエは一人風呂場へと向かって行った。

訪れる沈黙。

もしここで、彼女の後を追って浴場に乱入したらどうなるだろうか。
彼女は悲鳴を上げ、バクラを拒むだろうか。

それとも、なら仕方ないと、半ば捨て鉢になって彼を受け入れるだろうか――
先刻の、『好きにしていいよ』という発言に滲んでいたのと同じ気配を纏わせながら。

嫌がるナマエの体を暴くのは、それはそれで楽しそうだとも思う――
途端に、鈍く疼いた下腹部。

自分に加虐嗜好があるかもしれないとは、薄々気付いている。
記憶がなくたって、人間としての性癖がどんなものかは本能的にわかっているのだ。

だが、全てを諦め、心の壁という名のガラス越しから冷たい目を向けてくるような、捨て鉢になってしまった女を力ずくで組み敷くのはどうだろうか。

試すまでもない。
きっとそれは、前者とはまるで比べ物にならないほど退屈なはずだ。

バクラは、悶々とした熱を持て余しながら、人知れず頭を掻いたのだった。


「シャワーどうぞ」

そうこうしているうちに、入浴から帰ってきたナマエ。
彼女の一言に応えつつもバクラは、季節柄彼女が薄着であることと、風呂上がり特有の艶かしさに、思わず眼を見張ってしまう。

もはやこれは本能だからどうしようもないと、無理矢理自分を納得させるバクラ。

それから自分も風呂を頂いた彼は、とっくに慣れたシャワーやシャンプー等を使い、手早く全身を洗っていった。

過去に一度だけ、「一緒に入る〜?」と、ふざけた口調のナマエに誘われた事がある。
あの時、からかわれたことに舌打ちをせず彼女の言を真に受けて服を脱いでたら、もっと早く懇ろになれたのだろうか。

が、バクラはその機会を見送った。
据え膳を有難く頂かなかったのは、やはり彼女への……というかこの環境全てへの警戒心と、記憶がないという混乱が色濃く残っていたからだ。

あれから何日経っただろう。
バクラは頭の中で日にちを思い返しながら、濡れた前髪を掻きあげるのだった。


タオルで頭を拭きながら、バクラはいつものようにソファーのある居間に戻った。

ひんやりとしたクーラーの風が、風呂上がりの火照った肌に気持ちいい。

エアコンがつけられたままの部屋はしんと静まり返っていて、ナマエがすでに寝室に引っ込んでしまったことを表していた。

「…………、」

暑い。
この暑い季節を夏と呼ぶのだと、バクラは自然と知っていた。

ミネラルウォーター……が切れていたため、水道から直接コップに水を汲み、冷凍庫にストックされていた氷を放り込む。
それを呷ってガブ飲みしたバクラは、髪が乾くまでソファーの上で涼むのだった。


十数分後。
バクラは無言で寝室に足を踏み入れた。

明かりが消された部屋は、廊下から差し込む光だけが頼りで薄暗い。
だが、その薄暗さが丁度いいと彼は思った。

闇はバクラにとって決して忌むべき存在ではなかった。
どうやら夜目も利くようだし、むしろ何か都合の悪いことをするのに好ましいとすら思える――
その『何か』が具体的に何なのかは、未だ分からなかったが。

クーラーが控えめに風を吐き出す、薄暗い部屋。
入り口に背を向けながらベッドに入っているナマエ。

闇の中にぽつんと浮かび上がっている四角い光は、彼女がまだちゃんと起きていて、寝ながら携帯端末を弄っていることを示していた。

バクラは無言でベッドに手を掛け、薄手の肌布団をめくった。
一応慎重に、心なしかゆっくりと体を滑り込ませてみたが、彼女からの抗議はなかった。

ごろん、と並んで横になる。
ただの共寝の構図。

もちろん、これが本当に共寝で終わってしまうなら、こんな狭く暑苦しいシングルベッドにお邪魔するよりもいつものソファーで単身寝たほうが良い。
その方が自由にくつろげるからだ。


「…………、」

何となく。
気まずい、というのはこういうことを言うのだろうか。

歓迎か、拒絶か、はたまた無反応か。
その中でどれが一番やりづらいかと言ったら、やはり無反応だ。

『好きにしていいよ』
――彼女の言。

なるほど、文字通り、『あなたの』好きにしていい……
つまりその後に続くのは、『あたしは構わないから』ということだ。

『好きにして構わない』……それは一見寛容にも聞こえるが、実質的には諦観に近いものだろう。
『あなたが何をしようと構いません、あたしは傷つきません、だから平気』という意地っ張りな女の強がりで、そう突き放すことで自分の心を守る、ナマエのどうしようもない弱さだ。

(めんどくせえ……)

バクラは率直にそう思った。
ナマエの過去も、その過去から引きずった呪いじみた性質も、きっとバクラの知ったことではない。
捨て鉢にならずに、嘘でもいいから少し恥らう素振りでも見せてくれれば、互いに幸せになれるのに。

そんな勝手なことを考えながら、しかしもはやどうでもいい……好きにしていいというなら、好きにするまでだ。
そう決意したバクラは、彼に背を向けて携帯端末を弄り続けるナマエの背後から手を伸ばした。

抱き寄せるように腕を回し、彼女の後頭部に唇を寄せる。
やわらかく鼻腔をくすぐった、シャンプーの香り。
そこに僅かに混じる、ナマエ本来の匂い。

生きた女の体温が、入浴後の熱の余韻が残るバクラの体から汗を誘発する。
だが彼は、どれだけ暑くても今はナマエを離すつもりはなかった。

ぎゅっと腕に力を込める。

「いつまでも拗ねてんじゃねえよ」

と同時に口から流れ出たのは、彼自身にも予想外の言葉だった。

「…………、」

待て。
いま自分は、何を言った……?

このタイミングで発せられた台詞は、もしかすると慰めに聞こえるのではないか……?

そうハッとしたバクラは、しかし次の瞬間には、再び自分でも理解できない言葉を吐き出していた。

「忘れちまいな。過去のことなんてよ」

口にした瞬間、胸がずきりと疼く。

…………、

全くもって意味が分からなかった。
今、まるで彼女を慰めるような言葉を紡いでしまったことも、何故か自分の心臓が締め付けられたことも。

「……っ」

ただバクラにわかるのは、ベッドの中で抱き締めた女の身体が予想以上に女だったものだから、自分の下半身がどうしようもなく熱くなっているということだけだった。

ナマエを腕の中に閉じ込めながら、昂った部分を彼女の尻にぐいと押し付ける。
彼女はとっくに携帯端末を弄るのをやめている。
きっとバクラの欲情にも気付いているはずだ。

じりじりと燻るような熱が、背筋を焼いている。
直前に図らずもかけてしまった慰めらしき言葉さえ、この熱をナマエに受け入れてもらうための媚びから来たものだったのだと思えてくるほどに。

「ナマエ……、」

いいだろ、とも、やらせろ、とも言わない。
彼女が好きにしろと言ったのだから、そんな確認なしに好きにさせてもらう。

そう自分でもはっきりとわかるほど性的な興奮を覚えていたバクラは、背後から回した手で、ナマエの胸をまさぐった。

いつだったか、ふざけて彼女の胸部を揉みしだいたことを思い出す。
あの時と同じ感触は、しかしずっと柔らかくて、扇情的だった。
恐らく下着を着けていない、生来の膨らみ。
路地裏で目を覚ましてから初めて触れた、ふざけたじゃれ合いではない異性の身体。

肌を覆っている服を剥ぎ、じかに触れたらきっと、そこにあるのは愉悦でしかないはずだ――

触れたい。
弄びたい。
あられもない欲望を彼女にぶつけ、触れ合う肌同士が生む熱気をものともせずに、柔肌を暴いて身体を重ねたい。

ナマエという女を、犯したい。

ナマエはどんな反応をするだろうか。
捨て鉢じみた自暴自棄になっているとはいえ、バクラの欲を突き入れられて、身を捩りながら甘い声を上げるだろうか。
考えただけで、下半身がズキズキと鈍く脈を打つ。

まるで喉が乾ききった砂漠の旅人のように、渇望に駆られている。
今すぐ、ナマエというみずみずしい果実にかぶりつきたい。

バクラは、もはや我慢は出来ないと、ナマエの服に手を掛けるのだった。

彼女のお腹付近にあった上衣の裾を掴み、一気にずり上げてやろう――
その下にあるのはきっと、風呂から上がったばかりである女の、柔らかくてぬくい膨らみだ。

逸る気持ちでバクラは、彼女の衣服をひん剥こうと……、

…………と、

した、ところで。

「っ……っく……、ひっく」

――――、

バクラの鼓膜を震わせたのは、女のかすかな嗚咽だった。

「…………、」

ナマエはあろうことか、声を殺して涙し、時折鼻をわずかにすすっているではないか。

「…………」

本当、女心というのは意味が分からない。

いいや……聡いバクラには、彼女の気持ちが全く分からないわけではなかった。

ナマエはきっと傷ついている。
まともだと思った男にずっと裏切られていたということに。

ナマエは失望している。
自分の見る目のなさに――自分という人間に寄ってくる男の、どうしようもなさに。

そして、そんな『どうしようもない男』の中に、いま傷ついた女を面倒臭いと思いつつ己の欲望を満たそうとしている、記憶喪失の居候男も入っているかどうかは――
恐らくイエスであると、バクラは結論付けた。

だから。


「…………、」

予期せぬ女の涙を見て、萎えてしまったと言うのは容易い。
それはきっと、間違いではない。

しかもその涙が、他の男のことで胸を痛めた彼女の、我が身可愛さからくるものなら尚更だ。

今のナマエはバクラを見ない。
もし、バクラが彼女を振り向かせ、強引に体を繋いだところで――
きっとナマエは涙を浮かべ、遠い目をしたまま捨て鉢になるだろう。

そんな女を抱いたところで、一体何が楽しいというのだろうか……!

けれど。
けれども、しかし。

今バクラが感じたのは、事に及べずにがっかりしたというような、単なる落胆だけではなかった。

ナマエの涙。傷ついたナマエ。

気付けばバクラは、ナマエの服を握っていた手を開き、その手を彼女の頭まで持ってきていた。

抱きかかえるように腕を回し直し、それから。

バクラは黙って、ナマエの頭を撫でてやったのだった。

「……っく、……」

彼女は何も言わない。
バクラに縋ることなく肩を震わせるナマエは、しかしバクラの手を黙って受け入れていた。

――同情、ではないと思う。

もし本当に女を慰めるつもりなら、バクラは彼女が気付いていないとある可能性について、とっくに口にしているはずだ。

即ち。
例の結婚詐欺男が、もしかしたら本当に、彼女に惚れていたかもしれない可能性について。

ナマエは、よそで結婚詐欺を働いていたにも関わらず、自分に金銭を要求しなかった男について、『身体目当てでキープしてた』と結論付けていた。
もちろんその可能性は高いのだろう。

けれども。

その男が……
言い寄った女には『嘘の』、幸せそうな家族写真を見せていたその男が。

実は、ナマエと同じような機能不全家族育ちで――彼女の生育環境については、親について以前ちらっと話題が出たときに「クソ親」と一言だけ吐き捨ててきたことからも窺い知れる――それゆえ男は、彼女に親近感を持っていたのだとしたら。

詐欺のために作り上げた、好青年という偽りの仮面を途中から脱ぎ捨てる事が出来なかった男は、けれど内心跳ねっ返りのナマエを好ましく思っていて――

結果的に『好青年という仮面』のせいで彼女に振られることになっても、生業である『詐欺』に彼女を巻き込まず、ある意味心から、彼女と時間を共にすることを愉しんでいて……

そんな男は、逮捕されてもなお彼女のことを覚えていて、だからこそ警察を通して自分の存在を報せてきたのでは……

男本来の汚い素性を知ったナマエが、同時に自分が男を振った理由――好青年という仮面――さえ霧散したのだということに気付き、もう一度コンタクトを取ってくれるのではないかという、縋るような期待を込めて……

それはバクラの勝手な推理で、可能性の僅かな一つだった。
常識的に考えれば、外面の良いナマエを引っ掛けたはいいが彼女が予想以上に蓮っ葉で金欠だと知り、何となく体の関係だけ保っていたところに、彼女の方から振ってくれてむしろせいせいしたという筋書きの方が説得力がある。

けれども。
もし、バクラの推測が正しければ。

だがやはりバクラは、この可能性についてナマエに聞かせてやるつもりは、後にも先にも全く無かったのだ。

何故、見ず知らずの詐欺男の肩を持つようなことを――そんな男とナマエの仲を取り持つようなことを――自分がしてやらなければならないのか。

だからこれはきっと、同情ではない。
『オマエが前に入れ込んだ男はオマエを騙したくて騙したわけじゃない』
そんな慰めは絶対にしてやらない。
バクラは強くそう思う。

では、そこにある気持ちが何なのか――
けれどバクラは、それ以上を考える気にはあまりなれなかった。

ナマエという女に対する感情。
そこを掘り下げるのは何故だか、とても心がざわざわするような気がする。

そして数分後。
ゆっくりとナマエの頭を撫で続けていたバクラは、この状況にだんだんと眠気を覚え始めていた。

昼間からあちこち出かけたせいだろうか……いや、そんなに体力がないタチだとは、彼自身全く思っていなかったが。

疲れた……いいや。
この眠気は、きっと恐らく彼女の温もりのせいだ。

今、バクラの腕の中で涙をこらえている女。
ナマエ。

その身体は温くて、柔らかくて――
たとえ人肌が暑苦しい季節であったとしても、性欲を発散しなかったとしても、一晩くらいなら隣にあってもまぁいいかなとすら思えてくる、女。

狭苦しいシングルベッドに体を押し込んだバクラ。
抱き枕と化したまま、何も言わないナマエ。

触れ合った部分には熱がこもり、互いにじっとりと汗が滲んでいたが、少なくともバクラはそれが不快ではなかった。

ナマエを抱き締めたまま、その匂いをたっぷり肺に取り込んで。

バクラはゆっくりと、眠りについたのだった――


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