5



雨上がりの午後。

アイスとジュースをそれぞれ平らげたあたしたちは、並んで通りを歩く。

「ねー、なんか食べたいものある〜?」

「ン……」

隣を歩くバクラに問えば、あるともないともつかない曖昧な相槌が返ってくる。

「じゃあ、有機野菜のオーガニックビュッフェ!」
「それはやめろ」

絶対にこれは嫌がるだろうなと確信して提案すれば、案の定一瞬で却下されてしまう。
あたしはくすくすと笑いながら、ふざけた選択肢をもう一つ提示してみた。

「じゃ、パンケーキみたいなスイーツでお腹をいっぱいにするってのは?」

「甘いモンはもう要らねえんだよ……」

そんなふうにちゃんと律儀に返してくれるバクラは、意外と可愛いのだった。


呑気だな、とは思うけども。

あたしはこうしてバクラと街を歩くことに、とても楽しさを感じていた。
端的に言えば浮かれていたのだ、あたしは。

だから。

あたしはこの直後に、この弛緩した空気が一変するなどとは夢にも思ってもいなかった。

本当に、厄介ごとってのは突然やってくるからタチが悪い。


予期せず現れる、過去のしがらみ。

バクラと歩いていたあたしは、だらしない顔のまま、何の気なしに横断歩道の向こう側へと視線を動かした。

――その時目に入った、とある男女。

それを見た瞬間、あたしはまるで電池の切れたロボットのように、半笑いのまま硬直してしまう。

「…………っ、」

たちまち胸に広がる黒い気持ち。
脳裏に蘇る、腹立たしい記憶。

ぎり、と奥歯を噛み締め、舌打ちをこらえる。

――こんなところで、会うなんて!


あたしとバクラは足をピタリと止め、赤信号が灯る横断歩道の前に並んで立った。
道路を挟んだ向こう側には、例の男女が手を繋いで信号が変わるのを待っている。

男女は――女は、まだあたしに気付いていない。
けれど、このまま信号が青になり、さほど広くない横断歩道ですれ違ってしまえば高確率で気付かれるだろう。

何処にでもいる、ずば抜けて美男美女というわけでもない、普通の若いカップル。
けれどその女の方は、見間違えようはずもない、あたしのよく知る女で。

「ムカつく……」

小声とは言え口に出てしまうあたしも、大抵性格が悪いなとは思う。
こんなんだから男を取られるんだよと、痛いほど分かってはいるけども!

「…………」

バクラの視線が、俯いたあたしの横顔を探ってるのが気配でわかった。
この人は一見ぶっきらぼうに見えて、注意力が高いし視野も広い。
露骨に機嫌が顔に出てる今のあたしの異変に気付いたとしても、決して不自然ではない。

今のあたしの横顔には――横断歩道の向こう側を親の仇のごとく睨むあたしの双眸には、一体何が浮かんでいるのだろう。

聡いバクラはきっと、皆まで言わなくても何となく察するはずだ。
今のあたしが、正気じゃないってこと。
正確には、正気じゃいられなくなった、ってことを。

だから。

「ねえ」

何か言われる前に、自分から声を発するあたし。
反対側の信号が黄色になり、もはや猶予はないと思ったあたしは、覚悟を決めて顔を上げた。

「ちょっとだけカップルのフリして」

言うが早いか、半ば強引に褐色の手を取った。
異性の手の感触、ヒトの温もりに心臓が跳ねる。
けれど視線は道路の向こう側を向いたまま。

詳しく説明する暇もない状況、バクラの好意と状況判断能力だけが頼りだ。
反射的に手を振り払われなかったのは、許されたということなのだろうか。

信号が青に変わり、あたしは足を踏み出す――
バクラの手を取って。

まるでカップルのように、手を繋いで。

人波が横断歩道を交差し始め、あたしたちとくだんの男女の距離が縮まって行く。

あたしは、大人しくされるがままになってくれてるバクラに心の中で感謝しつつ、万一の万一人違いだったらマズいと、視界の端でそっと女の顔を確認した。

手を繋いでいる若い男と若い女。
間違いない。

――あたしの男を寝取った、元友人の女。

その隣を歩いてるのが、『取られた元彼』ではなく、全く知らない男なのは……
一体どういうわけなんだよ!?

雑踏の中、あたしたちはすれ違う。
心を殺し、無理矢理営業スマイルを作るあたし。
その隣で大人しく手を繋いでくれているバクラ。

そして。

すれ違う瞬間。
あたしは、男の顔をガン見してから、女をしっかりと見つめてやった。

近距離で微笑むあたしにようやく気付いた女が、驚きのあと気まずそうな表情を浮かべる。

誰一人として立ち止まらない。
あたしたちは全員そうやって横断歩道を渡り、目的地へと向かって行くのだ。

振り返ることは、ない。


「っ、しゃー!!
こっちの方がカッコイイ!! 勝った!!」

道路を渡り、互いに見えなくなったであろう場所で、あたしは片手の拳を握りしめて勝利に打ち震えた。

もう片方の手は未だバクラと繋がったままだ。
けれど、今はそれどころではない。

あたしは、女同士のくだらない意地の張り合いに勝利したのだ――多分。

「あんの女、友達だったくせにさ、あたしの彼氏横取りしたんだよ!?
なのになんで違う男連れてるわけ??
……いや、これって喜んだ方がいいのかな?
結局あの女とじゃうまく行かなかったってことだもんね??

……でも結局、彼氏はあたしのとこ戻って来なかったけどね。
まぁ、戻って来られても困るからいいんだけどさ!」

人通りが多く、雑音も多い分むしろ気に留める者は少ないだろうと、あたしはバクラに向かって一連の行動の理由を矢継ぎ早に説明する。

「…………」

「くくっ、でもあいつが連れてた新しい男より、バクラの方が100倍カッコ良かった!!
あの女の気まずそうな顔!! ふふ、ウケる! あはははっ!!
あー、せいせいした〜! はは!」

興奮に任せて一気にまくし立てるあたしは、最高に楽しい気分になる一方で、僅かな虚しさも感じていた。

まるで、飲み会で盛り上がった後に、一人で帰路につく時のような。

誰もあたしに寄り添わない。
あたしは、ちっぽけな安っぽい花火を一人で振り回して、一人で燃えカスを片付けているような、どこまでも寂しい女だ。

バクラはあたしの無様な話を黙って聞いている。
彼はきっと、あたしの馬鹿馬鹿しい虚栄心を内心嗤っているに違いない。

どこまで行っても俗物で滑稽で、みっともないあたし。
ナマエという、取るに足らない人間。
そんなことは、わかっているけども。

「あーあ。ダサいとこ見せちゃったな〜
嘲笑っていいよ。あたし、ずっとこんな人生なんだから。

……カップルのフリしてくれてありがと。
あの女の前で手を振り払われてたら死んでたよ、あたし」

澱のように残る虚無感はとりあえず無視し、自分勝手なくだらない事情にバクラを巻き込んでしまったことをまずは謝罪するあたし。

バクラは、先程あたしの方から握った手を、未だ離れない程度のやんわりとした力で握り返してくれている。

繋いだ手から伝わる、彼の温もり。
生きた人間の体温が、何故かとても『染みる』気がして……

何だか照れ臭くなったあたしは、もういいよと言うように、そっと手を離そうとした。

離そうと、して――――

「……、」

ばっ、と。

遅れて追いついてきた熱が、あたしの手を再び捕えた。

――え??

何が起きたかを悟る前に、掌を暴かれる感触が触覚を刺激する。

「っ、」

声も出なかった。
指と指の間を、まるで犯すように押し広げて滑り込んできた熱が、あたしの手をがっしりと捕まえていた。

「え、あ、ちょ、」

あたしはまるで、妖艶なお姉さんに下半身をまさぐられた男子高校生のような奇声をあげ、激しく狼狽えることしか出来なかった。

「まって、なんで手、もう大丈夫だって――」
「恋人同士のフリだってんなら、このくらいしとこうぜ」

あたしの台詞に被せてきたバクラの声は、どこか愉しそうで。
ククク、と笑うその笑い方には、心なしか既視感があった。

繋がれたままの手。
それも、先程までより『強く』。

「な……、なんで……、ばか……!」

ぶわりと顔面に広がる熱。

落ち着け、あたしはもう中学生でも高校生でもないんだぞ!?
そう自制しようとする理性をよそに、心臓はばくばくと高鳴るばかりで。

手を恋人繋ぎされたくらいで――
しかもその相手が、『あの人』に似ている素性の知れない相手というだけで。

あたしは――充分だった。

あたしが恋に落ちる最後の一押しは、きっとそれで充分だったのだ。

行くぜ、と言うように、指を絡めたまま歩き出すバクラ。
そんな、褐色肌を持つ『バクラ』に。

あたしはもうとっくに、恋をしてしまっていたのだ――――



無様だと思う。
馬鹿馬鹿しくて、見苦しくて、まるで道化だと思う。

今更、こんな。
薄汚れてボロボロになって毛が抜け落ちて、それでも必死に毛づくろいをする哀れな鳥のようなあたしが。

今更こんな、温かくて、ふわふわで、きらきらな想いを、心の中に浮かべているのだから。

和紙に浸した水のごとく、『バクラ』はあたしにじわじわと染み渡っていく。
これはきっと既視感だ。
かつて、経験して、陶酔して、そして無情にも離別したいつかの思い出の。

であれば……、いつか、バクラは去っていくのだろうか。
きっと、『また』。

あたしがバクラと名付けた素性の知れない褐色肌の青年?(もしかしたら少年かも)は、あたしを置いていずこかへ消えてしまうのだろうか。

あたしは、今になって彼にバクラと名付けたことを後悔しようとして――
まだ後悔しきれない自分がいることに気付き、『バクラという名』にまつわるほろ苦い思い出を、一旦心の隅に追いやることに決めた。

今は……今だけは。
あたしの隣に居る『バクラ』だけが、あたしのすべてなのだから。



カップルと女同士ばかりで埋まる適当なカフェレストランで軽い食事を終えたあたしたちは、冷蔵庫の中身を補充するためにスーパーへとやってきた。

先程、手を恋人繋ぎされたあたしは、嬉しさと照れからまともな思考ができなくなり、目に付いた適当なお店に慌しくバクラを連れて入ったのだが……
当然繋いだ手も離れ、あたしが平静を取り戻した反面。
もうちょっとがっつりしたものが食べたかったらしいバクラは、どこか不満げで……

じゃあ帰りにスーパーで食材買って、夜はなんか家でたくさん食べようよ、なんて提案してしまったのが運のつき。

あたしは、スーパーのお肉コーナーでお高い肉をじっと凝視して動かないバクラに、もう金銭的に厳しいしそれは無理と懇願し、名残惜しそうにお肉を見つめ続ける彼に、じゃあ惣菜コーナーで値引きになっているトンカツでも食べようよ、と提案し、それでもまだ不満そうにしている彼に、ならカレーライスも作る! カレーにトンカツ乗せて食べればいいじゃん?? カロリー爆弾すげー!!! と謎な提案をして、ようやく彼を説得することに成功したのだった。

いくら若くたって、そんなにドカドカ食べまくってると太るぞーとからかったあたしに、何故かドヤ顔決めてニヤリと笑みを浮かべてきたバクラは、どこまで自信家なのだろうか!?

あたしは、記憶を取り戻した彼が、常人には到底付き合いきれない常軌を逸した精神性をしていたらどうしようと、内心危機感を覚えるのだった。


帰り道。

住宅街に入り、人通りもまばらになった路地で。
日も沈みかけ辺りが夕焼けに染まる中、並んで歩くあたしとバクラ。

あたしは酔狂にも、手にした荷物をさりげなく片方の手に寄せ、バクラに近い方の手をそっと空けてみた。

笑わないで聞いて欲しい。
それほど、昼間の『カップルのフリ』は衝撃的だったのだ。

あたしは多分このバクラが好きだし、そもそも前提としてあたしは温もりに飢えている。
これは動かしようのない事実だ。

だから、もしかしたら……もしかしたら、もう一度、手を繋げたら、なんて……

そんな恥ずかしいことを考えてしまうあたしは、どこまで滑稽なのだろうか!!

けれどもきっと、勘の鋭いバクラはあたしの心理なんぞとっくにお見通しなのだ。
彼は空手になったあたしの手をごく自然に掴むと、先ほどのような流暢さでもって、サラリと指を絡めて手を握ってくれた。

ぎゅん、と跳ねた心臓は、まるでスイッチのよう。
ONになった瞬間に、虫歯になりそうな甘さが全身を駆け巡っていく。

「……、」

嬉しいとか、好きだとか。
もし記憶が戻っても……あたしの傍に居て、だとか。

そんなことをはっきり言えたら、あたしは何か変われるのだろうか。

無言であたしの手を握り、フ、と笑みを漏らすバクラは、優しくしておけばもうしばらく居候生活には困らないと、頭の中で計算をしているのかもしれない。

そのくらいお見通しだよと、それを分かった上であたしはあえて手を繋がれてやってるのだと、上から目線でイニシアチブを取りに行った方が、むしろ良い結果になるのだろうか。

あたしには何もわからない。
何が最善かなんてあたしにはわからない。
あたしには、恋愛における駆け引きなんか到底できっこない。

結果、素直じゃなくてアタマも良くないあたしが、辛うじて言えたのは。

「バクラの手、あったかい」

――なんていう、ただの一言なのだった。

けれど、そんな他愛ない一言に、繋いだ手に少しだけ力をこめることで応えてくれたバクラの、夕日に照らされた横顔は。
どこか、満足そうで。

手どころか、体全体で彼に吸い寄せられてしまったあたしは。

バクラに抱きついてしまいそうになる瞬間、慌てて視線を逸らし、頭を振るのだった――



自宅に帰ったあたしは、バクラを居間へ追いやって、一人キッチンに立っていた。

ぶっちゃけあたしはあんまり料理が得意ではない。
不器用なのだ、そもそも。
不器用で面倒臭がりで、短気なあたし。

まだ中学生だった妹と同居していた頃はそれでも多少自炊はしていたが、その時すでに妹の方が料理が上手かったくらいだ。

それでも。

炊飯器のスイッチを入れ、野菜を切って炒める。
お肉は冷凍庫の隅でカチカチになっていた安いバラ肉だ。
今日はバクラの服を買って結構お金を使ったし、カレーの上にトンカツも乗せるのだからこれくらいは許して欲しい。

そうだ、カレーが出来上がったらバクラのだけ唐辛子を増し増しして辛くしてやろう、彼はどんな顔をするだろうか――

そんなことを考えると、思わず笑いが込み上がって来てしまう。

「変なモン食わせやがったら承知しねぇぜ」

いひひと笑ったあたしに気付いたのか、リビングからバクラの念押しするような一言が飛んでくる。

虚をつかれて思わずぶはは、と噴き出したあたしは、
「変なモン、食べさせたらどうするの??」
などと、彼をさらに茶化してみた。

そこで返って来た彼の返事は。

「……寝込みを襲ってやる」

「っ!?」

少し考えてから吐き出されたらしい言葉に、「はぁ!?」と、思わず狼狽えてしまうあたし。

ガチャン、と重ねた皿に手が当ててしまい、皿が崩れそうになって慌てて両手で押さえる。
その拍子に足の爪先を棚の角にぶつけてしまったあたしは、「痛ったあ!!」と無様な声を上げる羽目になった。

あたしの醜態を察したらしい彼から飛んでくる、ヒャハハハという愉しそうな声。

「ばか……、」

呟いたあたしは、皿を安全な位置に戻してから足をさすると、小声で二の句を紡いだ。

「別に襲ってくれてもいいけどさ……」

密やかに告げた本音は、きっと彼には届いていないだろう。
それでもあたしの心臓は律儀にも鼓動を早め、顔をじわりと火照らせていく。

本当、チョロいなと思う。
昔から何も変わってないんだ、あたしは。

バクラのいる居間に背を向けながら、火照った頬を手で冷まし、もう片方の手で鍋をかき混ぜる。

背後から聞こえてくるTVの音。
なんかこういうの、新婚生活とかにありそう――

そんなことをつい考えてしまったあたしは、「いや、ばかばかばか!」と、自分で自分の想像を即座に否定した。

あーもう、嫌だ、あたしってば本当に馬鹿すぎて嫌だ……!!

自分で自分を否定しているのに、口元に浮かぶのは何故かだらしない笑みで。
誰にも見られてないはずなのにそれが恥ずかしくてたまらなくなったあたしは、自ら口元を押さえて悶える始末なのだった。

コトコトと音を立てて煮え始める鍋は、まるであたしの心の中のようだ。

とろ火に炙られ、はじめはちょっと温かい程度だったのに、徐々に熱くなって、とうとう沸騰してしまったあたしの心。

元彼たちから考えた時の経験上、『この先』に待っているのは不幸でしかないと、分かっているのに。

そんなあたしの右往左往に、追い打ちをかける影があった。

「あとどのくらいで出来る」

他でもない、バクラだ。

思いのほか至近距離から聞こえた声に、驚いて振り向いたあたしは――

いつの間にかすぐ後ろに立っていた彼の存在感に息を呑み、一瞬固まってしまう。

「あ? え、ちょやだ、いつの間に!?」

バクラのことを考えながら鍋に集中していたのもあるけど、気配を全く感じなかったなんて。

あとはしばらく煮込むターンということもあり、あたしは手にしていたおたまを置くとバクラに向き合った。

「あ、あと……30分くらいじゃない?
ご飯炊けるのと同じくらいかも」

ばくばくと自己主張を始める心臓。

ふーん、と了解の意を示したバクラが、おもむろにあたしへ手を伸ばす。

「ぁ……」

声にならない声が喉から漏れ、あたしは固まったままバクラの手を受け入れた。

褐色に染まった彼の指が、あたしの髪をひと房掴み、さわりと弄んでから解放する。

そのまま手の甲で頬を撫でられ、反射的にゾクリと背筋が粟立ったのは、決して嫌悪感から来るものではないと自分でも分かっている。

「…………、」

頬に触れるバクラの手に、そっと自分の手を重ねてみるあたし。
確固たる温度を持った、生きた人間の質量。

その感触をしばらく堪能したあたしは、彼の手をそっと頬から引き剥がすと、それが拒絶ではないと示すために彼に一歩近寄った。

腕を伸ばせば互いに相手を抱きしめられる、至近距離。

耳まで火照ったあたしが、そっと頭をバクラの肩口に預ければ、音もなく回された手が抱き締めるように背中を撫でてくれた。

無言でこちらも腕を回し返し、ギュッと彼を抱きしめてみる。

――愛おしい。

強く胸を打った鼓動は、たちまち安心感となってあたしの全身を包んでいく。
服越しから伝わるバクラの体温が、どんなアルコールよりも深くあたしを酔わせていく気がした。

「あったかーい」

おどけて発した一言は、あたしの精一杯の照れ隠しだ。
これが、単なるハグだと自分に言い聞かせるための。

けれど、そんな範疇に収まるレベルじゃないことは、互いに……ううん、何よりあたしが一番よく分かってる。

視界の端がチリチリし、きっと顔だけでなく目まで充血してるだろうあたしは、興奮を抑えてそっと体を離した。

けれどそれで解放してくれるはずもないバクラは、再び、今度は両手であたしの頬を包み込んでくる。

「……っ、」

あたしだって未経験の子供じゃないから、この後に何が起こるかは薄々わかっている。

あたしはバクラに身も心も惹かれているし、バクラはきっと『飢えている』のだ。

外で女の子と遊ぶお金もなく、きっと警戒して他の素人との接触も控えている彼は、その健康そうな見た目から考えて、恐らく欲求不満に違いないからだ。

それならば。
あたしがここで、記憶喪失である彼と良からぬ関係になったとして、都合の悪いことなんて何一つないわけで…………

――寄せられる唇に、素直に目を閉じたあたし。

この目が開いたら、まずコンロの火を止めなきゃ。
そんなことを考えながら、けれども唇に彼の熱が触れた瞬間、あらゆる思考が霧散した。

「ん、……」

重ねられた唇は、甘くて、けれど熱くて――
じりじり焼けるような温度を生む心が、理性をどこまでも溶かしてしまうような気がした。

もう何も考えられない。
何も、考えたくない――

そんな思いに迫られたあたしは、彼の首筋に縋り付くように腕を回した。
そして、さらに激しく、バクラを貪ろうとした時――

不意に離された唇。

え、何故、ここで??

理由もわからず固まっていたら、その答えはすぐにやってきた。

あたしの腕の中から、するりと抜け出ていった温度。
素早く、音もなくキッチンから奥の部屋へと引っ込んでしまったバクラと――

ピンポーンと部屋に響いた玄関チャイムの音。

それらを同時に認識したあたしは、ようやく現実へと帰ってくる。

突然の来客に戸惑ったあたしは、来客の気配を察知したバクラが慌てて身を隠したのだとはわかったが、その理由がすぐには分からなかった。

が、チャイムだけでは飽き足らずコンコンとドアをノックしてきた音と、それから逃れるように部屋の奥に潜み一向に戻ってこないバクラの行動が、この状況を言外に伝えているような気がした。

まさか、……。

あたしはコンロの火を消すと、足音を殺し、そっとモニターつきインターフォンに忍び寄った。
けれど、料理中で換気扇を回している以上、在宅であることは外にいる人間にバレているだろう。

「警察です、ちょっとお話聞かせてくださーい」

玄関のドアを隔てて聞こえた男性の大きな声と、モニターに映し出された二人の人影。

それらは唐突に、無情に、どこまでもあたしに現実を突きつけていた。

「いらっしゃいますよねー、ミョウジさん」

コンコンとさらにノックを続ける彼らは、きっと居留守など許してくれようはずもない。

あたしは、たった今まで火照っていた自分の唇を指でなぞり、震える手でインターフォンのボタンを押した。

「はい、……」

どうかこれが、あたしとバクラの終焉になりませんように。

あたしはひたすら、天に祈ることしか出来ないのだった――


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