3



「じゃ、仕事行って来るね〜
鍵開けっぱだとヤバいから、どっか行くならすぐ帰ってきてね」

バイバイ、と手を降って女が玄関から出て行った。
バタン、と閉まるドアの音。ガチャリ、と外側から掛けられた鍵。

「…………」

残された男……
『バクラ』と呼ばれた男は、音もなく伸びをすると、大きな欠伸をこぼすのだった。



何もかもがわからないというのは、大きな穴のようなものだ。

胸にポッカリとあいた、大きな穴。
深くて、暗くて、底すら見えない……空っぽの穴。

何か大きなものが、自分の中からごっそりと抜け落ちている。
生まれてから今に至るまでの出来事も。
それに付随する感情も。

裏寂れた路地で目を覚ました時、目の前にあったのは見知らぬ女の顔だった。自分よりは多少年上の女。

それから、見知らぬ風景。
看板に書かれている文字は読めるし意味も理解出来るが、何一つとして見覚えのない世界。
極端な話、自分が身にまとっている簡素な衣服さえ着た覚えがなかった。

知っている言語で話す、知らない女。
物好きな女は、コンビニとかいう店で食料を調達したあと、得体の知れない男であるはずの自分を自宅へと連れて行った。

警戒心のまるでない、愚かな行動。
けれど、何もかもが曖昧で空虚な今の自分にとっては、それが何よりもありがたいことは嫌でも理解出来た。

だから変な気は起こさず、なるべく女が望むであろう振る舞いをすることに決めた。

一晩経っても、状況は変わらなかった。
体を清めて、空腹が満たされ、安全な環境が得られたことでつい眠ってしまったことは、きっと普通の人間としての生理現象なのだろう。

けれども、それがたまらなく不安で、苛立つ気持ちも正直あった。
なに呑気に寝てんだ、という気持ち――
その毛羽立つような攻撃的な気持ちがどこから来ているのか、しかし自分でもさっぱりわからない。

失われた記憶、とやらが持つ、自らの人間性を保証する部分。
それが未だわからないことに、とてつもない困惑と混乱がある。

けれど、衣食住がとりあえず満たされれば落ち着いて呼吸は出来る。
何とも奇妙な感覚だった。


結論から述べる。

あれから数日。
自体に進展は、全く無い。

バクラは無意識にため息をこぼし、頭を掻いた。

それからふと空腹感を覚え、キッチンへと足を向ける。

ナマエ――ここの家主。
アパートというらしい、単身者から2,3人程度の人数で住む、こじんまりとした集合住宅。

彼女はバクラを保護した翌日こそバクラと一緒に居てあれこれ世話をしてくれたものの、その翌日には仕事があるからと朝から出掛けてしまった。
バクラを一人残して。

ナマエというのは、記憶喪失で名前もわからない男に『バクラ』という名前をつけ――
行く宛が無いと言うその男に、「じゃあまぁ、何かわかるまでうちにいていいよ」なんてのたまう、物好きな女だ。

物好きだけど、しかし根っからのお人好しという訳ではない。
彼女の眼には闇が宿っている。

それは、食事をしながらテレビとやらを適当に流していて、ふと家族愛的な特集が始まった際に、彼女がこめかみをピクリとさせ憮然とした表情でチャンネルを変えた時とか。

はたまた、スマホだかケータイだかいう端末を無言で触っていた彼女が、誰かから来た何かのメッセージを見て、軽く舌打ちをしながら端末をソファーの上に放り投げた時などに――
わずかに滲んでいた気がするのだ。

ただの表面的な、突発的な怒りだけではない。
その横顔に浮かぶ、淀んだ怨嗟のようなもの……
決して一朝一夕にはぬぐい去ることの出来ない、こびりついた負の情念のようなもの。

そしてバクラは、そんなナマエの不穏さを、嫌だとも疎ましいとも思えなかったのだ。

それよりもむしろ、好ましい…………否。
『親近感』と言い換えた方が的確か。

バクラはナマエの険に、どこか親しみを覚えていた。

不機嫌になった彼女が――ナマエは居候であるバクラに当たったことはまだ無いが――舌打ちのあとに、ここには居ない誰かに向かって小声で「死ね」と吐き捨てていた時。

その態度そのものではなく、彼女が御しきれない苛立ちを感じた『何事か』が存在すること自体に、バクラは何故か安心感を覚えたのだ。

勿論記憶のないバクラには、それがどこから来ている感情なのかはわからない。
けれど、『分かる』。

バクラは、自らを拾ってくれたナマエという女が、一般的に言うところの単純な善人でないところにどこか安堵していた。


「…………」

無言で冷蔵庫とやらの、冷凍庫と呼ばれる部分を開けた。

「電子レンジで温めるだけだよ」と教えてくれた、冷凍パスタというやつを取り出し、それがどんな食品なのか確認する。
それから、彼女の言葉とパッケージ裏に書いてある調理法を頭の中で照合し、その通りにレンジにかけた。

ブゥゥゥン……と聞きなれない音を立てて内側から光を放つ機械を見つめながら、バクラは『これもそうだ、』と改めて思った。

『これ』。
――俗に言う、機械。

いいや、機械だけじゃない。
テレビや電子レンジといった機械以外にも。
街を行き交う自動車、昼夜を問わず営業しているというコンビニ、暗くなれば自動で点灯する街灯。

ナマエが一人で住んでいるというこの家に限ったって、二人がゆったりと座れるソファー、その上に散らかっていたが今は片付けられている雑誌類に載っていた鮮明な写真、思い通りに水やお湯が出る浴場。

バクラは、それら現代社会に存在するものたちを、ごく自然に認知していたのだ。
『そういうもの』がこの世にはあると、当たり前に頭に入っていた。
数日前、路地裏で目覚めた時から。

けれど、では、『そういうもの』を実際に使った経験はあるか、身近に存在していた覚えはあるかと聞かれると――

記憶喪失なのだから勿論答えは『わからない』なのだが、しかしどこかそれだけじゃないような……
なんとも、奇妙な感覚だった。

例えるなら、人の話や書物でしか見た事のない遠い世界の光景を、強引に『知識』として脳に刷り込まれたような。
そんな、微かな違和感を彼は感じていたのだ。

けれども、ではその違和感が今、日常生活において何らかの不便さを生じさせるかと言うと……
別に、決してそうではないのだが。

やはり、『穴』だ、まさしく。
ぽっかりと自分の中に空いた穴。
失われた部分。
取り戻さなければ、ならないもの。

――バクラは、そんなことを考えずにはいられなかった。



「あいつが作ったヤツよりうめぇぜ」

温めた冷凍パスタをモグモグと頬張るバクラは、誰も居ない部屋で独りごちた。

もし今の発言を彼女に聞かれたら、彼女は「はぁ?」と不満の声を漏らすだろう。
それから、『自分が酔っ払った勢いで拾ってきた』居候が相手だと気付き、それ以上は小言を口にせずに不貞腐れるだろう。

ナマエは自分の意思でバクラを保護し、自分の考えで『バクラ』と名付けた。
その責任を感じている為か、彼女はバクラにはあまりキツく当たってこない。

キツいどころか、彼女の本来の性情を考えれば優しすぎるくらいだ。
得体の知れない男を好意で保護して、匿うように居候させて。

仮にも異性であるバクラを警戒する素振りすら見せず、むしろその気ならどうぞ、と誘っているフシすら感じられるのだから。

バクラ的にもそれは悪い気はしなかったが……しかし己の素性や過去が一切わからない現状、状況に流されっぱなしなのは良くないと、彼女に手を出すことはまだしていない。

――では、ナマエと名乗った女が、何故見ず知らずの記憶喪失の男に親切にするのか。

バクラもその理由が初めは分からなかった。
が、数日間共に過ごして、何となく理由がわかってきた。

『バクラ』……
その名を口にする時、彼女はとても柔らかい声を出す。
まるでその名前自体に、恋をしているように。

褐色肌を持つバクラには、何となく分かってしまった。
『バクラ』という名前の持つ意味。
朧げだが、その正体を――

まるで永遠に失われた宝物を求めるような声で、バクラの名を呼ぶナマエ。

その『持ち主』は、さぞや彼女を虜にしたのだろう。

どうでもいい、とバクラは思った。
だが同時に、その名前の主が二度と彼女の前に姿を表さないのだとしたら――
それはそれで、どこか喜ばしいような。

そんな気持ちを、彼は抱いたのだった。


「飲み物はねぇのか」

バクラは冷蔵庫を覗いてそう呟いた。

ナマエは仕事の帰りに何かしらを買ってきてくれるだろう。
彼女は料理がそこまで得意な方ではないようだし、タダ飯食らいの居候だからとバクラに断食を強いるような意地の悪い性格でもない。

……が、彼女が肌身離さず持ち歩いている携帯電話だかスマホだかという端末を、バクラは所持していないのだ。

それはつまり、帰りに買ってきて欲しいものがあっても、それを今彼女に伝えることは出来ないということを意味するわけで……

ナマエがもし家の冷蔵庫に飲み物がないことに気付いていなければ、彼女は飲み物を買ってきてくれないだろう。

(別に水さえありゃ問題ねえが……)

そう考えつつも。
炭酸とかいう刺激を含んだ甘いジュース、緑や茶色がかった風味豊かなお茶、牛の乳だという牛乳、はじめは苦いだけと思いつつも味わっていくうちにこれも『有り』だと思えてきたコーヒー、等々。

この数日で味わったそれらの飲料を思い出すと、なんとなく水だけで喉を潤すのが勿体なく思えてきたのだ。

ならば、と。

バクラは、ナマエが『念の為』と置いていってくれた軍資金を手に、外の世界へ足を踏み出してみることにするのだった。



外――アパートのドアの向こうの世界。

ナマエが、「あー……サイズが合って良かったね」と言葉を濁しながら寄越してきた羽織りのパーカーと、膝丈までしかないラフなパンツ。
それらを身にまとって、バクラは道を歩く。

ナマエは一人暮らしだ。彼女自身がそう教えてくれた。
そして、彼女がくれたこの服は男物なのだろう。
サイズだって明らかに彼女の服より大きい。

であれば……この服の元の持ち主は誰だったのか。
きっと、彼女さえ二度と会わない相手なのだろう。
恐らく『バクラ』とも違う、何処かの見知らぬ男の残したもの。
別に、特に感じ入るところはない。

それよりも。
理由はわからないが、バクラは膝下が外気に触れているとなんとなく安心感を覚えるような気がしていた。

首を傾げる。
記憶を失う前の自分は、そのような丈の短い衣服を好んで穿いていたのだろうか。

ポケットには、ナマエが置いていったお札が一枚。
それは1000円札という現金だということは、彼女に言われるまでもなくなんとなく分かっていた。
例のごとく、『頭に刷り込まれた』ような知識でもって。

では、その価値はと問われると……
「冷蔵庫のものじゃ足りなかったら、それでなんか食べて」
と告げた、彼女の言葉だけが頼りなのだった。



数日前、見知らぬ路地で目を覚まして、ナマエの家に行く途中に寄ったコンビニ。
入口に近づけば自動で開くドア、いらっしゃいませーという声と共に客を迎えてくれる店員。

バクラはまずこの店に来て、それから雑誌や飲料が陳列されている棚を抜けて弁当のコーナーに直行した。

ここにあるものは、電子レンジとやらで温めるだけですぐ食べられるのだろう。
様々な色や形の弁当。
白米ではない、麺という形態の主食。
温める必要のないサンドイッチとやら。

肉を加工したハンバーグやハム、野菜だけのサラダ、スープだか麺だか位置づけがわからない食品まで置いている。
そして、それら一つ一つにつけられている値段。

380だの498だの220だのといった数字を、ポケットから取り出した1000円札と見比べるバクラ。

「…………」

…………なるほど。
「それでなんか食べて」という彼女の言は、こういうことだったのか。
バクラは何となく理解する。

たしかに彼女は、間違ってはいなかった。


バクラは結局、コンビニでは何も買わずに店を出た。

1000円の価値。
それは、並べられていた商品から推察しただけではない。

コンビニに掲示されていた張り紙――
『アルバイト募集』に書かれていた時給。
一時間働いて、ほぼその金額。

ナマエは決して裕福ではないのだろう。
『頭に刷り込まれた知識』と、この街並みを見てれば嫌でもわかる。

住宅街には、大きな家がいくつもあった。
高くそびえ立つ、マンションと呼ばれる集合住宅。
大きな門と仰々しい表札を備えた戸建て住宅。

ナマエの家に向かっている最中、やたらと綺麗な正面玄関――エントランスと言うのだろう――のマンションの前を通りがかり、ジロジロ見ていたら。
「はは、こんなに豪華な家じゃないから! ごめんねー」
と、彼女に鼻で笑われたことがあった。

おどけたその言葉には自虐と、僅かな哀しみや鬱屈が混じっていて。
バクラは彼女の住むアパートを見た時、その意味を悟ったのだ。


とりあえず、だ。

1000円で何かを食べてしまえばもう、手元にはほとんどお金が残らない。
であれば、街にひしめく店について何も知らない現状、散策がてら辺りをぶらつきながら吟味したって問題ないはずだ。

なにせ、時間はたっぷりある。
何か見ているうちに思い出せることがあるかもしれないし……
そう考えたバクラは、あたりに視線を走らせながらあてもなく一人街を行くのだった。


「おにーさんお兄さん!!
ちょっと遊んで行きましょうよ!
可愛い子揃ってますよ、安く遊べますよ!」

繁華街。
雑多でごちゃごちゃした界隈に足を踏み入れたバクラは、見知らぬ男の早口に呼び止められて足を止めた。

『可愛い子』
その単語が耳に残る。

記憶が無いとはいえ、勘でわかる。
軽薄で早口で作り物の笑顔を張り付かせる顔。
意外だったのは、こんな真昼間から『そういう店』が堂々と営業していることだ。いや、堂々かは知らないが。

バクラの記憶には、特定の異性と何かの関係を持ったような記憶はない。
――が、『わかる』。
目覚めてからこんなパターンばかりだ。

特定の誰かと深い関係を築いたことは無くても、では異性に全く興味がないかと言われればそうでもない。

自分の家だからとくつろいで、無防備な格好でベッドに寝転ぶナマエの肢体を見て、襲ってやろうかと思ったことは何度かある。

記憶にはなくても、自分は女と通じたことがあるのだ、きっと。
そして今でも、いざその時となれば体は勝手に動く。
――バクラには、そんな確信があった。

そして。


「…………」

バクラは客引きから離れ、無言で歩き出した。

たった一枚の札を握りしめて街を闊歩するなんて、まるでお小遣いにはしゃぐガキじゃあるまいし。
いいや、今の自分は金のないガキと一緒だ。

『30分5000円! 30分5000円からっすよ!』
男の軽薄な声が脳内で反響する。

ああ、1000円のなんと脆弱なことよ!!!

バクラは、舌打ちをこぼしながらポケットに手を突っ込み、背中を丸めて猥雑な繁華街を通り過ぎるのだった。



「遅ーい!!!
鍵開けっぱだから、すぐ帰って来てって言ったじゃん!!」

居候先に帰ったバクラを出迎えたのは、すでに帰宅していたナマエの怒りだった。

「夜まで帰ってこないかもって思った?
残念でしたー、今日は早上がりだったしー!

てか心配するじゃん!
職質されて強制送還コースかなとか、敵に見つかってボコられてんじゃないかなとか!
もしくは記憶が戻って、黙って出てっちゃったかと思った!」

ナマエは玄関で靴を脱ぐバクラに詰め寄ってきて、一気にまくし立ててくる。

「…………」

まず湧いたのは反発心だった。
うるせえな、てめえは何様だよと。
反射的に舌打ちしそうになって、ぐっとこらえる。
彼女の怒りはごもっともだ。ここで逆ギレをするのは得策ではない。

それからやや遅れて、自分自身への驚きがあった。
――なるほど。
ナマエに匿われてから、バクラは彼女に怒りや苛立ちといったものをほとんど感じたことなかった。今の今まで。

そして彼は今、初めて軽くイラついた。
そこで見えてきたのは、自分という人間が持つ負の側面の、ぼんやりとした輪郭だったのだ。

きっと自分は記憶を失う前、不遜な態度で荒っぽい言葉を常用していたに違いない――

それは、ナマエがたった今『敵に見つかってボコられてんじゃないか』と漏らした理由とも直結する。
彼女は、バクラが『敵』……平和なこの世界でそんなものに追われなければならない立場だと類推している――つまりバクラを、アウトローに生きる人間だと考えているのだろう。

そこまで考えたバクラは、「……悪かったな」と素直に口にした。

別に彼女に媚びたわけではない。
ただ、何となく……『怒り』というスイッチをきっかけとして、図らずも自分自身への理解が深まったことに、彼は感謝のような僅かな嬉しさを抱いたのだ。

反発心といった苛立ちから生まれた発見、怪我の功名……
そんなことを思うと、フ、と自然に笑みがこぼれる。

「…………」

ナマエは彼の反応が意外だったのだろう、眉根を寄せて怪訝な顔をした。

憎まれ口を叩きはするし意地も張るが、基本的に裏表のないわかりやすい性格。
そんな彼女の考えている事は、手に取るようにわかる。

彼女のこういうところが、いくら行くあてが無いとはいえ数日間もここに入り浸っている理由なのだと、バクラは笑いを噛み殺す。

もしナマエが裏表の激しい人間、そして本心を悟らせない演技上手な人間だったなら――
バクラは、早々に彼女の元を去っていただろう。
特に、一見親切で人当たりがよく、人間的に粗が見えないタイプの人間はタチが悪い。

……もっとも、そういう経験則のような勘がどこから来るものか、『経験』を忘れたバクラにはよく分からなかったが。
基本的に『分からない』が、『分かる』。
あの路地裏で目を覚ましてから、ずっとこんな調子だ。
もはやこの状態とうまく付き合っていくしか、前に進む方法は無いのだろう。

「なんか……意外」

ナマエは靴を脱ぎ部屋に上がったバクラを見つめながら、そうこぼした。
バクラは無言のまま、手にしていた買い物袋をこれ見よがしにテーブルの上に置く。
中身は飲料のペットボトルが数本だ。

「素直に謝ると思ってなかったからさ……
あたし、言ったあと、逆ギレされるかもとか、もしかしたら殴られるかもとか身構えたのに」

キョトンとしながら述べる彼女に、バクラはばつが悪くなってふいと視線を逸らした。
それから、次いで彼女から吐き出された『余計な言葉』に、また舌打ちをこぼしそうになる。

「なんか、意外と可愛いんだね。そんな顔してるのに。
あ、けなしてるんじゃないよ。可愛いー、かわいー!」

あはは、と屈託なく笑う彼女のバカ面を見た時に、バクラは今度こそ何かしら言い返さずにはいられなかった。

「くだらねえことほざいてんじゃねえ……!
だいたいなんで1000円しか寄越さねぇんだ、牛丼食って飲み物買って終わっちまったんだよ!」

口にしてから、バカっぽいのはどっちだよ、と後悔を覚える。
そしてナマエは、バクラが声を荒げたことにもまったく動揺しなかった。

それどころか、ニヤニヤと笑みを浮かべた彼女は。

「え〜……
タダで1000円あげたんだから怒んないでよ。
ていうか…………なに?
なんでそんなお金欲しかったの〜?

もしかして、変なお店でも行こうとしたんでしょー!
んもぉ〜、バクラってば、ヤラシ〜〜」

――チッ。

考えるより先に舌打ちが出ていた。
それから、これまた無意識に手が伸びる。

勿論向かう先はナマエという女だ。
暴力の気配を察知したのか、彼女がビクリと身を竦ませる。

――バカが。
ここで暴力を振るったら、図星突かれて逆ギレする巷の低脳と一緒ではないか。

バクラは、伸ばした腕をナマエの首に回すと、無言で自分の方に引き寄せた。
彼女がさらに身を固くする。
防御のつもりなのか、両手を交差させ自らの顔を隠すようにガードしている。
当然、胴はがら空きになるわけで。

その隙だらけの脇腹目掛けて、バクラは空いた手を突っ込むと、強引にくすぐってやった。

絶叫のような甲高い悲鳴が上がる。
遅れて自分が脇腹をくすぐられたことに気づいたナマエが、身をよじりながらバクラの手を引き剥がそうともがく。

だが、バクラの片腕は彼女の首をがっちりと抱き込んでいるため、彼女がバクラから逃れることは出来ないのだ。

「あはっ、ちょ、やめ……!!
っひゃははっ、ばか、やめっ……うひひひっ!!
もーっ、やめ、くすぐるなバカっ、やだーっ!!!」

笑いと抗議とをいっぺんに主張するナマエは、ところどころ交じるやや官能めいた声を漏らしながら、バクラの腕の中でじたばたともがき続けていた。

「あはっ、ひひっ、やめて、やめろって本当……!
うひっ、バクラのえっち、あはっ、もーバカぁ〜!」

ケラケラと笑う彼女は、ただの能天気な一人の女だった。

髪も肌も柔らかい。
シャンプーだかボディーソープだかの香りが漂ってきて……いや、それだけじゃない。
彼女自身が持つほの甘い匂いが、バクラの鼻腔をくすぐって来る。

異性という生き物。
放っておけば否応なしに引き寄せられる、本能的な吸引力を持つ存在。

半ば無意識にその額に唇を寄せ、触れた瞬間にバクラは我に返る。
このまま欲情しては、それこそ彼女の思う壺だ。

ナマエの体を解放し、バクラはもうすっかり自身の寝床と化しているソファーに身を投げ出すように座りこんだ。

冷凍パスタに牛丼。
ちょっとやそっとではこの腹は満たされないと気付いたことも、ここ数日の収穫だった。

「……腹が減った」

ポツリとこぼせば、横からふふふと漏れる声。

「飲み物買って来てくれてありがと。
何か作るよ。冷凍食品より美味しくないかもしんないけど」

時折妙に勘の良さを発揮するところも、彼女らしいと言うべきか。

バクラはフ、と息を吐くと、飲み物が入った袋を持ってキッチンへと消えて行くナマエの後ろ姿を、じっと見つめていたのだった――


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