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ありえない、と思う。

誰だってありえないと思うだろう。

裏路地で目を覚ました男が、もし外国語で何事かをまくし立ててきたのなら、あたしは怪訝な顔をしてさっさとその場から退散していたはずだ。

けれども目を覚ました男は、あたしに向かって、「誰だ」と言った。明瞭な日本語で。

思わずあたしは答える。
「ただの通りすがりー、……ていうかこんなところで寝てるとヤバイよ? 酔ってんの?」
酔ってるのはあたしだけどな、と脳内ツッコミをしつつ。

それから、次に男から発せられたのは。

「酔う……? 誰が……、
いや、………………オレは誰だ?」

「んっ???」

まるでドラマかと思うような、不可解な台詞だったのだ。



「本当に思い出せないの?
名前も……住んでいたところも?
ていうか日本生まれ? 外国から来たんでしょ……? それすら覚えてない?」

「ああ」

男は端的に言えば、記憶喪失というやつだった。
着ていた簡素な衣服以外、所持品は一切なし。

裏寂れた路地の隅っこで眼を覚ました彼は、まず自分が誰なのかわからず混乱を覚えたようで……
それから、はじめは何かのギャグだと思って「うっそ! 記憶喪失ー?」と笑いながら声を掛けたあたしの顔を、真っ直ぐに、どこか縋るような表情で見つめてきたのだ。

これがもしナンパか何かだったら、随分演技上手だな、などと思いつつも。
『あの人』を彷彿とさせる顔立ちをしたその人を放っておけなかったあたしは、すぐさま彼を自分の家まで連れ帰ることに決めた。

無用心? それは認める。
馬鹿? 否定はしない。

けれど、まぁ…………
酔っ払い、アンド自暴自棄という今のあたしなら……
もし家で、豹変したこの人に襲われたりしても……
まぁこの人なら別にいいかな、なんて思えたのだ。
一応言っておくと、普段はこんな軽率なことしないから! 決して!!

あとはもし、金目の物を物色されたら。
それはさすがに痛いけど、でも、前に手癖の悪い男に引っかかって派手にやられたのに懲りて以来、家には現金クレカその他触られて困るものは見つかる場所には置いてないし。

お別れをしたばかりの彼氏とは外で会うことがほとんどだったので、自室を片付けてないのがちょっと恥ずかしいところだが……

ええい、もうどうにでもなれ!!



途中でコンビニに寄った時も、男は言葉少なだった。
お弁当コーナーをじっと見つめる彼に、お腹が空いているのだと察したあたしは、彼が熱心に見つめていた焼肉弁当を買ってあげた。
それから、お茶も。

帰り道、ダメ元で「この道通ったことない? 見覚えのあるモノない……?」と聞いても、男は首を振るばかりで。

これ……、もし本当に全部演技で、家にあげた途端に襲われたらどうしよう、なんて。
柄にもなくドキドキ、いや露骨に言えばちょっと興奮をしていたあたしは――

ついに身元不詳の男を、一人暮らしのアパートへと導いてしまい。
バッグからガサゴソと鍵を取り出すあたしを黙って見つめていた彼を、そのまま自室に招き入れたのだった!

バタンと音を立てて閉まる、玄関のドア。
これが、地獄の門が閉じた音にならなきゃいいけど。
念のため、一応鍵はかけないでおこう。


――白い髪に褐色の肌、頬に傷を持つ男。

彼はいきなりあたしに襲いかかってくることもなく、感情の読めない不思議な表情であたしと部屋の中を交互に見つめていた。

彼の姿は目立って汚いとか臭いとかいうわけではないが、よく見ると衣服のあちこちが薄汚れ、破けている。
この状態で室内に座らせるのは抵抗があったため、とりあえずお風呂を勧めることにするあたし。

明確な承諾も拒否もしない彼の態度に困惑しつつも、バスルームまで案内してあげれば、今度は彼の方が困惑したらしくあたしの顔を窺ってきた。

もしや、使い方が分からないとか……?
あたしは素直にシャワー等の使い方を教えてあげながら、この人どこの途上国から来たんだろう……なんて失礼なことを考える始末なのだった。


彼がシャワーに入っている間に部屋着に着替え、部屋に散らかったままの雑誌や自分の衣服を片付ける。
だが、未だ酔っているためかどうも効率が悪い。

無理のある突発的なお片付けは一旦諦め――
あたしは捨てようと思ってずっとそのままになっていた、昔うちに入り浸っていた元彼の服を衣装ケースの奥から引っ張り出した。

こういうだらしなさも、先の『誠実な彼氏』とは合わないんだよなぁ……なんて苦笑しながら。
その服一式をあたしは、身元不明の男に着せてあげることにしたのだ。


未だに名前がわからないので、男だとか彼だとかしか呼称出来ないのがもどかしい。
そんな彼の身長は、この現代日本ではごく平均的だった。

けれど、その体躯はよく鍛えられていて……
お風呂から上がった男が上裸でふらふらと部屋にやってきたとき、あたしは不覚にも顔が赤くなるのを自覚した。

それから、雑に拭いただけで濡れたままの髪を乾かしてもらおうと、ドライヤーを貸そうとしたら。

彼はドライヤーも見るのは初めてだったのだろうか、変な顔をしつつも床に座って素直に頭を差し出してきて。

名前も何もかも知らない怪しい男性の髪を触ることに、けれど何故か全く抵抗感を覚えなかったあたしは……
この状況に疑問を覚えつつも、彼の白い髪を指で触りながら、ドライヤーで乾かしてあげたのだった。


「日本語の発音はすごく流暢っぽいけどさ。
あたしの言ってること、全部理解出来てる?」

ローテーブルを挟んで床に座った、あたしと男。

胡座をかき、コンビニで買った焼肉弁当に遠慮なくガツガツと食らいつく彼にそう問い掛ければ、「ああ」とだけ返事が帰ってきた。

指先までこんがり日に焼けた異国人の肌。
だがその指は、まるでそうすることが自然だというように器用に二本の箸を操っている。

「なんかさ……、覚えてる言葉とかないの?
単語とかでも……うろ覚えでもさ」

夕食はとっくに済んでアルコールに脳味噌が冒されたあたしはもう、食欲も湧かない。

向かいに座る男の食事を観察しながら問い掛けを続ければ、返ってきたのはこれまた「……ねぇな」というぶっきらぼうな一言だった。

紫がかった双眼。
意思の強そうな眼差しは、やっぱり『あの人』にどこか似ている。

それに……、多分、『声』。

記憶の中で、人間は『声』を一番早く忘れてしまうという。
あたしはもはや、『あの人』の声をよく思い出せない。

けれども。
あたしの思い出の美化、願望というバイアスを差し引いても、この男の声は何故か『しっくりくる』のだ。

まるであの人……『バクラ』と呼んでいたあの人が、ほとんどまんまこの男の声だったとしても違和感がないくらいに。

あー、飲みすぎたなー……、
感傷的すぎて嫌になる……

鼻をぐす、と鳴らしたあたしは、水でも飲もうと席を立って男の前から離れた。


化粧を落として、顔を洗う。
お酒のせいか、ぶっちゃけ滅茶苦茶眠い。

仮にも異性の前ですっぴんがどうとか髪がぐしゃぐしゃだとか部屋着が可愛くないとか色々思うところはあったが、正直今は構っている余裕がない。
ここはあたしの家なのだ!!

そんなことを考えながら、ほとんど寝る準備をして部屋へと戻るあたしだったが。


「…………、」

男は弁当とお茶をすっかり空にしていた。

彼の胃袋がどれほどの大きさかは分からないが、とりあえず空腹は満たされたのだろう。

男は、テーブルの横でゴロンと横になり、床に敷いたラグの上で寝てしまっていた。

「なんで……、ソファーで寝ればいいのに……」

ぼやいたあたしの声に反応はない。
もっとも……それはそれで無理な話なのだが。

お片付けが間に合わず、ソファーの上にはあたしの衣服や雑誌がまだ残っている。
そのせいで、あたし達は先ほどソファーではなく、ラグを敷いた床に座らざるを得なかったんだから。

「…………」

閉じられた両の瞼。
すっかり乾き、ほんのりとシャンプーの香りを漂わせている白い髪。

無造作に伸びたその髪は美容院で整えたこともないのだろう、けれどそれは、整っていると言って差し支えない顔立ちによく似合っていて……
俗な言葉で言えば、『カッコイイ』。

あの人に似てるから、そしてだいぶお酒が入ってるから……
そんな理由を差し引いても、あたしにはなんだか、この彼がとても可愛く思えてきた。

ふふ、と少しだけ笑みを浮かべる。

あたしは眠り込んだ彼の頭の下にクッションを敷いてあげると、その体にも毛布をかけてあげたのだった――


………………

…………

……

夢の中であたしは、『彼』を思い出す。

白銀の髪をなびかせて、颯爽と夜闇を闊歩する彼。

彼が裾を翻していたコートは、まるで闇そのものに溶けるように黒く――

その背中は、かつてあたしを置いて何処かへ行ってしまったのだ。
何処か、遠い遠い場所へ。

あたしはその背中に追いすがることも出来ず、網膜に焼き付いた彼の残滓を、こうして夜ごと夢に見ることしか出来ない。

満たされない女の無様な未練。
後悔とは違う。
あの時何を置いてでもあの背中に食らいつけば良かったと後悔するくらいなら、あたしはきっともっとマシな人生を送っているはずだ。

ううん……、そうなったらきっと、今よりもっと最低な人生だったかもしれない。

やり直したいと後悔をするのではなく、ただ二度と戻らない日々を哀しく思うだけなんて……
なんて生産性が無いのだろう。

思い出を美化するのなんて簡単だ。
あたしはずっと、淡く、けれど熱くてたまらなかった、やわい思い出を胸に生きている。

今までも、きっとこれからも。



「…………、」

涙腺がチリチリする感覚が意識に割り込んだ。

眠りの中。
酔っ払って泥のように眠って起きた朝は、たいてい涙の痕跡が顔に残っている。

ああ、やだなぁ……、
朦朧とする頭でそんなことを考えていたら、不意にリアルな感触が瞼の稜線をなぞり、あたしはギクリとしてたちまち覚醒した。

すぐ近くにある他人の影。
ああ、彼氏……?

いや!

すぐに否定し、あたしは鬼気迫る表情で気配の主を凝視する。

――白い髪に褐色の肌。
あたしを見つめる、どこか既視感のある紫がかった双眸。

「…………ぁ、」

昨晩の現実が、遅れてあたしに重なった。


「あんた…………
そっか、起きたのね……」

ベッドを共にしたわけでもないのに寝起き姿を見られて、恥ずかしくなったあたしは大きく伸びをしながら欠伸を噛み殺した。

「おはよ。
床で寝て体痛くなんなかった?」

「ああ」

頬に大きな傷のある、名前も素性も知れない若い男。
そんな彼は、一晩中あたしに手を出すことはなかったらしい。

となると……これが全部演技で、本性はただの尻軽女目当てのナンパ外人、ていう線は消えるのかな。
つまり、俗に言う記憶喪失、それが本当の本当である可能性がグンと高まったわけで――

「お腹すいた? 朝ごはん食べる?」

寝起きのかすれた声でそう問いかければ、素直にコクリと頷く男を見て。
あたしは、これはひょっとするとけっこうややこしいことになるのでは……? という危機感を抱いたのだった。


「おいしい? ……ていうか、『それ』、食べるの始めて?」

昨晩と同じく、ソファーの前のローテーブルを向かい合って座ったあたしと彼。
彼……白銀の髪を持つ男にそう問いかければ、彼は口に物を入れたまま「ン……」と言う声で肯定を示した。

キッチンにあった、開封済でちょっとしけったシリアル。
……と、冷蔵庫にあった賞味期限ギリギリの牛乳。
何ともまぁ、わびしい朝食だが……
無いよりはマシだろうと、空腹そうにしている男に出してあげれば、彼はそれを素直にモグモグと口に運ぶのだった。


それからあたしは、昨晩と同じ質問をいくつか男に投げかけた。
名前、住んでいる場所、覚えている言葉や風景、人……
なんでもいいから、思い出せることは無いのかと。

けれど、彼の返答は昨日と全く一緒だった。
名前も年齢も、国籍も何もかもまったく思い出せないと言う。

シリアルを食べ終わり、物足りなさそうにしている男。
そんな彼にあたしは、食べかけのまま箱の口を閉めておいたクッキーを丸ごとあげた。
それから、ペットボトルから注いだ微糖のアイスコーヒーも。

バリバリとクッキーを遠慮なく頬張り、気に入ったのか、ペロリと唇を舐めて満足そうに口角を吊り上げる彼。

次いでコーヒーを口にした時、男の動作が一瞬固まり、眉間に皺を寄せながらあたしとコーヒーカップを交互に見遣ってきた。
まるで、エサ皿に入れてあげたエサが腐っていることを言外に示す、猫のように。

それを大袈裟に笑えば――
憮然とした表情の彼がチッと軽く舌打ちをこぼし、あたしは慌てて口をつぐむのだった。

そうなんだよね……
この彼、頬の派手な傷といい、言葉や態度のぶっきらぼうさといい……
どう見ても、一般人カタギは見えないんだよね……

――あたしの推理は、こうだ。
『その筋』の不良外人である、この男。
男は、同じくその筋の人と抗争になり、激しく殴られた衝撃か何かで記憶を失ってしまう。
そして、身分証や金品などの一切を奪われて、路上に放置……
多分恐らく、不法滞在というおまけつきで。

て、ちょっと待って!?
そう考えたら、その男をこうして一時とはいえ匿っている形になったあたしの身も、けっこうヤバイのでは……!?
それに、体には目立った生傷も無いし……
なんて――


「別に……名前なんざどうだっていい」

クッキーと、ご丁寧に初めて飲んだらしいコーヒーまでをも平らげた男が、そうポツリと口にした。
どこか寂しそうな、投げやりなその口調。

骨の髄まで染み付いた、アウトローの匂い。
彼はそれから、「適当な名前で呼んでくれていいぜ」と素っ気なく告げた。

「うーん」

これがもし、『ただ顔が似ているだけ』の、全く別のイメージを想起させる人間であったなら……
あたしはこの男と『あの人』を、ことさらダブらせることなど無かっただろう。

たとえば、顔が似ているだけで物腰は馬鹿丁寧親切だとか、テンションやノリがやけに軽薄だとか……似ても似つかない人種であったなら。

けれど、褐色白髪のこの男が喋るたび、あたしはどうしようもなく『あの人』の名前を思い出してしまうのだ。

たった三文字の。
『宿主』である少年の名字と同じ音を持つ、あの名前を――

だから。


「じゃあ…………、バクラ」

「……?」

「適当に考えた、あんたの名前。
見た目からして勝手に年下だと思って、あんたあんたって連呼してるけど……
やっぱ名前ないと不便じゃん?」

「…………」

バクラ、と――たった今名付けられたばかりの名前を、口の中で反芻する男。

思い出バイアスだ、願望だ、未練タラタラの感傷だとわかってはいても。

その名を口にする彼の声に、あたしはやっぱりどこか、既視感を覚えずにはいられないのだった――


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