あたしの人生は、いつだって上手くいかないことばかりだ。
それはあたしという人間に刷り込まれた、生育環境のせいでもあるし――
でも、やっぱり。
結局は、あたしという取るに足らない人間自身の問題、限界なのだと思う。
あたし、ミョウジ ナマエ。
高校を卒業し、無事成人して幾年か。
そんなお酒の飲める年齢のあたしは今、無様にも酔っ払った足取りで、夜の路地を一人歩いていた。
ふらふらと。ゆらゆらと体を揺らしながら、覚束ない足取りで。
コツ、コツコツ、カカカッ、と。
不規則に道路を叩くヒールの音は、酔っ払った女以外の何者でもなく。
朦朧とする頭で、せめてバッグだけは落とさないように……とバッグを抱え込むように抱き締め、自宅へと向かうあたし。
何故、まだ『若い女』の部類に入るあたしが、こんなみっともない格好で、一人家路についているのかという理由。
それは…………、
唐突に告白して申し訳ないが、あたしは毒親……もっと洒落た言い方をすれば、機能不全家族育ちだ。
母親の役割をろくにこなさず、男に熱を上げるだらしない母親。
そんな母親に愛想を尽かし、子供ごと置いて出て行った責任感の無い父親。
そして、男を見る目のない母親が連れてきた、新しい父親――ううん、あんな、男『ヤツ』で十分だ。
まぁなんというか、その辺は察して欲しい。
あたしも今更詳しく語りたくはない。
ぶっちゃけ、思い出したくないのだ。
あたしを弄んだ『ヤツ』のことだけじゃない、そう……
『ヤツ』の魔の手から、あたしを救い出してくれた存在のこと、とか。
だって思い出したら辛くなるから。
酔っ払ってる時に『あの人』を思い出したら、100%泣いてしまうから。
だから今は記憶の底に封じたままにする。
で、そんなわけで――紆余曲折あって、すんでのところで『ヤツ』の魔の手から逃げ切ったあたしは、高校卒業と同時に妹の手を引いて逃げるように家を飛び出したのだ。
ろくな能力も実家の後ろ盾も無い、跳ねっ返りで育ちの悪い女が、まだ中学生になったばかりの妹を守りながら生きていくのはなかなか大変だったが……
それでもあたしは何とか、今まで生きてきた。
就職した先の親切な上司に、目をかけてもらって。
その上司と入れ替りで異動してきた別のセクハラ上司を殴って、会社を辞めて。
妹がデュエルの世界で頭角を現し、高校の特待生として奨学金つきで寮に入るからと家を出て行って、あたしの役目もとりあえず終わったとほっと一安心して。
独りになったあたしは、気ままに派遣やアルバイトをして食いつなぐ傍ら、優しい言葉をかけてくる体目当ての男に引っかかって。裏切られて泣いて。
稼ぎのいい夜の仕事をして、また馬鹿な男にお金を軽く貢いで懲りて、昼職に戻ってきて。
それからも、何人かの男とくっついたり離れたりを繰り返して。
あたしは基本的に人間の善意を信じていない。
信じていない、が……。
つい最近、とあるきっかけで出会った一人の男性が居た。
一見善良そうに見えるその人とあたしは交際を始め、そして――
付き合いを深めるごとに男は本性を現し……、男はやっぱり、
……善人だったのだ。
誠実と言い換えても良い。
育ちの悪いあたしをやんわりと諭し、正しい方向へ導き、ヒスるあたしを優しく宥め。
それでもあたしを見捨てない、正しく善い男。
そこまでイケメンじゃない。派手でもない。お金持ちでもない。
けれどあたしを大事にしてくれる、素敵な男性。
こんな人とだったら幸せになれると、あたしは初めて思えたのだ。
酔ったあたしが、ドン引きされることは覚悟の上で、語るも恥ずかしい身の上話を告白した時。
彼は、優しくあたしの手を取って、こんなことを言ったのだ。
『辛かったね』
『過去の事は忘れて一緒に生きていこう』
『親がどうこうは関係ない。これからの未来で暖かい家庭を築いていけば良い』
と……
あたしはその言葉に、素直に涙した。
こんな優しい人が居たんだ。あたしの全てを受け入れて、包み込んでくれる人が――
あたしはその時、この人となら残りの人生を一緒に歩いて行けるかも、と……そう思ったのだ。
けれども。
いくら相手の男が素敵でも、やっぱりあたしは『あたし』でしかなかった。
我が強くて、素直じゃなくて、育ちや過去の汚点等々、劣等感にまみれている。
あたしはいつしか、気付いてしまった。
彼が、あたしの黒い過去からそっと眼を逸らすように、『幸せ』というものが何なのかを、あたしに教えてくれるたびに。
あたしの心にモヤが生まれて、何かがチリチリと燻っていることに。
そしてそれは、彼が、これが自分の家族だよと――
彼と実家の家族で撮った写真を見せてくれたときに、決定的となった。
彼と、両親と、兄弟で撮った他愛のない家族写真。
全員が幸せそうに微笑むその写真を見たとき、あたしはただただ、打ちのめされるのを感じた。
きちんと仕事をして家族を養い、子供に無償の愛を与える両親。
彼らは善良な大人で、養育を盾に子供に非道なことを要求したりはしない。
子供に正しい道を教え、諭し、見守り、愛してくれる。
時には喧嘩をすることもあるけれど、暖かくて、幸せな家庭――
その充足こそが、あたしと彼をどこまでも隔てる溝だった。
あたしには二度と手に入らないもの。
これから手に入れたとして、決して消えない劣等感。
永遠に失われたもの。どんなに渇望しても、戻ってくるはずが無いもの――
敗北感に打ちのめされる。
同じ国に生まれたのに……望むと望まざるとに関わらず二分される、『持てる者』と『持たざる者』。
家族のことを、何ら後ろめたさもなく、屈託なく笑いながら語る彼を見たときに――
あたしは、永遠にこの人とは一緒になれないと悟ってしまったのだ。
もちろん全ての原因はあたしにある。
あたしの育ちがどうこうだけじゃない。
とっとと忘れてしまえば良いそれを、後生大事に抱え込んで自我をこじらせた、あたしという人間の不完全さゆえだ。
決して彼に罪は無い。
もしあるとしたら、こんなあたしに優しくしたことだ。
全部受け止めてあげると……君は変われる、と……どこまでも仁徳に溢れた言葉を吐いて。
それで『あたし』の全てが浄化されるなんて、本気で思っていた愚直さだ。
だからあたしは――そう。
意を決して、彼に別れを告げたのだ。
今日。ほんの数時間前。
『何となくわかってたよ』と彼は言った。
それから、『君のそれはまるで呪いだね』と……
いつものような、『全てわかったような顔』であたしに言った。
そう。
あたし、自分が馬鹿なのは自覚してるけどさ。
君は何も知らないだろうから導いてあげるよ、というような彼の態度が、少しだけ苦手だったのだ、あたしは。
あたしの半生を、『不幸だったね』と一言で語らないで欲しい。
『辛かったね』は良いけど、『可哀相だったね』『忘れなよ』は嫌だ。
だって、だって、それを言ったら。
それを言ったら……!!
あたしの後ろ暗かった半生に、燦然と降臨した……『あの人』!
あの人のことまで! 不幸な過去という枠に、押し込めなきゃいけなくなるから……!!
『あの人』……
あたしを救い出してくれて、生きる喜びをくれたあの人。
どんな人と付き合ったって、あの人には到底かなわない。
うん、そういうのが自分自身を縛っている鎖だとは重々承知だけどさ。
『まるで呪いだね』
――わかっている。
あの人が嘯いていたオカルトめいたキーワードのように、きっとこれは呪いだ。
あたしの人生に楔を打ち込む呪い。
でもその呪いは、思い出すだけで胸が甘く疼くような、切ない呪いなのだ――
「はぁ…………」
酒臭いため息をつく。
長々とこれまでの出来事を思い返していたあたしは、相変わらずよたつく足取りで、人気の少ない路地へと踏み入っていた。
女の酔っ払い一人、どう考えても無用心だとは思うが……
今のあたしは、端的に言えば『自暴自棄』。
細かいことなんてもうどうでもいい。
数時間前に、二人で入った店で別れを告げた時。
ほどなくして彼は、あたしを置いて一人店を出て行った。
もう会うこともないだろう。あたしはどこまでも薄情で強情者だと思う。
むしゃくしゃする気持ちと空虚感、そして僅かな安堵を胸に。
店に残ってグラスを呷っていたあたしは、気付けばだいぶ『出来上がって』いて。
そして、ため息をつきながら店を出て……今に至るというわけだ。
コツ、コツコツ、カカッ……、
かかとの高い靴というものは、この上なく酔っ払いと相性が悪い。
今すぐこの靴を脱いで、誰かにおんぶして欲しい……
そしてウトウトするあたしをちゃんと家まで連れ帰って、ベッドに寝かせて欲しい。
たとえば、いつか見た、あの細い背中の人に、だとか。
ああでも、いくらあたしの思い出が美化されてるとはいえ、さすがに『あの人』はそんなことをしてくれるタイプじゃ――
「バクラ……」
思わず口をついて出る『あの人』の名前。
しまった、と思ったときにはもう遅かった。
酔っ払い特有の取り留めの無い思考から、彼に付随する思い出だけが流出する。
脳裏に浮かび上がるシルエット。膨れ上がる想い。
あ、駄目だ、泣く……!!
そう思ったあたしの視界に、唐突に割り込んできたモノがあった。
「っ、……?」
それは。
謎の物体、だった。
「……?」
込みあがりかけた涙が、予期せぬモノの登場により一旦止まる。
それからあたしは、路地の片隅に横たわった『それ』をまじまじと眺めた。
「…………」
人だ。
倒れている、人。
裏路地で倒れこんでいる……いや、寝ている? 人間。
酔っ払いか、行き倒れか。
とりあえずホームレスっぽくはない。手ぶらみたいだし。
人気の無い路地に、音もなく何気に人がいたという事実にぎょっとしつつ、しかしそれが微動だにしない人間だとわかると、あたしは少しだけ安堵を覚えた。
あたしは決して善人ではない。
素面の時に道端で寝ている人間なんざ見たって、何とも思わないどころか、うわウッザ、迷惑〜なんてひどいことを思って横目で通り過ぎるくらいのことは平気でやる。
けれど、今のあたしは素面ではない。
何となく、本当になんとなく、気まぐれで……
親切心のようなものを抱いたあたしは、つま先で軽くツンツンとその人間をつついてみたのだ。
もし万一死体だったら、近くにあった交番に知らせてあげても……いや、やっぱ面倒臭いなぁなどと逡巡しながら。
「もしもーし……こんなところで寝てると、風邪引いちゃいますよ〜?」
今の季節は、初夏。
決して外で寝ていて凍死するような寒さではない。
けれど、上着も無しに外で一晩中爆睡していて大丈夫なほど暑くもない。昼夜で寒暖の差が激しいのだ。
そんなあたしの呼びかけに反応したのか。
「ん……」と小さな声が漏れたかと思うと、それはごろりと寝返りを打った。
生きてはいるようだ。浮浪者のように目立って汚れてもいない。
そして、先程までは顔が見えなかったその人の顔が、あたしの眼前に晒されたとき――
あたしはその人間……目を閉じて倒れている男に、嫌でも注目せざるをえなくなった。
若い男性。
白い髪。
褐色の肌。
服装は取るに足らない普通のシャツにジャージだが、恐らく外国人だ。
注目すべきはその頬。男自身から見て右頬に、深い傷跡が刻まれている。
縦に一本、横に二本。どうやったらこんな傷がつくというのだろう。
けれど、何よりも驚愕すべきはその顔立ちだった。
「ぇ……」
ドクリと心臓が鳴り、肺から空気が漏れる。
――似ている。
同じ白っぽい髪の色だけではない。
その、目元……丁寧に閉じられた瞼のライン、鼻梁のシルエット……
その雰囲気が、あたしが絶対に絶対に忘れられない『あの人』に、よく似ていたのだ。
あの人が……上品に生え揃った睫毛を伏せて、フフ、と不敵に薄く笑った時の顔に――
「…………っ」
アルコール成分と噴出する記憶が、頭の中で渦を巻く。
待って、人種が違ったって似ている人間は居る、それに目を開けたら全然似てないかもしれな――
けれどあたしのまとまらない思考は、閉じられた二つの眼が静かに開かれたとき、完全に停止した。
人気の無い裏路地で、むくりと体を起こした男の顔は。
あたしに呪いをかけた、『あの人』にやはり似ていたのだった――
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