番外編U-1



「おまえ、前にどんな男と付き合ってたんだよ? 」

その言葉は、いつだってあたしを苦しめる。


「今でもそいつに未練タラタラなんだろ?
女は初めての男を忘れられねーって言うもんな」

「っ、は??」

「つーか前から思ってたけど、ヤってる時も反応悪いんだよおまえ。
元彼のとこ戻れば? ホントに」

……ほらね、今回もこうなった。


「はぁ!?!? 元彼関係ないし。
ていうかそもそも彼氏じゃな…………
つーかふざけんなよ!! そういうこと言う!?

アンタが下手くそなのがいけないんじゃん!!
てかそれを理由に浮気するとか最低なんだけど!!!」

「ハァ〜! すぐ人のせいにすんのな!
本当終わってるよ、おまえ。
つか他の女だとフツーに反応イイし。おまえが悪いだけだろ!」

「ふざけんな、つーかアンタにおまえおまえ言われたくない!!
浮気しといて他の女と比べるとかサイテー!!!
死ねよ、本当!!」

「そういう口が悪くて性格終わってるとこも本っ当ムリ!
つーかもう全部ムリだわ! おまえとは終わり!
元彼に泣きついてヨリ戻せば?
あ、振られたんだっけ?w じゃあ無理かー!」

「っ、てめーもう出てけよ!! 馬鹿!!」

あーもう最低最低最低!!!!


「あ、あとおまえさ!
強がってる割には、キツめにヤろうとするとビビった顔するよな!
もしかして虐待されたことでもあんの? はは!」

「――ッ、死ね!!」

「テメーこそ死ねよクソ女、ばーか!!!!」

「二度と顔見せんなクソが!!!」


っ、ざけんなあぁぁぁぁぁ!!!!!!!!


「……あああぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


――――――、

――――、

――、


「…………っ、」

こうしてあたしは、自分の叫び声と、腹の底がチリチリする感覚で目が覚めた。


あたし――ミョウジ ナマエ。

つい先日、だらしなく半同棲みたくなってた彼氏が喧嘩の末出ていって、一人きりの朝を迎えた女。


「ふぁぁ〜〜…………、あーもうサイアク」

最低最悪の夢。

二度と思い出したくなかった出来事を夢に見たせいで、寝起きしょっぱなから気分は最悪だ。

行き場のない怒りがまるで鉛のようにあたしの中に陣取って、ギリギリと胃を押し上げている。

起床時の空腹もあり、胃がムカムカするような吐き気に襲われたあたしは、のっそりとベッドから起き上がった。


額に汗が滲んでいる。
そろそろ夏も終わる頃だが未だ残暑は厳しい。

つけっぱなしになっているクーラーは睡眠モードだったためか冷気が弱く、あたしは暑さにイラつきながら枕元にあったクーラーのリモコンに手を伸ばした。

シーツの上でくしゃくしゃになったタオルケットをめくれば、ふわりと漂ってくる彼氏――いや、もう彼氏じゃない。
最低な男の残り香が、あたしをさらにイラつかせる。

「死ね」

無意識に口をついて出た暴言をそのままにし、面倒だけど今日は休日だからシーツも枕カバーもタオルケットも全部捨てて新しいのに替えよう、などと思う。

元々あいつの体臭は好きじゃなかったのだ。
匂いが好みじゃない相手とは相性が良くない――そんな話を聞いたことがあるけど、案外本当なのかもしれない。


あたし名義で借りている、あたしだけの家。

妹が別の都市に就職したのをきっかけに、あたしは一人暮らしになった。

いわゆる毒親に相当するであろう母親とは絶縁した。
既に別の家庭を持っている実父とも、今はほとんど連絡を取っていない。


『あれ』から何年が経ったのだろうか。

『“元彼”のとこ戻れば』

ムカつく男の一言が脳裏に蘇る。

戻れるもんならとっくに戻ってるっての!
ていうか、彼氏じゃなかったし!!

「…………ラ」


ああ、なんで!!!!

『あれ』から何年も経ったはずだ。
当時小学生だった妹も今や社会人。
あたしだってもう若さでちやほやされる歳でもない。

なのに……、なのに!!!!


あたしはなんで『今でも』、“彼”を忘れられないのだろう!!!


どんな男と付き合っても、最後はやっぱダメで。
どんな男と寝ても、思い出すのは彼の顔で。

世の中をろくに知らない高校生の頃にちょっとセフレのような関係を築いただけの男を、あたしはずっと忘れられなくて。

そのせいで、他の男と上手くいくものも上手くいかなくて。
ていうかそもそもあたしは愛情に飢えている馬鹿で、男を見る目もなくて。

クズな男に安易に引っかかり、安っぽい言葉で舞い上がって、お手軽な温もりを愛情だと勘違いして。
結局クズなことをされて、腹が立つと同時に、『彼』だったらこんなことはしない、こんなことは言わないとか思っちゃって。

本当笑える。
思い出だけがあたしの中でどんどん膨らんで、あたしの中の『彼』だけがどんどん美化されてって。

もう、数えるのもうんざりするくらいの、長い時間が経ったのに。

あたしは、あたしは……、本当に大馬鹿だ!!


「バクラ…………」

ぽつり、と吐き出した名前は、あたしの“初めて”の人。

そして恐らく、もう生きてるうちには二度と会えない人。

あたしは――――バクラが大好きだった。




「はぁぁ〜〜…………本当サイテー……」

お酒というものは、怒りも、孤独感も何もかもを薄めてくれる。

日々の労働に疲れた社会人にとって、貴重な休日。
そんな休日に、聞く人のいないぼやきを呪詛のように吐き出しながら、あたしは昼間っから自宅で飲んだくれていた。

一人暮らしには十分すぎる、2DKの物件。
ヤツが居る時にはちょっと狭く感じたこの部屋も、ようやく本来の姿を取り戻した気がする。

簡素なテーブルに安い缶チューハイ。
朝食と昼食と酒のつまみの役目を同時に果たす適当な食事を口へ押し込みながら、特に面白くもないテレビ番組へ目を向けるあたし。

「何が反応わりーだよ……、てめーが下手くそなんだっつーの!
ていうか痛いし。自分勝手だし。こっちのペース考えずにさっさと自分だけ気持ち良くなって終わっちゃうし。

本当サイテー……なんであんな男と付き合ってたんだか」

『もしかして虐待されたことでもあんの』

――ッ、ああもう!!!!

「死ね死ね死ね!!!!
っ、思い出したくないこと、思い出させやがって……!!」

胸の奥がギリギリと締め付けられ、胃がぐっと不快に押し上げられた。

いつか感じた、既視感。

あたしは握り締めていた缶から手を離すと、思わず口を抑え、無理矢理上を向いた。

吐くな吐くな吐くな!

そう、だってあたしは。

――『彼』のおかげで、もう大丈夫なのだから。


(バ、クラ…………)

思い出したくない最低で汚いあたしの過去を、不敵な笑みであっさりと拭い去った彼。

彼――バクラ。

あたしの同級生の体を借りていた、よく分からない『精神』。
バクラは邪悪で、底が知れなくて、でも最高にカッコ良くて。

あたしは初め、バクラがバクラであることを知らずに、『宿主』である獏良了の方を利用しようとして。
あたしの挑発に乗ってあたしの体を組み敷いた邪悪な彼に、あたしは……

気付けば、ガチで惚れてしまっていたのだ。


あたしはバクラとつるんで、悪いことをして。
その合間に、まるでセフレのごとく、体を重ねて。
『敵』や『獲物』に対して容赦をしないバクラは、何故かあたしには優しくて、いつだってあたしを悦ばせるように抱いて。

それ以外でも……変な例えでごめんだけど、まるで何かの重要な使命を帯びたスパイが、カムフラージュを兼ねて『普通の生活』を楽しむような。
そんな仮初っぽさと軽いノリでもって、バクラはあたしを連れて街をブラついて。

そんな不可解で、でも楽しくて、どこか現実感のない非日常な日々が、あたしは大好きだったのだ。


バクラ…………

吐き気が収まり、かわりに眠気が頭をもたげて来る。

もはやテレビはBGMにもなりゃしない。
あたしはテレビを消すと、残っていた食事を喉の奥に押し込み、缶チューハイを呷って流し込んだ。

いくら休みだとはいえ、昼間っから飲んだくれて、起きてから少ししか経っていないというのに昼寝になだれこもうとしている、自堕落で哀れな女の醜態。

けれど、今は客観視などどうでもいい。

生理的欲求に任せてごろんと横になれば、自然と降りてきた瞼が視界を闇に塗りつぶした。

そして。



………………

…………

……



「バクラってさぁ…………なんかイメージと違う」

ベッドの上で素っ裸のまま、ごろんと寝転がる『あたし』。

童実野高校に通う女子高生である、あたし。


「何がだよ」

『彼』があたしに反応して言葉を返す。

彼――バクラ。
獏良了という男子高校生の肉体と、胸に下げた摩訶不思議なリングのアクセの力によって生まれたらしい、奇跡みたいな存在。

「だってさー……初めての時はあんなに乱暴だったのに。
めっちゃ痛かったんだから、あれ」

ベッドの端に腰掛けている白い背中を眺めながら、あたしは広いベッドの空間とシーツの感触を楽しむように、ごろごろと無意味な動きを繰り返していた。

自宅の狭いシングルベッドでは無論こんな事は出来ない。
うちの経済事情よりは裕福なバクラ……ううん、獏良クンちのベッドならまだ多少はマシだが、そっちはそっちであくまでも『宿主には秘密だ』という設定? らしいから、我が物顔で601号室に入り浸ることもできやしない。

高校生には似つかわしくない、ラブホのベッド。

あたしとバクラはたまにここに来ては、どこまでも不健全で爛れた時間を過ごしていた。


どんな時でも決してリングを手放さないバクラが、あたしを軽く振り返って言う。

「あんだけ挑発しておいてよく言うぜ。
殺されなかっただけでもありがたいと思いな」

手短に答えた彼の物言いは、厳密にはあたしの疑問に対する答えにはなっていない。

けれどもぶっきらぼうに吐き出された言葉から、その意味を推察するなら――
あの時はあたしが彼を襲わせようとわざと挑発したのだから、乱暴にされるのはある意味当たり前で、むしろあの状況で優しくする方がおかしいだろということだ。

ということはつまり、『あんな状況じゃなければ』、彼は『そういう時』に手荒な真似をする趣味はない、ということで……?

いやいや。

「いや、うん、あの時はあたしが悪かったからやっぱ別として。
……そうじゃなくてさ。『あの時の』を見る限り、あっちが本性だと思うんだけど……
あっストレートに言い過ぎた。ごめん、別に性癖に文句つけてるとかそういう話じゃなくて――」

「つまり、もっと乱暴にして欲しいってか?
オレ様『らしくない』から……ほう、そういうのがお望みだったとはな」

「あっ!? いや、そこまでは言ってないけど……」

「オマエには無理だ」

「っ、」

きっぱりと言い切ったバクラの声。

それは目の前で唐突に下ろされた遮断機というか、透明だけど決して割れないガラスの壁というか……

とにかく、高みからあたしを勝手に見積もって、あたしのことなど全部お見通しだとタカを括るバクラの傲慢だった。

勿論、はねっかえりのあたしがそれに腹を立てないわけはない。

「勝手に見積もられんのムカつくんですけどー!
我慢しないでやりたいことしてみてよ。駄目そうだったら駄目って言うからさ!」

軽く沸いた怒りをやる気に変えて、あたしはバクラに食い下がる。

「…………」

けれどバクラは、無言でまたあたしに背を向け直してしまって。

白く艶やかな後頭部からは、彼の表情は決して読み取れないのだった。

何その態度。
ムカつく……というより、不安になるんですけど。


「もー……言いたい事があるなら言ってよ。
別に変な性癖でも引かないって! ねー」

自分で自分をうざいと自覚しつつ、あたしはバクラの背中に覆いかぶさるように後ろから腕を回すと、彼の首に絡みついた。

「うざってぇ。じゃれついてくんじゃねえよ」

字面は乱暴だがどこか穏やかな彼の声が、あたしをやんわりと拒否する。

「……普通さ、本命を大切にしてセフレには好き勝手なコトするって言わない?
逆じゃん。なに遠慮してんだか」

あたしはバクラに後ろから抱きついたまま、耳元で囁くように呟いた。

バクラの細い身体とふんわりとした髪は、いつだって良い匂いがする。
シャンプーとボディーソープと……それだけじゃない、バクラ特有の香り。

あたしはバクラの匂いが大好きだ。

白銀の髪を掻き分け、隠れていた首筋に顔をうずめ、息を吸う。

ほら、この匂い。
反射的に疼く下腹部は、あたしがどこまでも生きた動物である証だ。


「実はオマエが本命で、大事で大事でたまんねんから乱暴な事はしたくねえんだよ、って言っても」

「棒読みじゃん!! そういうの照れるしちょっと傷つくからやだ……!
ていうかぶっちゃけ、あんたの『演技』好きじゃない」

バクラがすらすらと口にした舌触りの良い文句を遮って、あたしは彼の首に回していた腕の力を緩めた。
けれど、離れることはせず、そのまま手をすすすと下へ滑らせていく。

バクラの首に掛けられた紐を指でなぞって行けば、やがて指先がひんやりとした硬いモノへ辿り着く。
いつだって彼の胸元で揺らめいている、リング状のアクセサリーだ。

バクラが冗談めかして『本体だ』とうそぶく、古代の遺物のような首飾り。

「触んな」

彼の制止を無視して、リングの円を背後から指先でなぞるあたし。
輪を縁取るように伸びた五本の突起と揺れる針が、あたしの手の中でちゃりちゃりと音を立てた。

なんか、この構図って、…………。


気付いた途端、獣みたく興奮したあたしは、首を伸ばしてバクラの耳朶に唇を寄せた。
かぷ、と優しく歯を立てて髪ごと耳を噛み、後ろから回したままの手でリングを弄ぶ。

「おい、っ」

身じろぎをしたバクラは、しかし力ずくであたしを引き剥がしてはこない。

ほら、やっぱり、なんか……
この構図って、なんかやらしくて面白くない?

彼のむき出しの背中に抱きつくように、胸の膨らみをじかに押し付けて。
唇で髪を掻き分けてあげて、ちゅ、ちゅと音を立てて彼の耳や頬にキスをして。

伸ばした両手で後ろから弄んでいるのは、彼の下腹部じゃなく、胸元のアクセで。
十本の指をさわさわと動かして、輪っかをこすって、針を揺らして。

たぶん絵面は卑猥なのに、なんとなく代替行為というか、滑稽というか――


「ッ……!!!」


突然、だった。

半ばされるがままになっていたバクラは、予備動作なしにあたしを力強く払いのけ、びっくりしたあたしを振り返ると同時に、ものすごい力でベッドに押し倒した。

「ちょ、」

漏らした声は、それ以上言葉になることを許してはくれない。

彼は、あたしの首を絞めたのだ。

あたしに馬乗りになって、体重をかけて。

「っ、は」

ありとあらゆる衝撃が、まるで輪唱のように繰り返し襲い掛かって、あたしの頭と身体はたちまちパニックに陥ってしまう。

え、何、なにこれ、嘘、


ギリギリと締め付けられた首――
何故だかそれは苦しいというよりも、血液の流れを遮断されるような圧迫感だった。

「ここに穴を開けてやろうか?
リングの針と同じ、5つ……消えない穴をよ」

バクラは片手であたしの首を絞めたまま、もう片方の指でトントンとあたしの胸元を何度か叩いた。

ククク、と嗤ったバクラの顔――
その眼を見たとき、あたしは全身が粟立つのを自覚した。

どこまでも昏い、深い深い闇の底のような双眸。

瞳の奥にあるのは、決して触れてはいけない、邪悪な闇そのもの。


あたしは素直に――ただ素直に、恐怖した。

バクラの奥底にある『モノ』を。


「…………、」

唇が震える。

意識が遠くなりそうになって、それに気付いたのか、バクラがあたしの首に掛けていた力を緩めた。

「ば、くら」

ようやく搾り出した自分の声は無様なほど弱々しくて、淫猥なラブホの雰囲気にはどこまでも似つかわしくなかった。


「良くしてやるから脚開けよ」

――――ッ、

次いで吐き出された一言に、ひゅ、と心臓が凍ったように収縮する。

既視感。デジャヴ。

冷たく吐き捨てられた、けれどどこか面白そうなその台詞、は。


やだ。このタイミングで思い出したくない。

やだ、やだ。

あたしを『搾取』した『ヤツ』と、同じ台詞を吐いたバクラが、

嫌だ、
だって、
違う、

あたしは……!!!!


「っ、っ…………」

ぶわりと涙が込みあがったのと同時に、頭を優しく撫でたものがあった。


「…………っ」

考えるまでもない。バクラの手だ。

『ヤツ』とほとんど変わらない体温、けれど決して『違う』バクラの体温。
あたしを救った温もり。

バクラの手が、まるで宥めるようにあたしの頭を何度も撫でる。

おずおずとその顔を窺えば、その眼は『ほらな、』と無言で語っていた。

呆れるような、諦めるような。
どこか寂しそうにも見えるその目には、もはやドス黒いものは浮かんでいなかった。

「……っ、」

こうしてあたしは理解してしまうのだ。
自分が、どこまで行っても平凡で、ただのトラウマ持ちの無力な少女であることを。

あたしは決してバクラの『本質』にはついて行けないし、全てを捨てて己を丸ごと差し出すことも出来やしない。

あたしという人間の限界。あたしとバクラを隔てる見えない壁。

だからあたしは、バクラを引き止めることも出来ず、いつか去っていく彼の背中を見送ることしか出来ないのだろう。

その事実は、どこまでも哀しくて、残酷で、無情だ。


「……冗談だっつーの。
身の程を知ったか? ナマエよぉ」

「…………」

「ま……、あんまり深く考えんじゃねえよ。
オレ様だって割と気に入ってんだぜ?
オマエとこうやってぬるく楽しく恋人ごっこをすんのをな」

「こ、こいび……」

「セフレごっこでも何でもいいぜ。
オマエには言ってなかったか?
人間の他愛ない暇つぶし、ってのも案外悪くねえんだよ。借りモンの身体でもな。
だからもう余計なこと考えずに愉しんどきな」

ククク、とあたしに笑いかけるバクラの顔は、『敵』や『獲物』に向けるものとはどこか違っていた――


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