10.人というものは



英瑠は今、混乱の只中にいた。


あらゆる情報が、自分の中を素通りして抜けていくような感覚。

目の前の出来事を認識はしているのに、一歩引いた場所からそれを眺めて惚けているような。


バクラに、重ねられた唇。

ただそれだけだ。
それだけのはず、なのに。

頭が火照ってクラクラする。
武器を握る手さえ、熱いような錯覚を覚える。


「遅れてんじゃねえ英瑠、死にてぇのか!」

彼の怒声ではっと我に返った彼女は、慌てて駆け出す。

頭は空転していても、身体だけは滑らかに動くのだから因果なものだ。

それはきっと人外由来の理由からだけではない。
戦と鍛練の経験が、英瑠の身体を最適解で動かしている部分も大きいのだろう。


だがそんな彼女にも、知らなかったことがある。

異性と、異性として触れ合うことだ。

ガラの悪い目上の武将に性的な嫌がらせという名の絡まれ方をされたり、人外と女武将という物珍しさに目をつけたどこぞの御曹司たちから興味本意で浮ついた言葉を投げつられるといったような、思い出したくない経験は勘定に入れずに、だ。

容易いな、と彼女は自嘲する。

バクラとはまだ出会ったばかりと言っても良いくらいなのに。

それなのに。
なのに、こんな。

天命とやらが本当にあるならば、本当に意地悪だ。

今更。こんな。

この世界で第二の戦を始めようと決意しただけでもだいぶ重大なのに、この上、ほの甘い懸想までなんて――


「左だ!」

『彼』の声に、ほとんど反射的に身を屈める。

何かの罠が体の上を素通りし、まるで四つん這いの獣のように体を低くして床を蹴った。

横目で異能の気配を追ってみれば、彼――盗賊王を名乗るバクラの『あれ』が、壁をすり抜け床へと移動していくのが見えた。

バクラはもはやあの力、精霊獣というらしいディアバウンドの存在を隠してはいない。

凶悪な罠を警戒するため、ディアバウンドに辺りをゆっくりと巡回させているのだ。

そうでもしないと、この張り巡らされた罠を無傷でくぐり抜けるにはひどく手間が掛かりそうだったからだ。

彼の精霊獣は、壁や床をすり抜ける特殊能力を持っているのだとバクラは得意げに教えてくれた。

『オマエの中にも居ると思うぜ?』

彼はそんなことも言っていた。

彼のことを疑うわけではないが、いまいち信じられないと英瑠は思う。

いくらなんでもあんな、絵に書いたような神仙や妖魔のような――
非現実的すぎる。

そこまで考えて、いや、それならばそもそも自分の存在自体が非現実的ではないか、と英瑠は思い直して、苦笑いを浮かべながらバクラの背中を追ったのだった。






「ようやくご到着だぜ」

苦難の果てに、辿りついた部屋。

バクラが心底憎んでいるという王様の、遺体が眠っている場所。

「宝物を運び出すぜ。
英瑠、片っ端から袋に詰めとけ」

そう命じるバクラの背中はまた、剣呑な気配に満ちていた。

英瑠は先ほどの、思い出すことすら禍々しい身の上話を告白した時の彼の様子を思い出し、また複雑な気持ちになった。

同時に、どこかそれを静かに捉える自分の冷酷さにも身震いする。


彼の過去を、可哀想だと思ったのは事実だ。
許しがたい惨劇だ、とも思う。

だが涙を流すほど感情を昂らせたのは、その悲劇に彩られた過去が、他でもない彼――バクラのものだったからだ。

バクラだから、同情した。
バクラが見舞われた災禍だったから、泣くほど悲しくなった。

逆に言えば、その悲劇から、『図らずも惹かれたバクラの存在』を排除してみたら――

その時、己の心が何と冷ややかで諦観に満ちているかということに、彼女は薄々気付いていたのだった。


そう。

生と死。目を覆うような惨劇。

力ある者が、力無き者の命を踏みにじるような、殺伐とした世界。

それは大義名分を掲げた戦だけではない。
権力者の都合により、略奪や暴行、それこそバクラが体験したような、理不尽な村落滅殺だって元いた世界では珍しくも――

そこまで考え、英瑠は己の居た血塗られた世界、半ば仕方ないと目にも止めなかった数え切れない暴虐が持つ重みを、今一度改めて実感するのだった。

もしかしたら、一歩間違ってこの世界に生まれていたら、自分が彼の村を滅ぼした人間になっていたのかもしれないのだ。

申し訳ないと思いながら。
こんなことしたくないな、とでも思いながら。
でも主に従って。武器を振るう手は止めずに。


それはまた、バクラも同じなのだと思う。

彼は盗賊である事に誇りすら持っている。
生まれがそうなのだから、ある意味当然なのだろう。

だが彼は、己の見舞われた悲劇に怒る一方で、きっと名も無き者を――
彼の行く復讐の道に通りすがった者達を、躊躇いもなく殺すのだろう。

彼、盗賊王を称するバクラの目には、己の復讐しか見えていないのだから。

彼は、それを正義だと信じているのだから。


踏みにじられたことに怒り、だが踏みにじることに躊躇しない。
疑いすら持たない。あるいは、心に浮かんだ瞬間に黙殺する。

それどころか、とんでもない事をしでかそうとしているのに、あろうことか、相手の温もりに心踊らせているなんて。

我々二人は――人間は、なんて業の深い生き物なのだろう。

だが止められない。

そういう生き方しか知らないのだ。互いに。

そう考えて思考停止してしまうこと自体、甘えだとしても。

立ち止まる事は出来ないのだ。決して。

――英瑠はそんなことを考え、独り自嘲したのだった。




英瑠がざくざくと副葬品を袋に詰めていると、バクラが柩を暴いているのが見えた。

この世界で死んだ王侯貴族がどんな風に埋葬されるか。
英瑠はかつて異国を巡る商人から聞いたことがあった。
また、それと同じ事をバクラも話してくれた。

「ふふ」

図らずも、英瑠の口から笑みがこぼれた。

だがすぐに、ここにある遺体がバクラにとってはふざける余裕など無いほど重い意味を持ったものだったことを思い出し、彼女は反射的に口をつぐむ。

しかしそんな彼女の様子を、バクラは目敏く捉えたらしい。

「……何笑ってやがる」

「あ、いえ……」

「…………」

「……なんか、私もすっかり盗賊みたいだな、と思って。
ごめんなさい……不謹慎でしたよね。
『それ』はバクラにとって、すごく重要な――」

「オレ様に気を使うんじゃねえ。目障りだ」

「…………、」

英瑠の方を振り向いたバクラの声は、ひどく冷たかった。

やってしまった、と英瑠は思う。
自分はなんて無神経な人間なのだろう、と後悔を覚える。

いま彼の心はささくれ立ち、抑えきれない激情に身を焼かれているはずなのに。

「コイツが――アクナムカノンの野郎が、」

吐き捨てられた言葉に込められたものは、とてつもなく重かった。

英瑠はそんな彼の姿を見て、何も言うことが出来なかった。

バクラは無言でミイラと化したそれの首に縄を括りつけ、まるで動物の死体を引きずるように遺体を運び出す準備を整えていた。

彼が鼻で嗤う。

そして彼は辺りを見回すと、王の死に際して収められたであろう派手な上衣を引っ掴み、自らの腕を袖に通していた。

「ヒャハハ、どうよコイツは」

ばっ、と見せびらかすように英瑠の前へ立ちはだかるバクラ。

松明の灯りに照らされた高価そうな上衣は、激しい赤だった。

「カッコ良……、いえ似合ってます。と思います」

その唐突な行動と、やけに明るくなった彼に面食らった英瑠が、しどろもどろになって答えてみれば。

「素直にカッコイイって言っとけよ!
惚れた男の前で意地張ったって、良いコトねえぜ?」

バクラはそんな爆弾を投げてきて、彼女はまた胸を高鳴らせる羽目になったのだった。

「……、…………」

言葉を失った英瑠を嗤い、バクラはさらにふざけた調子でまくし立てる。

「……ほらよ、お前にもくれてやるよ!
多少調節すりゃあ着れんだろ。
盗賊らしく着こなせよ?」

彼が別の衣服を英瑠に投げて寄越し、ぼふ、とそれを受け取った彼女は、ありがとうございますなどと言うのが精一杯で。

「それ着たら行くぜ、ファラオをぶっ殺しによ」

やけに優しい口調で告げるバクラの声は、どこか無理をしているような、感情を押し殺しているような――

しかしそれを、彼女が口に出すことはない。

英瑠はバクラの眼をじっと見つめると、力強く頷いたのだった。




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