闇より誘い、そして1



「はぁ……」


大きなため息をひとつ。


頭の中がぐるぐるする。

不快なモヤが胸いっぱいに広がって、心臓をじわじわと鈍く締め上げていた。


肩には、目には見えない重いモノがのしかかり、鼻の奥は僅かにツンとして、喉は狭まり締め付けられて。

緩んだ涙腺からはほんの少しだけ水分が滲んで、視界を歪ませはじめていた――





無言で玄関のドアを開け、家に上がる私。


今日は出迎えに来ないマリクに安堵しつつ、のろのろと自分の部屋に向かい、鞄を床に放り出すとベッドに勢いよく突っ伏した。


しん、とした部屋に自分のため息だけが響き、改めていろんな事を思い返す――

瞬間、また心臓が鈍くモヤを吐き出して胸が痛んだ。


疲れたな……本当に、もう……


瞼を閉じると、あまり嬉しくない光景が浮かんできて、私は思わず奥歯を噛み締めて声を殺し、そっと泣いた――――



**********



――おかしい。


いつもなら、帰ってきた瑞香は真っ先にマリクに「ただいま」と声をかけるはずだった。

日によってはマリクが玄関まで出迎えることもあったが、そんな時でも瑞香は、笑顔だったり時には少し疲れた顔だったりで――

ともかく、ただいま、とは必ず言ってくれたのだった。


だが今日は――

帰って来るなり自室に直行した彼女は、リビングに居たマリクの元にも顔を出さずじまいだった。

鈍感なマリクでも、さすがに何かあったのだろうと察しないわけにはいかなかった。


彼は小さな舌打ちを零し、瑞香の部屋へ向かう――


「おい……、どうした……」


ベッドに突っ伏したまま動かない瑞香に声をかける。


「おい」

「なんでもない……」


伏せたままの瑞香から発せられた声は弱々しく、震えていた――



**********



「なんでもないっていう態度には見えねえけどな……」

「…………」

「アンタがそんなになるとはねぇ……珍しいじゃねえか」

「……ちょっと……、
ちょっとだけ嫌なことがあって、疲れちゃったんだ……」

「ほぅ……」


相槌を打つマリクの声はいつものように冷めていて、さほど興味を持っていないことが伺えた。

「……」


このマリクは――

いま私の心を静かに支配する、下らない愚痴や悩みを打ち明けても、特に興味も持たないかわりに、声を荒げて遮る事もなくただ聞いてくれるかもしれない。


でも。


結論の出ない悩み、話して少し気が晴れるだけの愚痴なんて、マリクに聞いてもらうのは悪い気がした。

それにもしかしてマリクは、そういう精神的な凹みを、私が弱いせいだとせせら笑うかもしれない。

マリクに笑われたところで別に打ちのめされるわけではないが、やっぱり甘えるのはやめようと思って、私はそのまま口をつぐんだのだった。

そして、言葉のかわりにまた、小さなため息を一つ零す。


「……まぁいい。
貴様がどんな態度を取ろうとも……、こいつを使えば何も問題はなくなるぜぇ……」


予想外の展開。


「……っ! や、めて……」

マリクの手には、腰から抜いた千年ロッドが握られていて――

底冷えするような闇を湛えた双眸と額のウジャト眼が輝くと、抵抗も虚しく、私の意識は闇に塗り潰されていったのだった――








……マリク……


マリ、ク――――



「ん……ぁ……」


身体が熱い。


意識は朦朧として、言葉はうまく発せそうになかった。


「……ク……、」

「瑞香……
何があったかと覗いてみりゃ……ククク……

下らねえ事で傷ついて……すれ違って……
その小さな胸を痛めてたってわけか……」

「……っ……!
や、だ……、見ない、で……!
私の、記憶……見ないで……っ」

「オレにはよくわからねえなぁ……
だが、貴様が弱っているってことだけはよくわかるぜぇ……」

「マリク、私の、記憶……覗かないで、ってば……!

ちょっと……、ちょっとだけ……、疲れちゃっただけなの……
本当に、下らないよ……!
くだらな、い、人間関係のトラブルだよ……
マリクには全く関係ないこと……、嫌なことがあった、だけ……」

「ククク……
貴様もいろいろ大変そうだねぇ……

何ならこいつら全員オレが消してやろうかぁ……?
そうすりゃ、下らねぇ悩みに翻弄されることもなくなるだろ……」

「や、めて……! 私の、問題だから……」

「ハハッ……
そんなにボロボロになっておきながら強がるねぇ……

瑞香……
もっと意識をオレに委ねなぁ……
イイ思いをさせてやるよ……!」

「っ、あ……」


マリクの千年ロッドが輝きを放ち、また意識が混濁していく。

闇の中でマリクの姿だけが浮かび上がる――

身体はふわふわとして、まるで自分の身体じゃないみたいだった。


「マ、リク……、
なに……、これ……、ロッドのチカラなの――」

「フ……」


スゥと眼を細めたマリクと視線が絡む。

恥ずかしさと怖さが入り交じり、私は思わず目を瞑ったのだった――



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