あの人が消えた時、
私が後を追ってしまわなかったのは、
きっと奇跡なのだろう。
「大丈夫? 楽しんでる?」
こちらを覗き込んだ友人が、私の表情を伺っている。
つぶらな瞳。真崎杏子。
水着をまとった彼女の身体はただ眩しく、溌剌としていて、まるで彼女の性格を表しているようだと思った。
大丈夫、楽しいよ、今日は海に誘ってくれてありがとう――自分の口から流れ出た言葉はきっと本心だ。
私は、杏子を心配させないように少し大袈裟に笑って見せた。
杏子がホッとしたような表情を浮かべる。
「おーい、飲み物買いに行くけど二人ともどうする〜?」
遠くから響いた男子の声。
声の主である城之内が手を上げながら近付いて来る。
その背後からは、共に見覚えのある顔ぶれが同じく私たちの反応を伺っていた。
遊戯君に本田君、そして獏良君――私達は全員水着姿で炎天下の中はしゃぎながら、この海で高校生活最後の夏休みを満喫していた。
8月も半ば。俗に言うお盆休みの最中だ。
私の心には、今でもぽっかり大きな穴が空いたままだった。
そして、その穴はもう永遠に埋まることはないのだと分かっていた。
結局、血肉を持たず、骨さえ残らなかった虚ろな存在――
何故なら彼は、己の肉体すら持たないただの
けれどもその単なる
彼が本当のところどんなつもりだったのか、今となっては知る由もない。
が……少なくとも、彼と違って血肉を持った現代の人間である私は、彼に『置いて行かれてしまった』のだろう。
感情を持ち、友人や家族を持っていた私には、彼を失った絶望だけで彼の後を追うことは出来なかった。
それは私の弱さで、愚かさで……いいや、生にしがみついたこと自体が強さなのだから誇っていいと、友人達は遠回しに言ってくれたりもした。
私は
彼に殉ずることが出来なかった私を、友人達はこれで良かったのだと全力で肯定してくれている。
それが私には嬉しいことで、けれど同時に
ざり、とビーチサンダルを踏み込めば、足が渚の砂に沈みこむ。
砂。
――彼も、この砂のように砕けて闇に消えてしまったのだろうか。
「はぁ〜、水が気持ちい〜!」
「おい本田、ちょっくら競争しようぜ!」
「よっしゃ、望むところだ!」
「待って城之内くん、あんまり遠くへ行ったら危ないよ」
「大丈夫だって、足がつくとこにしか行かねーからよ!」
真夏の海岸は海水浴客でそこそこ賑わっていた。
灼熱の日光で火照った肌に、海の水はとても気持ちがいい。
私は皆の姿を視界に捉えながら、浅瀬で波の感触を楽しむようにゆったりと四肢を泳がせていた。
「そういえば、お盆に海に入ると、死者に引っ張られるらしいよ〜
……大丈夫? 城之内くん……」
「は!? 何だそりゃ!?
……ちょっ、こえーこと言うなよ獏良!!」
「あっでも、私もそんな話聞いたことあるかも……
海で亡くなった人の霊が、生きた人を連れて行っちゃうって……」
「ギャーっ!! やめろ!!!!
…………オレもう泳ぐのやめたわ!
な、なんだか腹減っちまったしな!」
「あっボクもお腹空いたかも〜、何か買いに行こうよ〜」
不意に獏良君が口にした『死者に引っ張られる』という話に、顔面蒼白になった城之内がいそいそと浜辺に戻って行く。
その後を追う獏良君。
彼らの姿を笑いながら見ていた私達は、そういえばもうお昼時よね、と皆で海から上がる流れになった。
髪の毛先を水の中に揺らめかせた杏子が、背中を向けて泳ぎ去って行く。
私は、先程の獏良君の発言に何か引っかかるものを感じた気がしたが――けれどそれが何か分からずに、黙って皆の後を追った。
ぐい、と強く足を引っ張られる感触があった。
声を上げる前に顔が水で覆われる。
海中に引きずり込まれたのだと分かった。
恐怖より先に、戸惑いが胸を支配する。
ここはさほど深い場所ではない。
浮き輪を持たない私はそもそも、直立すれば足が海底につく程度の場所でしか泳いでいなかったのだ。
波も穏やかだったし、何か危険な生物が出たという話もない。
であれば、この引力は誰かのイタズラか、海藻か何かの障害物なのだろう。
海の中で四肢を動かし水を掻いた私は、自分を引っ張ったモノ――未だ足にまとわりつく妙な圧迫感の正体を確かめようと、苦しさを我慢して目を凝らした。
そこで見たモノは。
――黒い
思考が停止し、頭の中に警告音が鳴り響く。
さらに目を凝らす。
黒の中に、白い影があった。
私の足首をがっちりと掴んでいる五指――人の手のように見えた。
海の中で揺らめく闇と、その闇から伸びた白い人の手。
その手にはどこか見覚えがあるような気がした。
体を伸ばし、もう片方の足で海底を探ってみるも、いつまでたっても海底が見つからない。
気付けば辺りはとっくに足のつく浅瀬などではなくなっていた。
――暗い。
頭上にある水面を仰ぎ見たが、太陽の光がほとんど差し込んで来ていない。
まるで深い深い海の底のような、澱んで薄暗い水の中。
スッと足首から離れた手が、こちらを誘うように目の前に差し出された。
とっくに息が切れていてもおかしくない頃なのに、不思議と苦しさを感じなかった。
私は誘われるまま白い手を取り、強く握りしめた。
きっとそれは本能的なものだったのだろう。
再び目を凝らせば、そこには途方もない闇ばかりが広がっていた。
私の意識は、そこで途切れていた。
「……起きろ」
脳髄を揺さぶった一声に、瞬時に意識が覚醒する。
唇には、たった今まで何かが重なっていたような熱を感じた。
喉元から込み上げる感覚があって、顔を背けて吐き出してみる。
ケホッ、ケホッ。
私が咳き込むと同時に離れて行く影。
自分に覆いかぶさっていた人物の正体を目にした時、私はようやく戻った呼吸がもう一度止まってしまうのではないかと思った。
「……よォ。溺れてんじゃねえよ」
その名を呼ぶ前に、全身がカッと熱くなる。
心臓が強く胸を打ち、涙腺をぎゅう、と締め付けた。
「バ、クラ…………」
ようやく吐き出した自分の声は、当然のように震えていた。
白い髪、白い肌――胸元で輝く黄金の千年リング。
上半身裸に水着だけを穿いた彼は正真正銘バクラだった。
その鋭い眼光と、千年リングを中心に漏れ出す気配が、彼が彼であることを全力で示していた。
体を起こし――勢いよく抱きつく。
言葉にならない。
何事かを考える余裕もなかった。
バクラは私を黙って抱きとめてくれた。
背中に触れる熱。
水着姿である私の肌を掌でなぞる彼の、揺るがぬ体温。
私はただ、声をあげて再会の喜びに咽び泣いた。
慟哭。
それはまさに、私という魂そのものの爆発だった。
泣きじゃくる私とバクラは、共に砂浜に腰を下ろしていた。
あの時消えたはずのバクラは、どういうわけか――私が今日海で溺れたのを知って、再び獏良君の体を借り表に出てきて、溺れた私を助けて人工呼吸まで施してくれたのだろう。
そんな風に状況を想像しながら、流れ続ける涙を何度も拭う。
そうして、再会の喜びの後にやって来たのは罪悪感だった。
「ごめんね……、私だけ生き残っててごめんね……
っ、本当は、すぐあなたの後を追いたかったんだよ……
でも、みんなが励ましてくれたから、何となく、それに甘えちゃってて……、私……、ごめん、なさい……っ」
謝罪と言い訳を繰り返すばかりの私。
そんな私に、けれどバクラは別に意外でも憤慨でもないという声で、至極穏やかに言い放った。
「そんな事だろうと思ったぜ。
……だからオレ様が、オマエを
――――、
考えてみればおかしな話だった。
何故なら私は……遊戯君を始めとする私たちは、あの記憶世界を模した舞台での闘いが終わった後に、連れ立ってエジプトへ向かったのだから。
そこで私たちは、もう一人の遊戯君――アテムという名前を持つ彼を、冥界へと見送ったのだ。
その後7つの千年アイテムは神殿の崩壊と共に地中へ消え、それはあの千年リングとて例外ではなかった。
獏良了という少年は自らを支配していた邪悪な意思と決別し、彼の肉体が再びバクラという人格に乗っ取られるような事態は現世では二度と起こりようがない。
――つまり、今私の目の前にいる、バクラという人物の正体は。
この、見覚えのない砂浜と、人一人見当たらない、異国のような海と空は――
全てを察した時、バクラが静かに私の体を抱きしめた。
まるで永久に私の魂を捕らえるように。
ようやく手に入れた、と安堵するように。
「安心しな。もう二度と放してやらねえからよ」
彼の声は歓喜に浮かれているようだった。
そしてそれは、恐らく事実なのだろう。
何故なら彼は、私が目を覚ましてから、ずっと嬉しそうに微笑んでいたのだから。
私という生きた人間を死者の世界へ連れてくることが出来て、邪悪なバクラは浮かれているのだろうか。
可愛いな、と思う。
邪悪であるはずの彼の笑顔はまるで、屈託のない無邪気な少年のようだった。
いつのまにか涙は乾いていた。
私は深く息を吸うと、抱きついた姿勢のまま彼の首筋に唇を落とした。
懐かしい肌の感触が、幸福感となって私の胸に広がっていく。
ああ、好き、好き。好きだ……!
私はバクラが大好きだ!
「ありがとう……」
私を
彼を強く抱きしめれば、合わせた体の間で硬い千年リングがごりごりと存在を主張する。
全て終わったはずのバクラが未だ千年リングを持っているのは、私の
それとも、現世での事象はこの世界には影響を与えないということなのだろうか。
どちらでも良かった。
ようやく在るべき場所に辿り着いた私は、恍惚の中で、いつまでもバクラの傍にいることしか出来ないのだから――
「なんで私のことを呼んでくれたの……?」
「……さぁな。オマエを
「…………寂しかったの?」
「……ッ、」
「私もずっと寂しかったんだよ」
「……」
「あなたって可愛いね」
『――本日昼過ぎ、友人らと海に来ていた女子高校生が海に流されたとの通報があり
捜索の結果、女子高校生を発見
病院に運ばれましたが、死亡が確認されました――
女子高校生は童実野町在住、犬成桃香さん
犬成さんは友人らと浅瀬で海水浴を楽しんだ後、友人らと共に海から上がる際
友人らが目を離した隙に、単身流されてしまったと見られ
なかなか陸に上がって来ない犬成さんを不審に思った友人が――』
END