はじまりの日



青天の霹靂、というやつなのだろうか。

少なくとも、私の頭ではそれ以上の言葉で言い表すことができなかった。


あの日あの場所で、予期せずの悪行を目撃してしまったこと。

それに気付いた彼に、予想外の形で脅されたこと。

そしてあろうことかまさかのまさか、それらがきっかけというか決定的な駄目押しとなって、彼というに、物の見事に落ちて=惚れてしまい、骨の髄まで取り込まれてしまったこと。

トリプルミーニングにも程がある。
まさに衝撃、としか言いようがない。


彼の瞳を初めて間近で見つめた時。

「お友達には黙っててくれよ……?」

彼は薄く嗤いながら、そう口にした。
そして、私の足の間に膝を割り込ませ、まるで虫けらをつついて反応を伺うように、私自身・・・をぐりぐりと刺激し――!?

ぶわりと全身に広がる熱と、蘇る記憶。

そうして私は思い返すのだ。
彼――バクラという存在に、恋に落ちてしまったあの日のことを。

目を閉じて。
ゆっくりと。

激しくて、怖くて、そして――とても熱かった、あの瞬間を。




経緯を時系列順に並べてみる。

童実野高校に転校してきた、獏良了という男子。
その直後、杏子や遊戯君を含めた私たちは、獏良君が一人で暮らすというマンションへと向かうことになった。

だがそこで私たちは、獏良君と楽しくゲームをするはずが……なんと、獏良君とは違う邪悪な人格によって、無残にも人形にされてしまったのだ!

人の魂をモノに封じ込めてしまうなんていう、恐ろしくて摩訶不思議な能力。
千年リングが持つそんな能力によって人形にされた私達は、力を合わせて邪悪な人格と戦い、結果勝利した。

戦いの中で命を落としたかと思われた獏良君は無事復活を遂げ、闇は消えて、めでたしめでたし?
私達は再び平穏な日々を取り戻した。


しかし……そんな平穏も長くは続かなかった。

新たなる千年アイテム、千年眼。
その所持者であるペガサスという男が、遊戯君のおじいさんの魂をビデオに封じ込めたのだ……!

おじいさんを人質に取られた遊戯君は、ペガサスと決着をつけるため、決闘者の王国デュエリスト・キングダムと呼ばれる戦いの地に赴いた。

一緒に向かったいつものみんなの中には、獏良君の姿もあって……

獏良了くん。
彼は、同じ千年アイテムを所持するペガサスのことが気になったらしく、決闘者の王国に千年リングを持って来ていた。

かつて私達を翻弄した邪悪な千年リング……しかしそれも、身につけなければ問題ないと彼は言う。

けれども。
私は見てしまったのだ。

迷宮兄弟と呼ばれる決闘者ペアと対峙した時に――限られた時間の中で、先に進む扉を探している最中に――獏良君が、千年リングをそっと首にかけたのを。

(――え、)

たまたま横にいた私はそれに気付き、言葉を失ってしまった。
だってリングには、邪悪な意思が宿っているのだ。
あの時、私たちを人形にした邪悪な人格が……!!

驚く私に気付いたのだろう。
彼は、わずかに私を一瞥した。

――気付かれてはいけない。
そう咄嗟に感じた私は、反射的に視線を逸らした。

もしリングを身につけたところを見てしまったと彼自身に知られたら、何か恐ろしいことになると思ったから……。

結論から言うと、この時の私の行動は大して意味などなかった。

何故なら私は、この戦いの一番最後に、決して見てはいけないモノを、決して逃れようのない状況で見てしまい、彼と対峙する羽目になってしまうのだから。

さらに付け加えておくと、獏良君はこの時、千年リングに『千年リングオレサマを身につけないとお前達は永遠にここから出られない』と唆され、リングを身につけてしまったのだそうだ(バクラ談)。
つくづく、悪い魂だと思う。


全ての対戦が終わり、決闘者の王国デュエリスト・キングダムにて遊戯君が勝利を収めた後。

私たちは達成感と安堵を胸に、島を出て帰路につくはずだった。

……けれども。


「ば、獏良……くん?」
「貴様は……」

ただの偶然でしかなかった。

島を出る段になって、なかなか合流してこない獏良君を探しに行って――城の中で彼らしき後ろ姿を見つけ、まだこんな所にいたんだ、みんな待ってるよと言うつもりで声をかけてしまった事が、私の運命を決定づけたようなものだった。

振り返った獏良君は獏良了ではなかった。
いつぞやの、邪悪な眼をした彼だったのだ。

その手には、何か丸いモノが握られていた。
千年眼――ペガサスという男の眼に嵌っていた千年アイテムのひとつ。

本来金色に光っていたはずのいにしえの遺物は、彼の手とともに、何故か真っ赤に染まっていた。

「オレ様には千年眼こいつが必要なのさ……
昨晩の借りを返すと思って・・・・・・・・・・・・、今見たものは全て忘れて欲しいもんだな」

そう言って近付いてくる彼から、私は逃げなかった。

いや、逃げられなかったというのが正しいかもしれない。


バクラが言う『借り』とは、城に宿泊した晩に起こったトラブルのことだろう。

詳細は割愛するが、私と本田君はペガサスの手の者に捕らえられ、一時牢屋に閉じ込められた……なんていうことがあったのだ。

それを、獏良君――いいや、あれは千年リングの邪悪な意思であるバクラだったけども――どういうわけかそのバクラが手を貸してくれて、私たちを牢屋から出してくれたのだ。

もちろん驚いたが、その場では彼の思惑を推し量ることはできなかった。
……でもたしかにその時、なんとなく彼と少し目が合ったような気はしていたけども。

一体どうやって入手したのか、牢の鍵を手の中で弄びながら本田君と私の反応を伺っていたバクラ。

転校当初のTRPG事件を思えば恐怖を感じてもおかしくなかったはずなのに、不思議とその時のバクラを怖いと思わなかったのは、彼が思惑はどうあれ一応私たちを助けてくれたからなのだろうか?

――今から思うと、この時点で……ううん、本当はもっと前から……きっと、TRPGの際に出会った・・・・時から。

私はきっと、バクラという邪悪な存在にどこかうっすらと惹かれていたのかもしれなかった。たぶん無自覚に。

その蓄積がきっと、この後に起こる衝撃・・をきっかけにして爆発してしまったのだろう。


……ともあれ。

『借り』の話を彼の口から唐突に持ち出された私は、結果的に硬直することしか出来なかった。

何故なら。

彼の手も、彼の手の中にある千年眼モノも――何故か共に血まみれになっている理由と、『昨晩の借り』という概念が咄嗟に結びつかなかったから。

夕食のスープに入っていた作り物の千年眼ミレニアム・アイなんかじゃなく、生きた人間の眼窩に嵌っているそれを無理やり抜き出したとしたら……!?

いま私が見てしまったモノは彼にとっては見られてマズいモノで、だから私が何も見なかったフリをすることが、昨晩の借りを返すことになるわけで……!?

待って、じゃあ私は今どうすればいいの?
思考が追いつかない……!!

心臓が早鐘を打っている。
狼狽えて返答を迷っている私を嘲笑うように、ゆっくりと距離を詰めてくるバクラ。

お友達・・・には黙っててくれよ……?
いいな」

クククと笑みを浮かべるバクラの相貌は、どこまでも邪悪でしかなく。

恐怖かはたまたそれ以外か、ゾクリと本能的に粟立った背筋が四肢を痺れさせ、私は震えながら後ずさることしか出来なかった。


「ぁ……、っ!?」

口を開こうとして、硬い衝撃に背中を押し戻される。

壁だった。
おとぎ話に出てくるみたいな立派なペガサス城の、冷たい城壁。

はっとして、迫り来る彼の顔を再び見――近い!

無闇に後ずさった結果、壁際に追い詰められてしまったのだと今さら気付いた。

口角を釣り上げて不敵に嗤う表情とは裏腹に、彼の眼には殺気のような不穏な気配が宿っている。

(――――あ、)

鳥肌が立ち、心臓がキュッと悲鳴をあげて収縮した瞬間。

「聞こえなかったのか?」

低く、冷たく、しかしどこまでも強い声が発せられた。

友人である獏良了くんとは全く違う。

有無を言わさず力ずくで己の意志を押し通すような、何者にも逆らえない声だった。

心臓が潰れそうになって、苦しさから口を開けて息を吸う。

待って、どういうことなの――と、思わず喉元まで出かかった時。

影が揺らぎ、口元に衝撃を感じた。
ガチ、と歯が何か硬いものを捉え、けれど強引にそれを口内に押し込まれる。

「ッ!?!?!?」

直後に広がったのは鉄の味だった。

舌の上に滑り込み、全体的に丸い形と若干の凹凸を伝えてくる存在感。

血濡れの千年眼を口に押し込まれたのだと、遅れて気付いた。


「ッ……んぅ!! っ………………!?!?」

素早く手で口を覆われ、吐き出すことも出来ない。
さらに、
「騒ぐな」
ドン、と壁を伝う衝撃と同時に、内腿を何かが掠めた。
思わず目だけを下方へ遣ってみる。

「っ………………、ッッ!!!!」

さながら円を書くコンパスのように、やや脚を開いて立っていた私。

その隙間に、バクラの足が割り込んでいた。

「んっ、ッ………………!?」

体のどこかを直接踏まれているわけではない。
けれど、彼が威嚇のように足をぐりぐりと踏みにじる動作をするたび、石壁が擦られる摩擦音が耳をつく。

バクラは、私の開いた脚の間から覗いていた背後の壁めがけて、足を突き出したのだ。
そして蹴りつける勢いで大胆に壁を踏みつけ、私の両脚をその場に繋ぎ止めた・・・・・

スカートで隠れているとは言え、自分の股のすぐ下に彼の足が置かれた形になり、自然と羞恥心が湧き上がる。

異物感と鉄の味でいっぱいになった口内、それを吐き出させないために口元を丸ごと塞ぐ形で乗せられた彼の手。
掌から伝わってくる体温。

さらに、距離が縮まって、

「黙っててくれよ。…………いいな?」

至近距離で囁くように、念押し。

それはまさしく、脅迫であった。


同時に。

「んっ…………ッッ!!!!」

全身に電流が走る、とはこのことなのだろう。

息が吹きかかるほど近くで囁かれた直後、予期せぬ刺激によって私の頭は完全に真っ白になってしまった。

バクラの……私の股のすぐ下で、壁を蹴る形で置かれていたバクラの足が。

肉薄された拍子に、いつの間にか膝に置き換わっていた。

「聞いてんのか……?
頷くことくらいは出来るよなぁ?」

折り曲げられた彼の膝が、スカートの下に潜り込んで。

「んぅっッッ!?!?!?」

ぐりぐり、と。

彼はその膝で、あろうことか私の秘められた部分を刺激したのだ!!

きっと、彼にとってはほんの悪ふざけ、少し負のテンションが上がってしまっただけのタチの悪いイタズラだったのだろう。

私が彼にとっては一応異性で、脅そうと接近した拍子に異性の股ぐらがたまたまそこにあったから、何となくつついてやったという程度の。

その時のバクラからはそれ以上の性的な悪意や執着が感じられなかった。
だからこそ、余計に頭が混乱してしまうわけで。

そして彼も、私の動揺などお構いなしに、口封じのための脅迫という目的・・を果たそうとするわけで――


「…………おい」

「ッッ!!!! っ、!!!!!!
!!!!!!、!!!!!!」

痺れを切らしたらしい彼の声に、私はコクコクコクコクと首振り人形のように夢中で頷くしかなかった。

涙が滲み、視界が潤み始めるも、了解の意思を示すためにバクラの顔を必死に見つめ続ける。


視線が交わり――――幾ばくかの間。

やがて、その凶暴な双眼から、ほんの少しだけ殺意らしきものが薄くなった時。

口を塞いでいた手がゆっくりと離れ――ほっとしそうになる束の間。

でも、それで終わりではなく、

「……クク」

バクラに躊躇はなかった。

彼は、ごく自然にといった様子で、私の口に突然指を突っ込んできた。

そして、何てことはないと言うように、千年眼を引き抜いた・・・・・

「ァ…………、……………………ッッ」

それから、彼は、

「――――――――――――ッッッッ、」

私から千年眼を回収した・・・・彼は、あろうことかそれを。

ぺろり、とひと舐めして。

そして。


「分かればいい。……………………あばよ」

そう告げると、音もなく私から離れ、用は済んだとばかりに踵を返し去っていったのだった。



世界が切り取られ、まるで全ての時間が止まったように。

私は遠ざかって行くバクラの後ろ姿を、黙って見つめることしか出来なかった。

全身が電流に打たれたように痺れ、こわばり、でも何故かそれは不快ではなかった。

恐怖すら通り越し、いいや変質し捻じ曲がって、魂そのものが震えていた。

四肢から力が抜け、抗う術もなくその場にへたり込む。
心臓がバクバクと激しく胸を打ち、けれども、その鼓動が全く嫌ではなかった。

想像もしたくない誰かの血と、図らずも私の唾液で濡れた千年眼を。

バクラは最後に、わざわざ見せつけるように、舐め、――――

「ッッッッ」

遅れてやってきた羞恥心と顔が火照るような感覚で、自分が今もっとも強く感じているものの正体に、ようやく気付いてしまった。

恐怖も、疑問も、困惑も、怒りも、全て跡形もなく吹き飛ばしてしまう、強い強い感情。

命そのものを燃やしたような、目も眩むほどの高揚感と多幸感。

それは紛れもなく、恋と呼ばれるものだった。




**********



「……………………っていうことを思い出してたの…………
思い出すと、今でもドキドキしちゃうから……あはは……」

「……………………………………………………………………、」

「あれ以来、私、バクラのこと好きになっちゃって……でも、告白なんてできるわけないし…………けど、好きな気持ちだけがどんどん膨らんじゃって、もうどうしようもなくなって……!!

獏良君を通してバクラのことを見つめてたら、そしたらバクラが私に気付いてくれて……!!

バクラに片想いを言い当てられた時、すごくビックリしたけど……でも、私、とっても嬉しかったんだよ!!」


そうして。

いわゆる『恋に落ちた瞬間』と『その後の経緯』を長々と語った桃香は、彼の背中にくっついたまま、最後に「へへ……」という声を上げた。

彼女に後ろからしがみつかれたままの少年は舌打ちの後にため息をつきながら、

「どうりで…………やけに大人しいから妙だと思ったが、まさかそんなくだらねぇことを思い出してやがったとはな」

「うひ……」


デッキを弄るから黙ってろと言ったのはバクラだった。桃香はその言いつけを忠実に守っただけだった。

でも、『くっつくな』とは言われなかったから。

だから桃香は無言で彼の背中にくっつき、動きを阻害しないように彼のお腹に腕を回して、まるで木にしがみつくコアラのように静かにボーッと過去のことを思い返していたのだ。


それにしても。

「しっかし、やっぱてめえは頭がイカレた変態だぜ…………!!
今のくだりで目覚めちまう・・・・・・ってのは、どう考えても理解できねえよ」

と、背後を振り返らぬまま呆れたようにバクラが肩を竦めれば、

「や、あれは、あくまでも最後の駄目押しというか、あくまでもきっかけに過ぎなくて……!!
たぶん、本当は、出会った時から……ほら、TRPGの時!!
……たぶんあの時から、ちょっと気になってたんだと思う……無意識に……」

桃香は慌ててちょっとデリケートな部分の詳細を伝え、けれども、

「それこそ意味がわかんねえっつーんだよ……!!
TRPGでオレ様はお前らを人形にし、本気で抹殺するつもりだったんだぜ?
なのに惚れちまうとか、やっぱり筋金入りのイカレ女じゃねえか!!」

さらに言い返されて愕然となるコアラ少女桃香、壁に追い詰められて口に血濡れの千年眼を突っ込まれて股ドンされたことが『全て』ではないよ実は初めから気になってたからだよ……という文脈で語ろうとしたのは、結果的に逆効果というか墓穴を掘ったということか?
とようやく気付く。

しかも、

「お前の言う『初対面で惹かれた』が本当だったとして、それはつまり獏良了こいつの肉体に惹かれたってだけの話なんじゃねえのか?」

――――――、

逆効果どころかむしろマイナスだった。

だが、そうかもごめんなさいと素直に引き下がるはずなどない彼女――こんなところで想いが揺らぐくらいなら初めからこんなことにはなってない――は、

「でも、バクラだってあのペガサス城で私を脅した時、ちょっと……というか、けっこう興奮してなかった?
なんか血を見てテンション上がってたとかそういう感じで……」

「何だと?」

「やっ、だって……!!
ああいうちょっとエッち……と言うか、性的な? からかいって、邪悪なはずのバクラなのに、そういうの普段全然しないし……」

言い返す。

「チッ、だったら何だってんだよ……お前があんな顔で怯えてやがるから、」

――――――――、

「私が怯えてたから、その顔を見て、なんか変なスイッチ入っちゃったの……?」

「…………」

「かわいい……」

「黙れ」




そんなわけで。

「こんなモンで興奮しやがって…………。
……こうか? いや、足はこうか……こちとらお前みたくあの時・・・を詳細に覚えてるわけじゃないんでな……!!
こうやって壁に押し付けて、……千年眼は省略でいいな?

口を塞いでやって…………オラ、わざわざあの時・・・再現・・してやったぜ!!
どんな気分だよ!!」

「っっ………………」

恐らくこれは、彼にとっては単なる気まぐれで、ただの茶番なのだろう。


601号室の片隅で。
思い出に浸ったあげく勝手に恍惚していた少女を壁に追い詰め、股の間に足を置き、動きを封じることで、当時・・の状況を改めて突きつけてやるという再現劇・・・

桃香は心を弾ませながらそれを受け入れ、照れて微笑み、彼はそれに気を良くしたらしくさらに続き・・を再現した。


「おらおら」

「ぁんんん!!!! …………ぷはっ、待って、あの時そんなこと言わなかったよね……?」

「そうだったか? まぁいい…………つーか、別に深い意味なんざねえよ、こうやって膝でちょっとつついてやっただけで――――」

「あぁっ……!! ちょ、だめ、ちょうどお膝が、変なトコロに当たっ……ん、もがっ……んんんん」

壁ドンならぬ股ドン、からの膝でぐりぐりは、あの頃よりもだいぶイイ感じなのであった(?)――――

完全にふざけているらしいバクラは、桃香の口を塞いでお膝でぐりぐりを続行し、ヒャハハと愉しそうに笑っていた。

記憶を辿り、あの時のようにコクコクコクコクと彼女が頷く。

彼はその手をゆっくりと離し、それから…………あの時とは違い空っぽ・・・の口の中へ、平然と指を差し入れ――――刹那、視線が交錯し……!?

ずるずるずる、と。

腰の抜けた彼女が、黙って床にへたりこんでしまった。

「おい、腰を抜かすのはもっと先だろ――」

抗議めいた彼の声も、桃香にはもはや届かない。

何故ならば。

彼女の全身はすっかり茹で上がり、顔から火が出るように熱く、動悸が激しくなりすぎて正気を失いかけていたからだ。

わなわなと震える両手で、真っ赤になっているであろう顔を覆う。


「なんだよ、そりゃあ」

「だって……………………、
あの時より、ずっとずっとたくさん好きになっちゃってるから…………
ドキドキしすぎて、むり……………………」

「っ、…………………………………………………………、」


その時のバクラがどんな顔をしていたか。
あいにく、桃香は自ら視界を塞いでいたためついぞ分からずじまいだった。

けれども。

この後の彼の行動で、それはなんとなく推察できるのだろう。


桃香がようやく顔を上げた時。
そこにあったのは、彼女と同じく膝を折り、同じ目線になった彼の双眼で。

「バクラ…………」

紡ごうとした言葉は、そっと封じられる。

後に残るのは、きっと体温だけだった。


END


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