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「あはは……、あははは、なんか楽しい……!」

ケラケラと笑う私の頭から手を離し、クククと声を漏らしながら満足そうに嗤う盗賊王バクラ

その横では、獏良君を宿主とするバクラが、怒りと呆れを同居させたような眼で私を見つめていた。

「てめえ……」

彼の怒りの矛先は言うまでもなく私だろう。
変なテンションで、ヘラヘラニヤニヤと笑う私。

恐らくバクラたちから見たら、今の私は普段の挙動に輪をかけて馬鹿っぽく見えているに違いない。

――が、とっくに頭のおかしくなった私にとっては、そんなことはどうでもいいのだった!


「チッ、あの飲みかけのお茶か……!
まさかこんな低俗な手で来るとはな……っ、油断したぜ……!」

獏良了バクラの怒りのもう半分は、隣で薄く嗤う褐色肌の盗賊に向けられていた。

「そう怒んなよ……
酔わせて本音を聞きだすってのは、この世界でもよく使われる手法だろ……?
別にたいした量混ぜちゃいねえよ」

「そういう問題じゃねえ……!!
コイツが酔っ払ったらどうなるか知らないから、貴様はそんな事を――」

「ヒャハハ! てめえも同じ事やったことあんじゃねえか……!
人の事言えた立場かよ!」

「くっ……」

バクラたちは、ふわふわと生きる喜びを味わう私の前で、何事かを言い合っている。

「……オレ様はかつて、一応念を入れるために、『邪悪な意思バクラ』に入れ込んだ女の裏を探っただけだ……!
面白半分で人の玩具を弄ぶような、手癖の悪い盗賊には理解できねえだろうがな……!」

「っ、なんだと……?」

「やめて!! 私のために争わないで……!」

「…………、」

「なんてね……!
これ、一回言ってみたかったの……
人生できっと、一度も使わない言葉だから――」

私の理性は、とっくに何処かへ行ってしまっている。

「ってやッ! いたっ……、痛いっ!!
おでこ指で突いちゃやだっ、いたっ、爪が! 爪が痛いっ……!!
下手なデコピンより痛い、ごめ、ごめんなさい! わーっ、ごめんなさい……っ!!!」

腰を浮かせたバクラが、テーブル越しから白い指で私の額を遠慮なくぐりぐりと抉ってくる。

「ま……、コイツに裏がないってことは、これでハッキリしたからもういいぜ。
こんな底抜けに馬鹿な女、利用しようとしたところでたかが知れてるからな」

「馬鹿だから安心してちょっかい掛けてるくせに、よく言うぜ」

「それはてめえもだろ」

「はぁん……バクラが二人いる……しあわせ……
ふふ……最近ずっと二人だよね……
すごく嬉しい……、好き……好き……」

もはや何が何だかわからない。

私の世界はキラキラと輝きを放ち、どこまでも幸せに満ちている。

もしやこれは千年リングに宿るバクラが見せた残酷な幻なのでは? という疑問が浮かび、自分で頬をつねってみるも、痛みはちゃんと現実で。

何もかもがよく分からなくなって、隣に居た盗賊バクラに勢い任せに抱きつけば――

彼は、この状況を生み出してしまった責任感(?)からか多少は抱き返して構ってくれたものの、私がそれに甘えてぐずぐずとくっつき続けたものだから、いい加減うんざりしたらしく私の体を無言で白いバクラへと押し付けた。

「酔っ払った女も悪くねえが、コイツのイカレ具合は予想外だぜ。
鬱陶しいからてめえにやるよ」

……そんなことを言いながら。

酔った脳裏に浮かぶ既視感。
白いバクラはハァ、とため息をつき、まとわりついた私の腕を振り払うと、おもむろに立ち上がった。

「……オレは帰るぜ」

唐突な帰宅宣言。

いそいそと自身の黒いコートを着込む彼に、私は愚かにも素で「えー」という言葉を発し、褐色肌のバクラは「は? ふざけんな……! コイツをどうしろってんだよ」と食って掛かった。

「貴様はここに泊まっていけ。
自分のしたことの尻拭いをするんだな」

冷ややかに告げられた言葉に、まるでエサを取り上げられた犬のように信じられないという顔をする盗賊王。

「てめえ……、自分だけ逃げようと――」

「可愛いオレ様のしもべに慕われて、貴様だってまんざらでもないんだろ?
人間は人間同士乳繰り合ってな。あばよ」

バクラの皮肉めいた軽口が、呆然とする盗賊王と、未だワンテンポ理解が遅れて状況が飲み込めずにポカンとする私の上に降り注がれた。

そのまま、どちらの返答も待たずに部屋を出て行くバクラ。

「待てよ、おい……!
タダで泊まれるっつーのは有り難いが、今のコイツと一晩中一緒だと……!?」

うんざりした表情がこちらに向けられ、私は盗賊バクラが本気で私を嫌がってるのだと知って、反射的に「ごめんなさい……」とこぼしたのだった。

「……後悔なんてのはガラじゃねえが、普通にしくったぜ……クソ……」

そうこぼしながら、ガリガリと頭を掻く盗賊王。

「バクラ……二人のバクラ…………
帰宅バクラとお泊まりバクラ……?
寂しいと嬉しいが同時に襲ってきた…………」

「ハァ…………」

部屋に私と共に残された盗賊王は、大きなため息をつくと、ガサゴソと手荷物を探り、中から瓶を取り出した。

見慣れないデザインのそれは――恐らく何かの飲料なのだろうが、私には馴染みのないもので。

それをボーッと見つめていた私は、ふと部屋から去って行ったバクラのことが気にかかり、弾かれたように腰を上げた。

見送りくらいはしたい、そう思ったから。

私はコタツに張り付いたままの盗賊バクラに背を向け、急いで階段を降り玄関へと駆けて行った。



「バクラ……!」

玄関で立ったまま靴を履いている、バクラの黒い背中。

白銀の髪と黒いコートから生まれるコントラストが、訳もなく愛おしくなって。

反射的にだだだと駆け寄った私は、彼の背中目掛けて強めに抱きついた。

「――バ、」
「じゃれるな!! うざってえ!!」

振り返ると同時に振り払われた腕は、イラついたような罵声とセットだった。

「っ、ごめんなさい……!」

思わず謝罪する。

視線の先にあった二つの双眼には険が宿っていて、たちどころに戻ってくる理性が、それ以上の言葉を私から奪う。

「……ッ」

「……ケッ」

私を見下すような冷ややかな態度のバクラは、そのまま私に背を向け直すと、玄関ドアへと足を踏み出した。

――バクラが行ってしまう。

だが、それが彼の意思ならば、引き止めることなど私には出来ようもないのだ。

どれほど寂しくても、哀しくても。

『バクラがそうするのなら』、私はバクラを黙って見送らなくてはならない。

「…………ッ、」

けれど。

けれども、だ。


未だ体を支配するアルコールが、私の足を竦ませる楔を一瞬で溶かした。

「――バクラ、」

どん、という心地良い衝撃。

吐き出した言葉は、黒の温もりのごく間近で音になる。

――私は、去り行くバクラの背中に再び抱き着き、また振り払われる危険を承知の上で、その温もりを求めたのだ。

理性を凌駕する本能が、『バクラ』を欲す。

いつか、いつの日か。

バクラの孤独な背中は、必死に追いすがる私など振り切って、永劫に何処かへ行ってしまうような――

そんな感傷的な光景が頭に浮かんだから。


どこまでいっても俗物で無様な私。

「…………」

しかし私は、今度こそひどく怒られると予感しつつも、バクラの背中から離れなかった。

抱きついた後ろから腕を回し、彼の胸元で揺れる千年リングをそっと掴む。

ひんやりとした金属から伝わるほの暗い気配は、バクラがどこまでも『バクラ』である証だ。

思いのほかじっとされるがままになっているバクラをいいことに、私はそのまま指先でリングの輪郭をなぞってみる。

――今この腕の中にある温もりは、あくまでも借り物で。

身長の割には細い同級生の体が、今の『バクラ』にある全てなのだと思うと、言い知れぬ痛みが胸を刺した。


「……ったく」

小さくこぼしたバクラが、リングを背後から掴んだ私の手を、ゆっくりと引き剥がす。

「…………っ、」

それから彼はゆっくりと振り向き、体を離しかけた私を逆に捕らえるように、うなじに手を掛けてきた。

肌から伝わる直の体温。

その温もりに言葉を失えば、彼の口が開かれる。

「じゃあな」

諭すような、穏やかな声。

心臓がどくりと鳴った直後、私のうなじに触れていた手が、一度だけそっと頭を撫でてくれた。

「…………ッ」

絡み合う視線。

20年と生きていないその双眼の奥には、3000年分の闇と業が宿っている。

呼吸を失った私が、何事かを紡ぐ前に――

揺らいだ影が、私の唇に重なった。

「……っ、」

唇同士から伝わる熱。

その熱はいつだって、私から言葉を永久に奪う。

疑問も、反論も、駄々も、『これ以上』は許してくれない。

それが、バクラという存在だった。


「……宿主サマにも予定があんだよ」

最後にそう言い残し、ひらりと手を振ると、玄関のドアを開け今度こそバクラは去って行った。

少しだけ忍び込む外の冷気と、ガチャリと閉まる扉。

私はもはや、視界から消えた彼に向かって、無言で手を振ることしか出来なかった――




「……バクラってずるい…………
あんなの卑怯だし……」

未だ酩酊状態から脱せてない私は、そんなことを漏らしながらよたよたと階段を登った。

いつもは寒いだけだったはずの廊下の冷たさが、火照った体に心地良い。

自分でもわかるほど熱くなっている頬は、一体どれだけ赤くなっているのだろう?

「はぁ……」

寂寥感と、恍惚がない混ぜになったため息を吐き出しながら、自室のドアを開ける。

その先には、褐色肌を持つもう一人の『バクラ』が居て。

未だコタツに入ったままの彼は、こちらにチラリと目線を寄越すと、手にした謎の瓶を呷りごくりと喉を鳴らした。

それを見つめながら、先程と同じ席に戻りコタツに入る私。

盗賊王バクラは無言でテレビに目を遣り、その横顔に目を奪われた私は、遅れて気付く。

テーブルの上で、未だ彼が手にしている瓶――
大きくはない、片手に自然に収まるサイズの瓶の、その正体に――


「っもしかしてそれ、お酒……!?」

ギクリとした私が問いかければ、フッと不敵に嗤った盗賊バクラが、「文句あんのか?」と返してきた。
字面よりは険のない、ごく自然な声で。

「うーん……文句っていうか……
未成年が飲むと体に毒だよ……成長に悪影響だったり……?
バクラさん、普通に行けばもうちょっと身長伸びるかもしれないのに。
止まっちゃうかもよ……?」

未成年である彼が何処でどうやってアルコール飲料を手に入れてきたのかはこの際考えないことにし、率直な感想を述べれば、彼は鼻で嗤いテーブルに肘をついてこちらに身を乗り出してきた。

「ハッ……さっきまでのうざってえノリはどうした?
ヤツが帰って、随分としおらしくなっちまったじゃねえか。
寂しさで酔いもいっぺんに覚めたってか?」

茶化すような軽口は、あの『バクラ』と同じ声で。

「……オマエに黙って飲ませたことは一応謝ってやるよ。
二度とやらねえから安心しな」

続けてそう語る言葉には、酔っ払った私のテンションがうざいからだという理由が滲んでいた。

思わず笑いがこみあがってくる。

「……怖いもの無しのバクラさんが、酔った私を怖がってるみたいな感じ、ちょっと可愛い」

「ッ何だと……!?」

舌打ちが聞こえ、私はあははと口を開けて笑った。

やはり私の頭はまだ正常ではないようだ。
こんな、バクラをからかうようなこと――普段はしないし、出来ないのだから。

「てめえ……酔ってるのをいいことに、自覚してふざけたこと言ってんだろ」

「えへへ」

「ハァ…………」

大きなため息をついた盗賊王が、体をずらし、自分の横に何故かスペースを作った。

それから、ポンポンと自分の隣を叩き、「来な」と私に告げる。

「っ……!!」

その意味を理解し、跳ねる心臓。
私は言葉のかわりに、目で彼に疑問を問いかけた。

「……大人しくしてんなら責任は取ってやるよ。
嬉しそうな顔しながら泣きそうになられても、かえってうざってえからな」

え……
泣きそう? 私が……?

「理解出来ねえぜ……!
どっちの『バクラ』も好きとかほざきながら、片方が居なくなっただけでそんな顔しやがってよ! ケッ……」

――――ッ、

思考が停止する。

部屋に戻って来た途端、予想外のことばかり起こりすぎてついて行けない。

盗賊王バクラがお酒を飲んでいた。
彼は私に、隣に来いと手招きした。

そして彼は、私に変なことを言って――


体が無意識に動き、私は盗賊バクラの隣に潜り込んだ。

まるで待っていたとばかりに腰に回される手が、体温を一気に上昇させる。

自分の席にあったコップに手を伸ばし、残っていたお茶を喉に流しこめば、脳味噌がぐわんと揺れた。

「っ、そいつはもう飲むな……!
……おらよ、これでも飲んどけ」

お酒混じりのお茶が入ったコップを取り上げられ、かわりに混ぜもののない盗賊バクラが飲み残したコップを寄越される。

「…………っ」

ごくり、とそれを飲み下せば、少しだけクリアになった頭で、先程の彼の発言を咀嚼することが出来た。

ゆっくりと考えをまとめ、言語に変換する。


「……二分の一だから。『あの』バクラは。
残りの半分はバクラさん。
私の中にあるバクラ成分を、今は二人のバクラさんが半分こしてる。

……だから、どっちかが離れても寂しいし、両方とも居ると2倍嬉しい」

「ハッ、欲張りすぎなんだよオマエは。
……くだらねえ」

間髪入れず返って来た言葉はしかし、どこか満足そうだった。


「…………、」

腰に回された手。密着し、すぐ隣にある気配。

その圧倒的な存在感をあらためて自覚すれば、もはやお酒を飲むのはやめたのに、どんどん体温が上昇していく気がした。

こつん、と控えめに頭を預けてみれば、振り払われることもなく、盗賊王は私を受け入れてくれる。

「っ……、……」

アルコール分とは違う類の成分が、私をどこまでも酩酊させていく。
頭がぐるぐるして、何も考えられなくなって、でも嬉しくて、体中が熱くなって――

正常な思考を取り戻したいなら、いますぐこの温もりから離れるべきだ。
……わずかに残ったなけなしの理性が、そう叫ぶ。

だが今の私には、『これ』から離れるなどという選択肢は存在するはずもない。

「バクラさん……」

「よそよそしい呼び方してんじゃねえよ。
今オマエの前に居るのは、このオレ……バクラだけだ」

私にだけ聞こえればいいという音量で紡がれる、殺傷力の高い文句。

「バクラ、」とあらためて呼べば、腰に回されていた手がもぞりと動き、服の下から潜り込んで私のお腹あたりをじかに撫でた。

「ッ……!」

止まる呼吸。
胸を打った鼓動がやけに大きくて、その衝撃に私は身じろぎすることすら出来なかった。

互いにほとんど変わらない、人間同士の生きた体温というものは、どうしてこんなに吸引力があるのだろう。

好き勝手に己の意を通す彼の手が、すすすとお腹を這い登ってくる。
息を呑んでそれを受け入れれば、下着の上から胸をそっと掴まれた。

「っ、…………、」

けれど、それ以上きわどいことはせず、バクラの手は私の胸をゆるく撫でるだけで。

からかうような、ともすれば甘えるとも言える戯れに、私はどうしたらいいかわからず視線を辺りに彷徨わせた。

体に残ったアルコール成分とバクラからもたらされる刺激が、ない混ぜになって、どこまでも幸せな恍惚感へと化学変化を起こす。
まるで頭の上から大量のカスタードクリームをかけられたように、糖分に溺れ、窒息してしまうのだ。

そんな私に追い討ちをかけるように、耳元に寄せられる唇。
髪を払われゆるく耳朶を噛まれれば、ぞわりと心地よい電流が全身を走って、肺から息が漏れた。

けれども、やはり『それだけ』だ。

彼はそれ以上踏み込んでは来ずに、私をからかうように泳がせている。

耳朶から離れた唇が、次いで頬に寄せられたのが良い証拠だ。
バクラは、まるでしもべがあるじの手の甲に唇を落とすように、私の頬にそっと口付けたのだ。

「…………っ」

これではまるで逆ではないか……!
酔った頭でそんなことを考える。

だから、彼はつまり、私をあえてからかっているわけで……!!

彼の思惑はわからない。
このバクラに限って、多少お酒を呷った程度で私みたいに酔っ払うなど、ありはしないだろう。

けれども、盗賊バクラは普段情事になだれ込む時のような強引さを見せず、私をわざと甘やかすように構っている――

計らずも気付いてしまったその事実、その事実が、私をさらに高揚させた。
単なる欲情とは違う熱。そんな熱が、心に湧き上がって来る気がした。

それはまるで、大型の獣が、気分のいいときだけ、己よりずっと非力な人間にじゃれてくるような。

そんな、気まぐれで可愛らしい、戯れ――


こんなの反則だ。

強引に振り回されることには慣れていても、ただ甘やかされるなどという状況に慣れていない私には、心構えなど出来ていようはずも無い。

私の胸をゆるくまさぐり、からかうように耳朶や首筋に唇を寄せ、けれど決して逃げられないように――
いつの間にか伸ばされたもう一方の腕さえ、私の身体をしっかりと捕らえたままで。

「ぁ、は……」

無意識に口から漏れる、愉楽の喘ぎ。

私は調子に乗って、首筋にまとわりついた白銀の頭を抱えるように腕を回し、頭を撫でてあげた。
今だけは全てを許すと言った様子で、黙ってそれを受け入れる彼。

バクラ、と呼ぼうとして、もはや言葉すら邪魔だと思う。
だから私は、彼の白い髪を優しく掻き上げ、その額に口付けた。

これが盗賊王が言う『責任は取ってやる』の意味、ある種の執行猶予だというのなら――
限られたその時間を、めいいっぱい貪りたい。
そんな気持ちになったから。


「……そいつを寄越せよ」

不意に告げられる一言。

何事かと、顔を上げた彼の視線の先を目で追えば、鍋をするにあたりコタツの上から移動させたミカンの籠があった。

「ん……」

言われたとおりに手を伸ばし、ミカンを一つ掴む。
それを彼に手渡そうとして、未だ私にじゃれついたままの盗賊バクラを見て思い直し、私は無言でミカンの皮を剥き始めた。

もはや抱き枕かクッションのような格好で、私を後ろから抱きすくめているバクラ。
彼は相変わらず私の胸元をぬるくまさぐりつつ、背後からこちらの肩に顎を乗せてきた。

「……っ」

生きている人間の重み。

ぎゅう、と抱き締める腕に力を込められれば、服越しに背中に当たるゴリゴリとした感触。

首から掛けられた千年リング――この世に二つと存在するはずのないリングは、今この時代に二つ在る。


皮を剥き、筋をある程度取り除いてあげたミカン。
そっと一粒、肩越しから顔を覗かせる彼の口元へ差し出せば、バクラは無言でそれをぱくりと口にした。

「っ、……ッ」

……ねえ、本当に。なに、これ。

いつも私をよく回る頭と口で言いくるめ、従わせ、時には二人の『バクラ』で組んで私を追い詰めてくる邪悪なバクラは、今ここには居ない。

ここに居るのは、どういうわけか私をぐずぐずに甘やかし、大型犬がじゃれるような感じでまとわりつき、ともすればイチャイチャというような言葉で表現されるような行為を共有してくれる、盗賊王バクラという少年だけだ。

そして私は、それがたまらなく嬉しい。泣きそうになるくらい。

たとえ彼がどんなつもりであっても、こんな幸せとしか言いようがない愉悦の時間をくれたのだから。


「はぁ……もう好き……」

火照る頬が、耳が、体中が疼いている。
目を開けてられないほど辺りに満ちる甘い瘴気が、私の臓腑をぐちゃぐちゃに溶かす。

バクラの褐色の手が私からミカンをやんわりと奪い、果実の粒を一つつまみ上げた。
そして、今度は逆に私の唇にそれを押し付けてくる。

「んー……」

食べさせてもらったミカンを咀嚼しながら、これはもう彼はきっと私を精神的に殺しに来ているんだなと思った。

だって、こんなに一ミリの隙もない法悦。どうすればいいというんだ。

「もう死んでもいい……」

私の口から漏れた一言に、バクラは至近距離でクククと笑って、妙なことを言った。

「オレ様の腕の中でオマエが息絶えたと聞いたら、あの『バクラ』はどんな顔をすると思う……?
想像しただけで笑えるぜ」

などという、返答に困る台詞を。

それから、ふと思い出す。
古代に生きていたはずの盗賊王バクラが、初めてこの時代にやって来た時のことを。

『あの』バクラを出し抜くために、彼が私を懐柔しようとした時のことを――

彼はまた、何かを企んでいるのかもしれない。
でなければ、こんな私ばかり得をする天国、説明がつかない。

……けれども、それでも。

もはやそんな駆け引きはどうでもいい。
たとえ次の瞬間に、彼の刃に頚動脈を切り裂かれたって構わない。

それほどこの戯れは魅力的で、衝撃的だったから。

だから。

「殺したいなら殺してみる……? どうぞー……
とりあえずミカンもどうぞー……」

私の頭はどこまでも狂っている。

そして、そんな私にちょっかいをかけ、私の手から素直にミカンを食べる盗賊バクラも、この時ばかりはちょっとおかしくなっていたのかもしれない。

とりあえず私は、『好き』や『愛してる』にかわるこの言葉にならない激情を表す言葉を、回らない頭の中で探し続けたのだった――

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