屋上へ一歩踏み出すと風がふわりと吹いた。冬の弱い日ざしと冷たい空気が気持ちいい。
私はたまに、自分でも言い表せない何ともいえない気持ちになることがある。そんなときは授業には出ずにこの屋上で過ごすことにしていた。立ち入り禁止とされているここの扉の鍵が壊れていることは一部の限られた生徒しか知らないらしい。つまり、たまには授業に出ずにどこか素敵な場所で過ごしたいと思ってしまうような、やや夢見がちな生徒。
私は今年の春、どうしても一度屋上に入ってみたいという願望をおさえられなくなり、くねくねと色々な形に曲げてある針金数本をポケットにしのばせてここの扉の前に来た時にそのことを知った。一見すると壊れているようには見えない鍵に針金を差し込み四苦八苦していた私の後ろにいつの間にか鉢屋くんが立っていて、鍵が壊れていることを教えてくれたのだ。鍵は私たちよりひとつ上の学年の七松先輩という人が壊したらしい。俺がこれ言ったって内緒ね、ぼそりと言ってすたすたと屋上へ出て行った鉢屋くんの後ろ姿を思わず拝んだその日から、月に何度か私はここで過ごすようになった。
手すりによりかかって、町の向こうで光っている海を見る。もう少しでお昼になる、町がいちばん静かな時間だ。目を閉じればどどう、どどうと波の音まで聞こえるような気がする。しばらく目を閉じていると、後ろから近づいてきた足音が私の隣で止まった。ぱちりと目を開けると両手をポケットに突っ込んだ鉢屋くんが立っていた。
「鉢屋くん」
「名字さん、さっき木下サンが探してた」
「え、なんだろう、さぼってるのバレたかな」
「それなら俺も何か言われるだろ」
「たしかに」
いつも怒っているように見える顔をした担任のことを思い浮かべて、最近何かしでかしただろうかと考えを巡らせるが特に心当たりがない。こういうときがいちばん怖いんだよなあとひとりごとをいっていると、ポケットから煙草を出した鉢屋くんが風下へ移動した。こころもち丸めた背中を私へ向けて火をつけている。女の人がよく吸っている細い煙草をこれまた細長い指ではさんでいる。ふうっと吐き出した煙が風に飛ばされて私の前を通り過ぎていった。煙を目で追った先には大きな白い雲が浮かんでいる。まるで夢の中の鯨みたいだ。少しでも近くで見たくて手すりから身を乗りだすと鉢屋くんがぎょっとした顔で近づいてきて私のシャツの襟首をつかんだ。
「何してんだよ、危ないだろ」
「鉢屋くん、あの雲、鯨に見える」
「名字さんていつもそういうこと考えてんの?」
「いつもじゃないけどわりと」
「だから授業中よく外見てるのか」
「え、ってことは授業中の私のことよく見てるの?」
「見てない」
「見ててくれてるんだ!」
「見てないから」
とりあえず危ないから降りやがれと軽くひっぱられて思う。鉢屋くんは、優しい。
ふふふと笑って隣に座ると少しふてくされたみたいな顔をしている。その顔好きだなあと言ったら、鉢屋くんはそのあとチャイムが鳴るまで顔をこちらへ向けてくれなかった。
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