ジャカジャカとイヤホンから漏れる音がうるさい。可愛がっていたはずの猫に見向きもしない。そんな些細なやつあたりを撒き散らしている。今日の鉢屋は変だった。
今も、靴ひもがほどけているのに知らないふりして目の前を通り過ぎて行った。ハチと私でお弁当を食べているというのに、無視して行った。なんだあれ。
そうか鉢屋はコンタクトを忘れたのだ、と思い込もうとしたけれど、やっぱりそんなわけない。何故なら鉢屋三郎は視力がとても良い。五十メートル先の女の子がかわいいかそうでないかを見分けられる。私がすっぴんで学校にくればすぐ気付く。面倒な人だ。

おにぎりを一つ取り、頬張って考えた。具は何を入れたっけ。じゃなくて鉢屋があんなに落ち込むなんて何があったんだろう。

「鉢屋どうしたの」

弁当箱のお豆をチマチマ食べていたハチに聞いた。ハチは意外と箸をうまく使える。
顔をあげて私をちらりと見、また手元に視線を落とした。黒豆をつまんで口に運ぶ。

「振られたらしい」
「そう。イケメンは大変ね」
「そだな」
「私にしておけばいいのに」
「へ」
「え?」
「名前って三郎が好きだったの?」

なんて答えたらいいんだか、少し考えた。だって、まず嫌いではないのは確か。一緒に買い物をしたり食事に行ったりするのを楽しいと思える。でも愛してるかっていうと、愛せるほど鉢屋を知らないとも思う。知らない人を愛してるなんて、私は言えない。とすると、一歩手前だろうか。

「好きだわ」

数回緊張の瞬きをして考えたくせに、結局簡単な言葉を口にしてしまったのがおかしくて、口の端が上がった。変な顔してると思う。好きだと言うのには少し悲しい顔だった。失敗した。

「三郎に言ってやったらいいのに」
「言ったって聞く耳持ってないもの」
「そんなことないと思うけど」

ハチが言うのでそうかもしれない。だって私と違って男の子だから。鉢屋の気持ちを察し易かろう。私はどうあがいたってハチには敵わない。だって私は女の子だから。
そう思って私が「私にしておけばいいのに」と鉢屋に言うことをイメージしてみた。鉢屋は言う。「はあ?」。続いて「もっぺん言ってみ?」。そして私は嫌になって「いやよ」。げえ。
ハチはお弁当を食べ終わって、私に期待の視線を投げていた。本当に、そんなことないと思っている。すごい人。

「私とまともに会話してくれるのはハチだけよ」
「まじで」
「私、ハチと居るのが一番好き」
「ありがと」

ハチは私の言葉をかわすことも無いし、私を傷付けもしない。お弁当作りたいって言った私のわがままもしっかり受け止めてくれたので現在に至る。
ハチは優しくて面倒見がいい。たくさんのモノゴトを包みこめる。だって手の平が大きい。



翌日、鉢屋はやつあたりを止めていた。猫を無視しないし、イヤホンもうるさくない。つまり学校に来なかった。
どうしたんだろう。お腹壊したのかもしれない。鉢屋は牛乳でお腹を痛めてしまうくらい貧弱だったりする。
一応と思い、学校が終わってからドラッグストアに正露丸を買いに行った。私は正露丸ってあまり効かないのだけど、鉢屋はプラシーボ効果を期待しているのかお腹が痛かったらとにかく正露丸を飲む。普段から整腸剤を飲んでいるくらいだから、緊張しいなのかもしれない。本当のところはよくわからない。

ドラッグストアでは鉢屋が酔い止めの薬を探していたので私がよく使うメーカーのを教えてあげた。薬剤師のおじさんが教えてくれたものだからきっといいものなんだと思う。鉢屋は釈然としない様子だったけれど甘んじてそれを買っていた。私は正露丸を買わずにハーベストを買った。

「どこかへ行くの」
「ちょっと傷心旅行に」
「そう。今静岡美術館でやってる展示が面白そうだったわ」
「市の方?それとも県立?」
「どっちだったかな。忘れた」

私は写実的な絵画や日本の工芸を見る方が好きなのだけど、鉢屋は現代アートやグラフィックを好む。二人で共通して見に行くのはテキスタイルや彫刻なんかの立体だった。お互い感想なんか言わないのだけど、面白かったら一緒に夕飯を食べる。つまらなかったら現地解散。

鉢屋が行こうとしている旅が、美術館が目的じゃないにしても、今度からは彼の感想を聞くようにしてみよう。人に対して利己的で淡白な私がそう思うほどには鉢屋は疲れているように見えた。
さっき、しゃがみながら薬を探す鉢屋に私が声を掛けたとき。彼は眼を見開いてひどく動揺して、停止した。きっとあのとき、彼の頭の中ではいろいろなことが駆け巡っていたのだろう。今何時だっけ、名前だ、俺変な格好してないよな、こいつ俺がふられたこと知ってんのかな、などなど。脳内鉢屋サミットは開会と閉会を瞬く間に済ませ、結果鉢屋自身が発した言葉は「名前」の一言だった。だから私も「名前です」と答えた。


あれから私たちの視線はぶつからない。私は必死になって、鉢屋の顔を食い入るように見つめているのに、鉢屋は前ばかり見ている。

「ハチと付き合い始めたのか」

鉢屋は振り向きもしない。私は鉢屋の斜め後ろから彼の表情を読み取るしかない。でもあんまり見えないから意味が無い。明るい感情ではないのは確かだ。

「なんで」
「そんな風に見えた」
「いつ」
「昨日」
「二人でお弁当を食べていたから?」
「……」
「付き合ってないわ。ハチにはもっと可憐な子が似合うのよ」
「お前だって充分可憐だろ」
「家に帰ったら辞書で可憐って調べるといいわ」
「かわいらしく守りたくなるさま、またその様子」
「さあ。うちは旺文社だから」
「あっそ」

鉢屋が立ち止まるのでならって止まった。
見上げれば鉢屋は私を見ているようで見ていなかった。その向こう側を見ているのかと思って振り向いてみたけれど、何もない。つまり鉢屋はなにも見ていなかった。私が見返しても見えてないみたいだ。
困りはしない。だってもう、私は辛抱強く待つことを決めていた。鉢屋は子どもだもの。


「好き」

言って、我に帰ったのか、ようやっと目が合った。驚いている。それに、照れてる。口を引き結んで悔しがっている。変な人だ。

「俺と付き合って」

鉢屋の目尻が赤い。泣き出しそうだ。彼は涙の時を雨みたいな予兆で教えてくれる。
私がなんて言うと思っているんだろう。ダメって言うとでも思っているんだろうか。そんな馬鹿な。

「いいよ」

ゆっくり、頬が勝手に緩んでいくのを感じながら言い放った。だっておかしいの。鉢屋は私が好きなんだって。




110914