どこまでも眠気を誘うやわらかい日ざしの中、私と三郎は特に会話をするでもなく、ただ肩を並べて歩いていた。雪解けの水が勢いよく流れる川沿い、遠くからかすかにただよってくる花の匂い。子供らが楽しそうにはしゃぎながら私たちの横を走っていく。
「…実にのどかだな」
「実にね」
「気が抜けてしまう」
「いつも気が抜けたような顔してるでしょ」
「…ナマエ、今の言葉は雷蔵に謝るべきだと思うぞ」
「もし雷蔵に会う事があったら一番に謝る」
「だな」
そこまで話すと、私たちはまた黙って歩みを進めた。強い風が吹いて、空の高いところで鳥が舞っていた。それを目を細めて見上げ、ゆっくりと視線を前へ戻すといつの間にか分かれ道のところまで来てしまっていた。三郎は右へ、私は左へ。少し離れた場所に立ち、私たちは見つめ合った。
「ここでナマエともお別れだな」
「そうだね」
「…まだ学園に入ったばかりの頃、私の変装に一番驚いたのはナマエだったな」
「私の罠に一番ひっかかったのは三郎だったね」
「最初のうちだけな」
「私だって驚いたのは最初のうちだけだったもん」
「いや、結構長い間驚いていたじゃないか」
「そうだったっけ?」
「そうだった」
ふっと目をすがめて笑う三郎は、初めて会った時よりもずっと背が伸びて、肩幅が広くなって、声が低くなって、優しくなって。しなやかな動物みたいな、立派な男の人になった。私も同じように成長できているだろうか。
「………お別れだね、三郎」
「そうだな、ナマエ」
「また会える?」
「会えるさ」
「とうとう三郎の本当の顔は見られずじまいかぁ」
「悪いな」
「それだけが唯一の心残りといえば心残りかな。…じゃあ、またね」
「ああ、また」
小さく手を振り、私たちは別々の道を歩き始める。今朝学園を出てから、分かれ道がくるたびに一人、また一人と友人達と別れて、最後に残ったのは私たち二人だった。二人になったらもっと話したいことは沢山あったはずなのに、いざその時がきたら言葉は喉につかえてちっとも出てきてくれなかった。自分の口下手さにうんざりしつつ歩いていくと、道ばたに見覚えのある花が咲いていた。どうしよう。行くべきじゃないのはわかる。でも、だけど。
私はその花を一輪摘み取ると、元来た道を走り抜け、三郎が行った方へと急いだ。もうずいぶん遠くに見える背中に必死で呼びかけると、驚いた顔をして三郎は戻ってきてくれた。
「ナマエ、どうした?忘れ物か?」
「うん、まぁ…」
「この間の団子代の事なら別にいいぞ?私のおごりで」
「忘れてなかったか…ちがう、これあげる」
ぐっと背伸びをして三郎の髪に摘んできた花をさすと、三郎は目を丸くして私を見た。
「これ」
「前に、ケンカした時にね、ごめんって言ってこの花くれたでしょ。本当はお互い様だったのに私は最後まで謝れなかったから、今謝る。あの時はごめん」
「…その為にわざわざ戻ってきたのか?」
「うん。ごめん、引き止めちゃって」
「変な所で律儀だなあ、ナマエは」
「旅立ちの日に悔いは残したくなかった」
「悔いねぇ…」
「あ!そういえば昔竹谷がさ、女装の授業で頭に花つけて先生に怒られてたよね。わざとらしいって。あれは面白かったね」
慣れないことをした気恥ずかしさをごまかしたくて、自分でも何を話しているかわからないまま言葉を並べた。本当に言いたいことは言えないのに、何してるんだろう。私が話すのを黙って聞いていた三郎は何でか一瞬泣きそうな顔をして、私の顔を両手でつつんでごちん、と頭突きをしてきた。痛みに目を白黒させていると、三郎は私の手をぎゅうと握りしめて、耳元に口を寄せてきた。
「…ばか」
「否定できない」
「本当にばかだ」
「ひどくない?」
「また、会おう。絶対に。ナマエ」
「うん。絶対会おうね、三郎」
こんなに三郎が近くにいるのは初めてで、そしてきっと最後だと思ったら、目の前の三郎の顔がだんだんぼやけてきた。何度まばたきをしてもすぐに視界が滲んでしまって、目が熱くて、よく見えなかったけれどそれは多分三郎も同じだった。学園に入ったばかりのころ、よくケンカしてふたりで泣いていた。でももうそれは、だめなんだよね。いつも慰めてくれた仲間も今はもう、それぞれの道へ行った。手を強く繋いだまま私たちはそろそろとからだを離し、本当にゆっくり一本ずつ指をほどいて、お互いの名前を一回だけ呼んで、本当のさよならをした。
三郎。学園で過ごした間、皆で一緒に笑ったり驚いたり泣いたり怒ったり、本当に忙しくて楽しかったね。卒業するまでに好きな人やものは山ほどできたけど、中でもとりわけ好きだったのは三郎だよ。これだけは最後まで言えなかったけどさ。
ざあっと吹いた風につられるようにして後ろを見ると、降り止まぬ花の雨の中、三郎の姿はもうどこにもなかった。
さようなら。またね。