電車を降りてからどうやって帰ったか覚えていない。一度転んだ気もするけれどどうでもいい、ふにゃふにゃと緩む口を手の甲でおさえて、にじむ涙で目の端がひりつくのもかまわずにとにかく歩いていた気がする。かばんを床に落とすように置いてベッドに倒れ込む。シーツに顔をおしつけたまま、ふふふふと不気味にくぐもった笑い声をたてた。どうしよう。困ったことになった。これは本当に困った。子供みたいに足をじたばたさせてからおもむろに立ち上がった。何かしていないと落ち着いていられない。洗濯したまま床に放ってあった服をひとつずつ拾ってクローゼットにしまっていく。ああ、なんだか気持ちがせわしない。部屋の中を意味もなくうろついていると壁にかけてある鏡が目に留まった。にやけた顔。でも眉毛が下がっていて変な顔。困ったなあ。ぜんぜんこんなつもりじゃなかった。ただの興味本位だったのに。
少しでもじっとするとすぐに思い出してしまう。あの笑い顔、声、目。言葉。車内に足を一歩踏み入れてあの笑顔をみた瞬間、心臓がぎゅっとつかまれたように苦しくなった。それから一歩、また一歩とあの人がこちらへ近づいてくるにつれ予感は確信にかわって、わたしの世界は一変した。霧が晴れたみたいに周囲が鮮やかに見える。ああ、どうしよう。もう一度ベッドに倒れ込んで天井を見る。少し冷静にならなくちゃ。落ち着こう。なんていうかこう、ちょっと不気味な笑顔じゃなかった?口が裂けそうだったよ。ホームで立ち話した人もこわかったって言ってたし。なんか片言しゃべりだったし。ないない。それにあの目。ギラギラしててちょっとつり気味で、まばたきもほとんどしてなかった気がする。一人くらい闇に葬ってるって言われたら信じちゃう。そんな目だったよ……あんな人初めて会った。あんな目、初めて見た。…気を抜くと今日の一部始終を頭の中で再生し始めてしまう。何度も巻き戻して再生して、だんだん本当にあったことなのかわからなくなってしまいそう。でも本当にあったことなのだ。だってこんなにも違う。今朝起きたときと今このときではこんなにも世界の色が違う。彼に会う前のわたしと会った後のわたしではまるで別人だ。胸が苦しいのにどうしてこんなに幸せな気持ちなのか。こんなに幸せな気持ちなのにどうして涙がにじむのか。わたしを取り巻くものがどんどん速度を上げて変化していく。あの顔。あの声。あの目。あのバトル。ポケモンを通してわたしが直接攻撃されたように感じた。ばかみたいに強かった。勝てなかった。バトルに負けたのは久しぶりで、心身ともにぼろぼろだ。でも満たされている。このうえなく。わたしはどんな風にあの人の目にうつっていたんだろう。がばっと立ち上がって鏡の前へ走っていく。うわ、化粧。ちょっと崩れてる。バトルで?それとも帰ってきてからばたばたしてたから?ああ、名前も言い忘れた。次会ったらまず名前言わなくちゃ。でも次って言っても、次はいつ行こう。明日はだめだ、また戦略練り直して…でももう会いたい。すぐに。鏡の中の自分と手のひらを合わせて、電車を降りる間際に握手したことを急に思い出してまた頭の中がぐるぐるし始める。すっごく楽しかったって、絶対また来てって、ぼくのいるダブルトレインにしか乗らないでって、今日言われたことが一気に実感をともなって心に届く。小さく叫んで地団駄を踏む。わたしだって一応大人だ、わかってる。誰にでも言ってる、社交辞令だ。でもだからそれがどうした。きっかけとしては十分すぎる。好きにならない理由を考え始めたらもう手遅れ、わたしは今日恋をしてしまった。