ざくざくと音を立ててにらの束を切っているとき、唐突に限界がきた。
うっと一言呻いたあとはもう言葉にならない、涙がぼたぼたぼたぼたアホみたいに落ちて手とにらと包丁を濡らした。目をぎゅっとつぶって歯を食いしばって、うううううと獣のうなり声みたいな音を出してまな板に包丁を突き立て、その場にしゃがみこむとこたつでのんびりお酒を飲んでいた勘右衛門が好奇心いっぱいって顔で寄って来た。むせび泣く私とまな板に刺さったまんまの包丁を交互に見て首を傾げている。

「ナマエ、どうしたの?」
「もうやだああ」
「なにがやなの?」
「無理いいい」
「何が無理なのか教えてよー」

勘右衛門は私の腕をひっぱって立たせようとしたのでその手を振り払って台所にあおむけになり、両手両足をばたつかせて暴れた。もうむりやだやだやだと今どき幼稚園児でもやらないようなやり方で駄々をこねている私を楽しそうに見下ろしている勘右衛門の後ろから鉢屋が顔を出して、何か異次元の生物を見るような目を向けてくる。何急にマジ泣きしてんだよ引くわーとか言っている。うるせえ鉢屋刺し殺すぞ。ゆっくり立ち上がって包丁に手を伸ばすと鉢屋は飛ぶようにこたつへ逃げていった。こたつでは雷蔵がうとうとしていて、竹谷と兵助は二人でババ抜きをしている。実に平和な光景。でもここにはアレがない。今私がいちばん必要としているアレが。マジで意味わかんない。勘右衛門は地団駄を踏みながら私のガチ泣きの理由を知りたがっている。

「ねえねえねえナマエー、何で泣いてんの?」
「………」
「教えてくんないならせめてラーメンつくってー俺おなかすいたー」
「………………」

そう、私は今ジャンケンで負けた罰として勘右衛門と私、二人分のラーメンをつくっていたところだった。雷蔵は寝てるし竹谷と兵助はお互いにババをひきあう永遠に終わらないババ抜きに興じているし鉢屋は太るから夜中には炭水化物を摂取しないとかいう気持ち悪いポリシーを持っているので、二人分。勘右衛門はねーいいでしょ早くーとか言いながら号泣している私をまな板へ向き直らせた。鬼か。無理ですから。もうラーメンなんて死んでもつくりたくないような気分ですから。いくら何でもさすがにちょっとこれはないと思います。この軽んじられ方。それもこれもどいつもこいつも私がアレを持ってないからなんだきっとそうだそうなんだ。皆どういう方法でかはわからないけれどとにかく何らかの方法でもって私がアレを持っていないということを見抜いてその上でこういう人をなめくさった態度をとってくるんだ。ちくしょう。もう絶対許せない許さない。どいつもこいつも死にさらせ。
頭の後ろの方でぷつんと音がして私は包丁をつかみ振り上げ、近所中から苦情がきそうな奇声を発しながら何度も何度もまな板にたたきつけた。つぶされたにらが独特の匂いを出しながら空中を舞う。蛍光灯の光に照らされてまな板から飛んでいくにらはきれいだった。
全部のにらが飛び散ったところで再び包丁をまな板に突き立て、私はわっと泣き崩れた。憎い。世界中の人間が憎いといっても過言ではないくらいのこの体中に満ちている憎悪。私がこんな風になったきっかけはよくわからない。コンビニのレジで妖怪のような顔をした素早い動きの婆に割り込まれたことか、疲れ果てて乗っていた終電でやっとあいた席に座ろうとしたら何かけっこう可愛い系の女に突き飛ばされて席を奪われたことか、あまつさえその女には彼氏がいて床にしりもちをついて呆然としている私を二人して指差して笑ってきたことか、おつりが足りなかったことを告げにいったら思いっきり舌打ちをしてきたスーパーの店員のことか、新人のミスが何故か全部私の責任ということになりバイト先の店長から十五分にわたり罵倒されたことか、子供の頃からどうにも折り合いが悪い実の母が私のいない所であんな子生まなきゃよかったと言っていたのを聞いてしまったことか、もう今となってはよくわからない。全部か。全部なのか。なにもかもむかつくんじゃぼけえええと絶叫してからおうおうとオットセイのように泣く私のことをじーっと見ていた勘右衛門はさっとしゃがみこむと素早い動きで私に近づいた。間をおかず響くちゅっという間抜けな音。

「なん、に、すん、の」
「ちゅーだよ」

私が一言喋る間にも勘右衛門は絶え間なくキスをしてくるので驚いて涙が引っこんだ。距離をとろうとして肩を押しても顔に手をやってもちゅっちゅちゅっちゅとせわしない。何してんのと聞いても驚きの能天気顔でにっこにこ笑いながらちゅー!と返ってくるのでまともな会話が成り立たない。なんだか色々どうでもよくなってくる。どうして私はあんなに泣いてたんだっけ。勘右衛門は髪とか鼻の頭ににらをくっつけながら楽しそうにしている。こわばっていた肩の力が抜けてへたりこんだ私のことを勘右衛門はぎゅううと抱きしめた。苦しい。酒くさい煙草くさいにらくさい。あと何ていうの、人のにおいがする。安心するようなにおい。切れかかった蛍光灯がちかちか点滅している。抱きしめられてあったかい。抱きしめかえしてあんた体温高いのねとつぶやくと勘右衛門は力をゆるめないままでねえナマエなんで泣いてたのと聞いてきた。しつこい。酔っているときの勘右衛門はしつこい。今となっては私にだって説明できやしないのに。ただ何だか、私はありとあらゆる世界からのつまはじきものみたいな気持ちになっただけなのだ。私を除いた世界にはアレが溢れているように見えただけ。それがたとえ他人を突き飛ばして電車の席を奪取することだけが生き甲斐なんですうみたいな糞カップルだとしても、少なくとも私よりはアレを持っているように見えただけ。つまらないことだ。

「…ねえ勘右衛門」
「んー?」
「愛ってなに」

頭がキリキリするくらい考えたけど私にはわからないんですよ。持ってた事ないから。
泣き過ぎてだんだん熱を持ってきたまぶたを持て余しながら聞いてみたら勘右衛門はすっと立ち上がって冷蔵庫からねぎと卵を出した。曰く。俺はこれからナマエのために勘右衛門スペシャルラーメンをつくろうと思います。これが愛です。そういうものなのかとぼんやりしているといつの間にかこちらに来ていた鉢屋が私を見てにやっと笑った。曰く。俺は今まで二十数年破ったことのなかった鉄の掟を破ってナマエと勘右衛門と一緒に夜中のラーメンを食おうと思います。これが愛です。なるほど。少しわかってきた気がする。じゃああっちのこたつで竹谷と兵助と雷蔵、三人子犬のように折り重なって眠っているのを見てかわいいと思う私のこの気持ちも愛ですか。聞いてみると五人はそろって大きくうなずいた。あっちの三人寝たふりだったのかよ。竹谷に兵助、雷蔵はものすごく可愛い、優しい笑顔を浮かべて私を見ていた。でもそうか。これが愛というものなのか。なんだ、私も愛を持っていたんだ。知らなかった。勘右衛門と鉢屋に腕を引かれて立ち上がる時に目尻に溜まっていた涙が一粒だけこぼれた。