これとうっすら繋がっているようなお話


霧雨に降りこめられて島全体が金魚鉢の中に沈んでいるみたいだ。口を開ければ泡がぽこぽこと音を立てて空にのぼっていきそうな気がする。ひやりとした布団にうつぶせていた体を起こすとさらりと薄掛けが落ちた。寒いな寒いな。口に出して言ってみると余計に寒くなるようで、冷えた腕を手でこするけれどちっとも温かくならない。今日は寒くて、静か。
サンダルをつっかけて家の前の道に出ても、ひとっこ一人いやしない。あまりに静かなものだから波の音が聞こえる。ざざあ、ざざあ。なんだかつまんないなあ。海もきれいじゃない。耳に綿が詰まっているような感じがして、まぶたが重たい。からんころんとサンダルの立てる音がどこまでも転がっていくのを聞くとなぜか少し不安になる。どうして今日に限って雨が降っているんだろう。昨日の天気予報では晴れって言ってたのに。つまらないつまらない。寒い。眠たい。さみしい。どうせ今日はお休みなのだから、また眠ってしまおう。
家にとって返してもう一度布団の中にもぐり込み、冷えたからだを温めることに集中していると、あっというまに意識がまぶたの裏の黒に溶けた。ああ、そういえば、今はまだ朝の五時なんだった。ばかみたい。私って何だかいつもばかみたい。


ぱち、と目を開けてみて血の気が引いた。いつの間にか外が暗い。夕方?夜?信じられない。われながら感心してしまうくらいの速さで身支度をして外へ飛び出した。雨はとっくにやんでいて、紺色に染まりかけている空では星がちかちか光っている。眠り過ぎた頭はいつもの三割増しくらいにふくらんでいる気がして足下がぐらぐらおぼつかない。何だか星が落ちてきそう。いつもこんなにたくさん見えてたっけ。岩屋に続く階段まで行くと視界が開けて、昇りかけの大きな月が海の上にとろんとした光を垂らしているのが見える。晒している肌に月の光がふれて、初めて月が暖かいと知った。別に約束をしているわけじゃないけれど。それでも何故かここへ来なきゃいけないような気がしたのだ。一段一段、階段をおりる。海の向こうから吹いてくる風と、島に咲いている秋の花のにおいが混じって変に空気が甘い。じゃりじゃりと音を立てて歩いていくと、こちらへ伸びるすらっとした長い影が見えて、顔を上げた。

「遅かったな」
「…うん」

咳払いをしてから、別に待ってたわけじゃないけどな、とそっぽを向く山田がおかしかった。久しぶりに会ったのに、全然久しぶりじゃないみたいだ。隣まで歩いていって柵に寄りかかり、じっと顔を見る。うん、変わってない。元気そう。よかった。私の視線を無言の圧力と受け取ったらしい山田はひとりであわあわと百面相をしている。いやまあ、少しは待ってたんだけどな。とか、待ってたよ悪いか!なんて、ひとりで勝手にボロを出している。にやつく私の顔を見てからかわれているのに気付いた山田は憮然とした面持ちになって口をつぐんだ。

「ユキくん達には?」
「…こっちに着いたのが昼過ぎだからもう会ってきたよ」
「タピオカは?」
「タピオカは…かっ、彼氏ができたから、今頃島の中を散歩してるはずだ…」
「…さみしい?」
「いや…まあ、そうだな…少しさみしいな」

めずらしく素直に返事をした山田は感傷的な視線を海に向けた。娘が嫁にいった父親みたい。言ったら間違いなく怒りそうだから、言わない。代わりに、私も山田に会えなくてちょっとさみしかったよ。と言うと、すごい勢いで私の顔を見るので思わず目をそらした。慣れないことは言うものではないなと思う。山田の視線が痛い。橙色の月がますます大きく熟れていく。どこかで魚が跳ねて水音を立てている。山田はずっと私を見ている。

「少しやせたか」
「う、うん、そうかも」
「ちゃんと食ってるのか」
「食ってま…すん」
「どっちなんだそれは」

謎の質問攻めにあって目が泳ぐ。これはもしかして、今までタピオカに向けられていた山田の父性が私に向けられているのかもしれない。有り得そうな仮説に戦慄してぶるぶると震えていると、山田の着ていたスーツのジャケットが肩からばさりとかけられた。ほらやっぱり。思わずお父さん…と呟くと、ごく冷静な口調で俺はお前のお父さんじゃないと返された。冗談言っただけなのに、山田は真面目なんだから。うつむいて自分のつまさきを見つめていると山田のうすい手のひらが頭にそっと乗せられた。

「これからもちょくちょく帰ってくるよ」
「うん」
「だからちゃんと食いなさい」
「…はい」
「食欲がない時はカレーに限る。カレーに含まれるスパイスには健胃効果や食欲増進など様々な」
「食うから。食べますから」

だから子供にするみたいに頭をなでないで。そう言いたかったけれど山田の目があんまり優しいので何も言えない。この人こんなに優しい顔してたっけ。山田の手の動きに合わせて私の頭もかすかに揺れる。風が吹くたびにふわりふわりとジャケットが翻って煙草のにおいが少しだけする。胸がいっぱいでうまく話せない。山田といるといつも私はばかみたいなことしか出来ない。それがちょっとだけ悔しい。

「…山田」
「ん?」
「お帰りなさい」
「………ただいま」

それでも山田の笑顔を見るだけでこんなに幸せになれるんだから私は簡単だ。自分のよりだいぶ高い位置にある肩に頭をそっと寄せるとわかりやすいくらいに山田は体を硬直させた。しばらくして私の背中のあたりでうろうろとし始めた左腕が面白かったけれど、いい加減寒くなってきたので山田の背中を押して階段をのぼった。ユキくんのお家に泊めてもらってあと二日ほどは江の島にいられるらしい。あと二日。二日ぽっちかあ。口を尖らせて歩いていると、ずっと黙って家の前まで送ってくれていた山田は急に私の肩をつかんだ。

「ナマエ」
「は、はい」
「明日から英語の勉強をしておいた方がいい」
「えっ、ん?何で?」
「じゃあまた明日」

何故かやりきったような表情をした山田は手を振って帰っていった。一から十まで意味がわからなかったんだけど急にどうしたんだろう。英語の勉強なんて高校を卒業してから全くしていない。自分が何カ国語か話せるからって日本語しか話せない私に対して何か思うところがあったのだろうか。いくら考えても山田の意図がわからなかったので次の日会ったユキくんに尋ねてみると、アキラは大体海外で仕事してるからナマエさんも英語話せた方が将来的に楽だと思ったんじゃないかな。よ、よかったら英語教えるよ!とはにかんだ天使のような笑顔で答えてくれた。そこからうっすらと導きだされるひとつの答えに衝撃を受けた私は、両手で顔を覆ってその場にしゃがみこむことしか出来なかった。