頭がしくしくと痛い。しくしくしくしく止まらない。
部屋の空気はからからに乾いて、小さな音でもやけに大きく響く。音を立てるのを怖がるあまり、自然な体の動かし方を忘れてしまったみたい。
私、いつもどうやって体を動かしていたんだっけ?

ひとりでいるにはこの部屋は広すぎる。私の寄る辺ない気持ちが薄紙を重ねるように部屋を満たして、足下から空気を冷え冷えとさせる。
コーヒーを淹れようと台所へ行くと、シンクの中にまだ洗っていない二人分の食器が見えて、心臓が「痛い!」と叫んだ。
床にぺたんと座り込んでシンク下の収納棚によりかかる。薄いカーテン越しに見える空はもう夕方の色をしている。
悲鳴をあげつづける心臓がとてもうるさい。ほんとに悲鳴をあげたいのは。…誰だろう?

私、いつもどうやってあなたに謝っていたんだっけ?

そんな簡単な事もわからないのは、もうかなり行き詰まっている証拠。
小さなほつれを見てみぬふりしているうちに、細い透明な糸が千切れてビーズが床にじゃっと散らばったみたいな、
そんな些細な取り返しのつかなさがこの部屋のいたるところに転がっている。
部屋を出て行く前に「もう俺たちさぁ」とだけ言った、その最後まで言わないあなたのずるさ、それすら私はまだ、いとしいと思っているのに。
もう駄目なのかなぁ。頭も心臓も痛いよ、どうしよう、勘右衛門。
台所のつめたい床にまるまって、ひたすら呼吸をしている私は弱った動物みたいだ。
ずっと前にテレビで見たひどい手傷を負ったライオンのことを考えていると、ガチャリと玄関の開く音がして、
サバンナにいた私の意識は急速に自分の家の台所へと引き戻された。


憂鬱な気持ちで部屋に戻ると、ナマエが台所で横になっているのが見えた。
何を考えてそこに横になったのか、よくわからないやつだ。一瞬死体に見えてあせったじゃないか。
深い色をした板張りの床にナマエの肌の色はよく映えて、なんだか大理石の彫刻みたいで、不安になる。
もしかしたら本当に、大理石で出来ているのかもしれない。冷たくてすべすべとした、無機質なかたまり。
ナマエの体がやわらかくて温かくて、さわると気持ちがいいことは俺がいちばん知ってるはずなのに、
そんなばかな事を考える程度には今の俺たちには距離があるってことだ。
変な言い方になるが、今の俺には、ナマエに、さわらないで!って拒絶される自信が、ある。
そんな事言われたらもう、立ち直れない。かっこわるいけど、泣くかもしれない。
一応自分はドライな性格だという認識だったんだけど、ナマエの前ではどうも調子が出ない。おそろしいやつ。
いつも俺の真ん中にすとんと入ってきて、黒く濡れた、きれいな目で俺を見る。
宝石みたいなナマエの目が俺はすごく好きで、なのにいつの間にかその目で見られることを疎ましく思い始めた自分に気付いた時は、
うろたえた。ナマエの目を見る回数が減った。二人で話をする時間も少なくなった。時々ものいいたげに俺を見ているナマエの事を無視した。
起こるべくして起こった衝突だった。

もうどうにでもなれと部屋を飛び出し、町を歩いた。歩いているうちに川に出た。
煙草を吸おうとして、ライターを忘れてきたことに気がついた。
口寂しくて、川原に生えていた草を噛んだ。いつだったか、得意げな顔をした君が教えてくれた草。
「すかんぽって言うんだよ!」そう言って草をかじったあとに、酸っぱ苦いといって吐き出した間抜けな顔。
思い出したとたんに駆け出していた。ばかみたいだ、でも仕方ない。君がいなくなったあとの生活なんて、想像したくもない。
そしてたどり着いた扉の前でふと考える。何て謝ればいいんだ?いや、どこから謝ればいいんだ?

テーブルの上に置き忘れていたライターを取って台所へ向かう。
閉じられているナマエの薄いまぶたが微かに動いて、起きているんだって事がわかる。
換気扇をまわして煙草に火をつける。
両手をふとももに挟んで寝たふりをしている君と、言うべき言葉を言い出せずに煙草なんか吸っている俺は、
今同じ事を考えているって思いたい。
長く迷ったすえに口から出た言葉は、我ながらかなり情けないものだった。

「…狸寝入り」


低くて優しい声が耳に降ってきて、私は目を開けた。寝たふりがばれていたのが恥ずかしくてくすくす笑ってしまう。
勘右衛門も眉を下げて笑っている。指にはさんだ煙草はほとんど炭になっていて、とてもかわいい。
立ち上がって近付くと、勘右衛門は叱られた子供みたいにしゅんとして、煙草を灰皿に押しつけた。
そっとさわった体は温かくて、冷えきった指先から融かされていく。いとしい、いとしいと心臓が言っている。
勘右衛門は私をきつく抱きしめて、「冷たい」とつぶやいた。
そうなの、私ずいぶん冷えてしまった。でももう少ししたら、もっと温まるから。
だから今ははなさないで、壁で揺れる淡い影だけ見ていようよ。
私たち、きっとまだ大丈夫。