彼が私の部屋を訪れたのは、ある朝の、未だ夜も白々明けのころだった。彼は目も覚めきらず寝巻のままの私を半ば強引に外へと連れ出した。空に地面に木に風に、夜のほの暗さが残っている。中空で光っている星と、その横を流れていく一朶の雲を眺めて突っ立っている私の手を引き、彼はひたすら歩く。きつく握られた手が少し痛い。いたいよ、と小さな声で抗議をしてみたが、私の声は野分の風に遮られて飛ばされてしまったようだ。振り向くことなく歩き続ける、私よりも広い背中を見つめる。何年か前までは私の方が背も高かったし力も強かったのに、いつの間にか彼は私の背を追い抜いて、力だって今では全然かなわない。悔しくなって繋いでいる手に力を込めると更に強い力で握り返されて閉口してしまう。
寝巻のままでずっと歩いていたから少し肌寒くなってきた。目的も分からずひたすら歩くというのは、平生よりも気力と体力を削り取られるようだ。
「…ねえ」
「……何?」
「どこまで行くの」
「………」
だんまり。彼のいつもの秘密主義には慣れたものであったが、こういう場面でそれを発揮されると苛立ってしまう。私は結構短気なのである。とりあえず歩き続けるのにも厭きてしまった。繋がれている手を思い切り引っ張って立ち止まろうと両足に力を入れたその時、突如として拠りどころを無くした私の左手は空を切った。今の今まで私の手を引いて前を歩いていた彼は、いつの間にか道ばたの大きな石にこちらに背を向けて腰かけていた。
「…三郎?」
名前を呼んでもこちらを振り向く気配はない。いつもならば名前を呼べば必ずこちらを見て薄らとした笑顔を浮かべてくれるのに。不安になって彼の方へ一歩足を踏み出しておかしな事に気がついた。先程空へと登ったばかりだった日が、もう山の端へとうすづきはじめているのだ。部屋を出てからまだ一刻も経っていない筈なのに。怖い。身を翻して元来た方へと走り出そうとした途端に後ろから抱きすくめられて動けなくなった。体にまわされた手がやけに冷たく、芯から冷やされていくようだ。
「三郎、放して」
「…だめだ」
頭の上から降ってくる声音が明らかに人のものではない。どうして分からなかったのか。これは、三郎ではない。合わない歯の根を悟られぬように奥歯を噛み締めた。
「…あなた、誰?」
「この間…山で 」
そう言われて何日か前の実習のことを思い出す。先生方の仕掛けた罠を回避しながら山の中の指定された場所まで行き、そこに置いてある巻物を持って帰ってくるという実習だった。運が良かったのか日頃の鍛練の賜物か、割合早く実習を終えた私が学園へ帰ろうとしていた時、十羽近い鴉が何かを襲っているのを遠目に見た。弱肉強食が世の常であるとはいえ、その時の私は少し浮かれていたのだ。戯れに鴉達に向かって苦無を放って追い払い、その「何か」を助けた。兎か、それとも小鳥だろうかと鴉達が去ったその場を見遣ると、そこにはもう何もいなかった。微かに残る血の跡だけがそこで何かが襲われていたことを示していた。
なんたら逃げ足の速い生き物だろう、と別段不思議に思わずにそこから帰ったが、まさかその時助けた「何か」なのだろうか。
「あの時、襲われてた…」
「ナマエ、もう行かなくちゃ」
私の言葉を否定も肯定もせず、彼は再び私の手を引いて歩き始めた。ゆったりとしたその足取りに反して、辺りの景色は目まぐるしくもの凄い速さで移ろっていく。自分の足が自分の物ではなくなってしまったかのような感覚。今頃学園の皆はどうしているだろうか。私がいなくなったのに気付いて捜してくれているだろうか。…三郎は、どうしているだろうか。じわじわと視界の隅から世界が滲んでゆく。まるで水の中をすごい速さで泳いでいるみたいだ。と、唐突に彼は歩みを止めて、おそるおそるといった風に正面から私の頭を抱えた。
「ナマエ、帰りたいの…?」
「…帰りたい、よ」
「…好き、なのに。こんなにこんなに、好きなのに」
彼ははらはらと涙を流し、その涙は私に触れた途端なよびかな白い花びらへと姿を変えた。そして気がついた時には彼の姿はもう何処にも無く、寝巻姿で道ばたに立ち尽くしていた私は、直に必死の形相をした三郎に保護された。私はどうやら丸二日間も行方知れずになっていたらしい。それが急に学園からそう離れていない場所に立っていたから驚いたと、三郎は後に話していた。
それからの私はというと、学園に無事に帰れた安堵の気持ちはあったものの、どこか心に穴のあいたような空虚な気持ちがどうにも消えず、件の山へ出向いて彼を捜してみたりしたが、彼の行方は杳として知れなかった。