「みる?」
そういうふうに、三郎に聞かれたことがある。わたしは「みない」と答えた。
どうしてだろう、何かこどもじみた意地だったのかもしれない。
三郎は顎に手をあててちょっとだけ黙ってから、そうかと言った。ふだんの彼の話しかたとは違う、あどけないような聞き方だったからよく覚えている。わたしたちはそのあと何も話さないで長いこと屋根の上にすわっていた。冬の夜。シューシューと流れる星の音が聞こえる気がした。とても静かな夜だった。わたしは何だかとても悲しくて、口を開いたら涙がこぼれそうでずっと黙っていたのだ。いったい何があんなに悲しかったのだか、今はもう思い出せない。
それから春になりわたしたちは学園を卒業した。三郎とはそれきり会っていない。いくつもの季節がめぐって何人もの友達が星になり、わたしはなんとか生きている。今もこうして地面に足をつけて歩いている。ふみつけた枯れ草のにおいが風にとばされていった。すすきの原がしんと静まり、山の上から風がおりてくる。遠くのすすきから順番に吹きつけられ、飛ばされないように土をつかんでたえている。風の勢いにおされて何歩かあとずさり、わたしは近くの木に身をよせた。ひきちぎられた木の葉が飛ばされてあっという間に見えなくなる。今日の夜はいつもにくらべて暗い。大きな雲が空に居座っているのだ。
今日の昼間に戦のあとを見た。いろいろな残骸が無造作につみ重ねられているその片隅で、どこか三郎に似た人がこと切れていた。うつぶせになっていたその人の顔を見ることはしなかったけれど、手の感じが似ていたのだ。学園の生徒だったころ、わたしは三郎の手をよく見ていた。すこし動いただけであっというまに顔を変え、難しい武器もするりとおさまる、器用でうつくしい、よく働く手。額からまぶた、鼻すじからほほ、くちびるへ。三郎の指がくるくると動き回ったあとにあらわれるのは時にはわたしたちの友達であったり、先生であったり、まるで見たこともない人になることもあった。それは誰なの、と聞いたけれど上手にはぐらかされてそれっきり。三郎の変装は彼の記憶そのものだ。さまざまな形で彼に関わった人たちが、三郎の体を借りてあらわれては消えてゆく。過去の記憶に守られて、いくつものぼんやりした影の向こう側で得意げに笑っているような、そんな実体のない幽霊みたいな男がどうしてあのときわたしにあんなことを聞いたのだろうと今になって思う。あのとき泣いてしまってもいいから尋ねておけばよかった。もはや答えは失われてしまったのだ。三郎が自分から声をかけてこない限りわたしは二度と彼に会うことができない。町ですれちがっていたとしても、合戦場で彼が死んでいたとしてもわたしにはわからない。自分がこんなにも三郎の存在にこだわっていたことに静かな驚きをおぼえた。
強い風は雲をどこかへ連れていき、あたりの原が空からの光を反射して静かに発光し始めた。弱まった風が吹くたび光が波うちこぼれて、わたしの足元を洗う。歩きだして見上げた空では今にもこちらへ落ちてきそうな星が瞬いている。あの全てがわたしの眼であったなら、きっとわたしはすぐに三郎を見つけられるのに。もうどうしようもないくらいに、ただひたすらにあの声と手がなつかしかった。今すぐにここにあらわれて、隣を歩いてほしいとさえ思った。こんなにきれいな、この世のものではないような光景を三郎にも見せて、感心させたかった。前みたいに軽口をたたきあって、一緒に笑いたかった。だから、そう、わたしは鉢屋三郎を捜すことに決めた。どんなに時間がかかってもかならず捜しだしてあの夜の話の続きをするのだ。
あんなに単純な言葉が今になってわたしを動かしている。三郎の手がわたしの背中を押して、操っているような気さえする。不思議にからだは軽やかだ。わたしは今、とても三郎に会いたい。いや、もうずっと昔からわたしは三郎に会いたかった。隣に座って空を見ているときですら。いつかきっと会えると信じて、祈るような気持ちでひたすら彼の手を見つめていたのだ。卒業の日、「見たくなったらいつでも来れば」と三郎は言った。あのときつかめなかった手を今度こそつかみたい。走る速度が上がるにつれ耳が冷えて痛くなる。ひゅうひゅうと風が鳴って目じりが冷たい。おそるおそる差し出された手を見つけに行かなくてはいけない。いつか彼に会えたときはその顔をほんの少しだけ傷つけて、血の流れるところを見せてほしいと思う。