駄作2


それから僕と長谷は度々遊びに出かけた。それは買い物だったり、映画館だったり、水族館だったりと、地元のデートスポットと呼ばれる場所へはことごとく一度は行ってみた。学生らしく夏休みの宿題を分担してやってみたりもした。異性というものに触れたことのなかった僕らは、ドラマや小説のなかで展開されるようなステレオタイプきわまるデートしかできなかったけれど、僕は退屈しなかったし、長谷だって満足していたようだった。盲目のつがいが、お互いの輪郭を確かめるような、そんな不器用な付き合いでも、そこに確かな温もりはあった。触れればそこに長谷がいるというのは他愛ないことだが確固とした充足感を僕にもたらした。これがいわゆる「愛情」なのか、あるいはともにする時間が長いからというだけの「愛着」なのかは判断が難しい。しかしそんな判断は必要じゃない。僕らはややもすると形而上のものに名称を与えたがる。そんなのは傲慢だ。哲学を分析したってなにがわかるわけじゃない。僕たちはそれを感じている。それで十分なのだ。 
また、僕と長谷はセックスというのにも手を出した。驚いたことにそれを提案したのは長谷のほうからだ。それは僕たちが恋人同士になってからちょうど一ヶ月が経ったその日のことだった。 
長谷が一ヶ月目のお祝いがしたいと、電話越しにそう言ったものだから、僕は家の近くにある美味しいと評判の洋菓子店で二ピースのショートケーキを買って、長谷の家へと自転車で向かった。もう八月が終わるということもあって、暑さはだいぶ和らいできた。それでもなお夏は夏で、残暑がまとわりつく。ケーキが崩れてしまわないよう、段差や石ころを避けて移動するのはなかなか骨が折れた。 
二十分ほどすると長谷の家に到着する。もはや見慣れた長谷の家。新しくて綺麗である。空の犬小屋がどうにも虚しいけれど。なんとはなしに郷愁を誘う音色のインターフォンを鳴らすと、長谷が階段を駆け下りる音が聞こえてくる。柄にもなく転ばないようにしてほしいな、慌てなくても逃げないのに、と自然に思う僕がいて、ちょっと可笑しい。 
「おかえりっ」 
戸が開いたと同時に、顔いっぱいに喜びを敷き詰めたような長谷が飛び出してきた。そして僕は困ったように微笑んで、「ただいま」と長谷に返すのだ。 
「今日はゴスロリの衣装じゃないんだね」今日の長谷の私服は至って普通で、よくにあっている。見栄を張らずに、いつもふつうな服装を着て欲しいなと思った。 
「うん。さすがにあれは家に居るのに着れないよ。それにもうそろそろゴスロリも卒業かな、なんて思ってるし。まあ、そんなことはどうでもいいんだ。あっ、本当にケーキ買ってきてくれたんだね。ありがと」 
「自転車でケーキを運ぶのはすごく大変だったよ。でも中身大丈夫かな、これ綺麗に作ってあったから心配だ」 
「口の中でどうせごっちゃになるんだから平気だよ」 
身も蓋もないことをいいながら、僕のバックパックとケーキの箱を取り上げる。なぜか長谷は僕の荷物を持ちたがる。重いからいいと、遠慮するのだけれど、持つといって譲らない。冷蔵庫にケーキを入れたあと、長谷の部屋へと入った。長谷の部屋は空調が効いていて、すごく快適だった。何度か入ったことがあるから、もう自分の部屋のように寛げるようになった。初めは女の子の部屋というものが、すごく均整が取れていて、なんとなくその均整を崩してはいけないような雰囲気があったので、うまく落ち着くこともできなかったが、今ではそんなこともお構いなしだ。ベッドに横たわったり、椅子に持たれたり、座布団に座ったり。なにをするかといえば、なにをするでもない。各々思い思いにマンガを読むこともあったし、二人でゲームもした。もっと生産的な過ごし方をするべきなのかもしれないが、これが心地良いから仕方ない。ページを捲る音、茶菓子を齧り咀嚼の音、全部穏やかで気持ちがよかった。 
だからその日も、一ヶ月記念日であるということをまったく気にかけずに、ただ一緒にいるという時間を楽しんでいた。しかし突然長谷がマンガのページを捲る音が止まる。心地良いリズムになっていたから、僕はすこし気になって、音楽情報誌から目を離して尋ねた。 
「どうしたの?」 
「これ、ちょっと見て。少女漫画なんだけど、すごい」 
そう言って差し出してきたのは、いつだか面白いといって僕に勧めてきた少女漫画である。受け取って見てみれば、主人公と思しきやけに目の大きな女の子が馬乗りになって、面長の美形な男子に下から突かれていた。 
「今の少女漫画ってこんなに過激なんだね。僕パタリロとかちびまる子ちゃんくらいしか読んだことないから驚いたよ。男性誌よりもいやらしい感じがするね」 
「今の少女漫画なんて大体こんなものだよ。これじゃあ迂闊に貸すことだってできないね、恥ずかしくて」 
そうしてまじまじとその絵を見つめていた長谷だったけれど、不意に言う。 
「木戸くんもこういうことしたいと思ってる?」
「え?僕?……うーん、あまり考えたことないなあ」 
「嘘でしょう?木戸くんぐらいの年の男の子っていえば、一日中そんなことばっかり考えてるって聞いたけど」 
「たいして興味がないからね。異性とどうこうしたいとかは考えたことないよ」 
「じゃあ、一人でやったりもしないの……って私なんでこんなこと言ってるんだろう」 
蟻や彼女の愛犬で致したことが口をついて出かかったが、さすがにそれは流石に異常視されてしまうと思って、慌てて口を噤んだ。 
「そうそうやらないよ。寝ているときに出ちゃうことはあるけれど、女性のそういう想像でっていうのは滅多にしないね」 
「それは逆に健全じゃない気がする……」 
僕にとって、自慰とはそれほど重要なものではなかったし、そのことで自分が特別だとも思っていなかったからその指摘にはいささか虚を衝かれた。 
「それじゃあ、わたしとこういうことしたいとかは?」 
長谷が男女が絡み合っている漫画の一コマを指差す。 
「ないねえ」 
「なんだか関節的にものすごく侮辱された気がする」 
そうして長谷はがくりと俯いてしまった。どうにかフォローできないだろうかと言葉を探してみるも、かける言葉が見つからない。 
「違うんだよ、長谷さん。僕はおそらく女性というものに性的な興味を抱けない体質なんだ。だから君の体に魅力がないとか、僕が君のことを想っていないだとか、決して思っちゃだめだ」 
「それってほんとに恋人なのかなあ。恋人を恋人にするものってなんなの?かならず恋愛にはセックスって切って離せないものだと思うんだけど」
僕は考え込んでしまった。恋人を恋人たらしめるもの。たしかにそれは、意中の相手に触れたいと思う欲望、すなわち性欲なのかもしれない。恋愛だって、生殖のプロセスにおける、理性が生み出した副産物みたいなものだ。長谷を利用するためにこういう関係に、半ば強引に持ち込んだ僕だけれど、最近「僕はこの子のことを本気で好いているのかもしれない」という所感を抱くことがたびたびあった。それはたいがい二人でいて、そしてすごくリラックスしたムードの時に去来する思いだ。しかしこうして考えてみた今、僕の長谷への思いは全く擬似的なニセモノで、ただ単に慣れ親しんだ者と過ごす、慣習みたいなものに安らぎを感じていただけなのかもしれないと思い至った。
僕があまりに長い時間熟考していたので、不安になった長谷が、雰囲気を変えるためだろう、買ってきたケーキを食べようと言ってきた。時間は午後六時で、晩御飯前に甘いものを食べるのは気が引けたが、せっかくの提案を無下にもできない僕は、了承の旨を長谷に伝えた。 
「確かに美味しいね、このケーキ」 
「甘いものをめったに食べない僕でも美味しいと思うよ」 
長谷は満悦といった表情でケーキを頬張る。幸いにケーキは形を崩していなかった。苦労の賜物か、ことに美味しく感じる。実を言って甘いもの嫌いの僕でさえもう一ピースほど食べたいくらいだ。 
しかしケーキを食べてしまうと、手持ち無沙汰で気まずい沈黙が訪れる。参ったなあとあたまを掻く。いつも姦しいくらいな長谷の元気がない。やはり、先程の話が原因なのだろう。帰宅の口実を考え始めたころ、長谷が口を開いた。 
「やってみない?」 
「な、なにを?モノポリーとか?」 
薄々はわかっているのだが、目をそらしてしまう僕。 
「文脈考えて。うち、親が水商売だから時間とか場所とか、そのへんのことは気にしなくてもいいんだ。まああの人は私がなにやってても興味示さないだろうけどね。……だから、ほら」 
長谷の声色にしなが入り始める。とろんとした瞳に吸い込まれそうになる。断わるゆえんはないが、いざ迫られると気圧される。しかし、いつまでも逃げ回っていては、始まるものも始まらない。もしかしたら、僕はここでなにか掴めるかもしれないのだ。僕は僕の膝を撫でている長谷の細く陶磁器のような掌に、自分のそれを重ねる。 
「そうだね、やってみようか。長谷さんとなら、もしかしたら」 
長谷の手首を掴んでこちら側にぐいと引き寄せる。その際に手首の傷痕のふくらみに触れたが、どうってことない。僕の胸のなかに収まると、長谷の口から「あ……」というような声が漏れた。腰に手を回して、軽く抱きしめてみると、長谷のほうもおずおずと僕の胴に手を回してきた。こうしていると、今人に触れているのだなという感慨が湧き出てくる。意外とずっしりとした(特別長谷が思いというわけでは決してない。比較的には長谷の体重は軽い方だと思う)重さや、確かな熱を感じることができる。不意に長谷がキスをしてきた。一瞬、中学生のときに強姦されかかった記憶が蘇りそうになったけど、唇が触れているのは長谷であると己に言い聞かせれば、まったく問題なかった。よく比喩で「啄むような口づけ」なんていうのがある。僕はこの表現をまったく理解出来なかったのだが、当事者になってみると、確かにその直喩は的を射ていると納得させられた。必死になって唇を押し付けてくる長谷を素直に可愛いと感じる。 
「触ってもいいよ……」 
少し荒い息の間に長谷のか細い声が混じる。そうだった、僕たちはこれから、セックスをするのだ。キスの先の、そのまた先までいくということだ。いくら興味がないからと言って、実際にやってみるとなるとすこし緊張する。僕は意を決して目の前の大きいとは言えないながらも形のいい乳房に服の上から触れた。柔らかい。長谷の体が少し震えた。 
「怖い?」 
僕が耳元で尋ねると微かに首を横に振る。僕は乳房に触れる手を少し強めた。マシュマロに例えられるそれは、柔らかいが確かに身体の一部であり、血の通った「肉」であり、「人」だった。僕はもっと鮮明にその感触を体験してみたくなって、長谷の素肌に手を滑らせた。長谷も負けじと、僕の首筋を口で、舌でなぞってくる。ぞわぞわとせり上がってくるような快感が僕を惑わす。意外なことに血液はぼくの「それ」に集まりはじめていた。挿入するときに勃たないままだったらどうしようかと危惧していたが、どうやら杞憂に終わってくれるようだ。 
「下も触るけど、構わないよね?」 
「恥ずかしいこと聞かないでよ……」 
鼻にかかった、すごく官能的な声で長谷が答える。僕はまず長谷の内腿を指でなぞり、そしてだんだん上へと手を動かしていく。僕の指が動く度に体をけいれんさせる長谷。あまりにレスポンスが小気味好いのでこっちも楽しくなってきてしまう。とうとう指が秘部に到達し、「それ」の輪郭をなぞったりすると、明らかに長谷の呼吸が乱れていった。もはや長谷の秘部は僕のものを受け入れる準備が出来ているようだった。下着の上からもじっとりと湿っているのがわかる。長谷の首筋を見ると、羞恥のためか本来白かったそこは真っ赤に紅潮していた。なんだかその様子が愛らしくて、僕はそこにキスをした。 
そして耳元でこう囁く。 
「……そろそろ、してみようか?」 
そのあと僕は長谷の中へ挿入し、腰を振り、そして果てた。長谷は処女ながらも、最後まで僕を受け入れていた。やはり世の人が言うような激しい魅力はそこにはなかった。けれどもお互いに一糸纏わぬ姿で隙間なく抱き合っていると、乳房ごしに鼓動が聞こえてきて、生を意識させる。背中に残った爪痕も、鼠蹊部を濡らす体液も、すべて長谷という存在の名残りだった。人が人としてあるための行為の証明だった。精液の溜まったコンドームを処理している間は、なんとなく虚しい感じもしたけれど、悪くない体験であるように思えた。長谷も事後に下腹部をさすりながら「変な感じがする」なんて顔を苦笑したりしながらも、満更ではない様子だった。その日は長谷の手料理である夕食をいただいて、九時ごろ帰宅した。 



わー!木戸くんとしてしまった!しかも言いだしたのは自分から……。とても恥ずかしい。木戸くんが、男なのに全然そういう雰囲気を見せてこないから、ちょっとからかうつもりでそっちの話題を出してみたら、私の方がなんだか変な気分になって……という流れだった。木戸くんの前では処女のふりをしていた。最初は痛がっているような真似をして。だって男の人は処女が好きだってなにかの統計で出ていたから。ネットでは、処女ではない女の子のことを「中古」なんて呼ぶらしい。そんなやつらはみんなゲロ吐いて死ね。木戸くんはそんな人じゃないと信じてるけど、念のため。木戸くんの指は繊細で、触られたところが熱くなった。お客さんのときはあんなにいやだったのに、木戸くんの時は良かっただなんて、やっぱり私は木戸くんを好きなのかもしれない。木戸くんのことを考えると、ふわふわして、しあわせな気持ちになる。夕ご飯を作っていても、数学の宿題を解いていても、集中力が切れたその瞬間に木戸くんの顔が頭に浮かんでくる。明日こんなことを話そう、とか明日はあそこで一緒にごはんを食べようとか、そんなことで頭がいっぱいだ。
やっぱり私は木戸くんが大好きなんだ。それどころか、大好きで大好きでしようがないくらい好きなんだ。こうして文字にしてみると、ずっと前からそうだったような、まったく当然のことのように思える。もしかしたら、話しかけられる前から気にはなっていたのかも。木戸くんは妙に落ち着いていて、周りの男子とは全然雰囲気が違っていたから。ああ、もうだめだ、木戸くんのことしか考えられない。木戸くんが要求してくることはなんでもしてしまいそう。私みたいな女が結婚詐欺に遭ったりするのかな。でも木戸くんに騙されるならいいか、なんて思ってしまうのは、ちょっとヤンデレっぽいかな、なんて笑ってしまう。
それにしてもお母さんはほんとに慎みがない。昨日だって、私が寝付いたころに知らない男と帰ってきて、それからまたとなりの部屋でやってるんだから。獣じみた声が聞こえてきて、うるさくってぜんぜん眠れなかった。私たちはああはならないようにしようとつくづく思った。その点お母さんはいい反面教師になってくれている。感謝なんてしてないけどね。はやくしねばいいのに。



覚え始めは猿のようにやりまくるとよく言うが、たしかに長谷は行為の魅力に魅せられていた。ときどき僕から求めることもあった。しかしそれは長谷の示唆の上に成り立っている誘いだった。といっても僕だって嫌だったわけではない。僕とてこうした関係に概ね満足していた。
そんな爛れた毎日を過ごしていた僕だったから、夏休みの残りがもはや数日になっていることや、美術部の課題がまだ終わっていないのを完全に失念していた。僕は頭を抱えた。あまりに恥ずかしい絵を公衆に晒すのはすごく嫌だし、美術部の課題が出ていないのをあの姦しい美術教師にきいきいと言われるのも同じくらい嫌だ。僕はどうにかしてこの邪魔者を片付けたいと思った。 
今日は朝から画用紙を貼り付けた画板に向かっていた。まったく手が進まないものだから、慰めにカッターナイフで爪の表面を削ったり、セロハンテープを顔に貼って遊んだりしてしまう始末である。長谷からの「今日も一緒にいられるよね?」というメールでの誘いも今日は断った。実は課題の件は口実で、本当のところ、数日の連戦が祟ってあそこが痛くなってしまったからというのが理由である。ちなみに長谷からの返信はいつまで経ってもなかった。僕は全く進まない作業に倦んで、とうとう漫画を読み始めてしまった。 
全三巻の漫画を読み終えて、同じ作者の別の作品に手をかけたころである。唐突に家のドアが開けられる音が階下から響いてきた。母さんは日中は働きに出ていて、まだ帰ってくる時間ではないから僕は首を傾げた。しかしきっと忘れ物でもしたのだろうと深く考えもせず、再び漫画に目を戻した。これが良くなかった。もし僕がここでなんとなく画板に向かっているような体を装っておけば、あるいは災厄は逃れられたというものを。玄関の扉を開いた音の主は警戒に階段を駆け上り、部屋の戸を豪快に開け放った。 
そして「彼女」はベッドに寝転んで漫画を読みながら寛いでいる僕を睨み、そしてなじった。 
「どうして漫画なんて読んでるの?私の誘いも断ったくせに。それとも好きなだけヤッたら、もう私のことが面倒になっちゃった?」 
「そんなことないよ、長谷さん。僕はただ少し休憩してただけだよ」 
「嘘だよ。画用紙が真っ白。適当なこと言って、逃げようとしないで」 
さらなる失策。何かしら、例えば下書きとかを描いておけばよかった後悔するも時すでに遅し。 
「それはイメージが浮かばなかっただけで……それに毎日君に会わないといけないだなんて決まりはないでしょ?挙げ句の 
果てに不法侵入だ」 
「そうして開き直るんだね。信じてたのに。初めてだって木戸くんにあげたのに。前々から思ってたけど木戸くんって私のことたいして好きじゃないでしょ。誘うのはいつも私のほうからだし。面倒くさいと思ってるの?」 
僕は頭を掻き毟った。長谷はときどきこうして言いがかりのようなわがままを言ってくる。悪い癖だ。 
「勝手な誤解をしちゃダメだ。僕は君に飽きてなんかいないし、むしろ君の方が僕にいつか飽きると思って恐々としているぐらいだよ」 
「じゃあ抱いてよ、今」 
極端なことを言い出す。 
「きょ、今日は無理だよ。体が痛いんだ」 
「ほらやっぱり!」 
そしてとうとう長谷は泣き出してしまった。勘弁してくれよ、と頭で思いながら長谷の肩に手をかけると、ぴしゃりと強い力で払われた。長谷は何を思ったか、机の上に放り出されていたカッターナイフを手に取り、左の手首にあてがう。 
「うわ、やめなよ」 
「切るから」 
僕がカッターナイフを取り上げようと飛びつくより早く、長谷はカッターを引いていた。さらに悪いことにはカッターナイフの刄は真新しいものだった。ぷくっと雫ができたかと思うと、さらさらと傷口から血液が溢れ出してくる。長谷自身、思いのほか深く切れてしまったようで、驚愕の表情を浮かべている。長谷が痛みに顔を顰めている間にも、赤い赤いそれは長谷の白い指を伝ってフローリングを濡らす。僕はその赤と白のコントラストに引き寄せられるように近づいていく。まるで誘蛾灯に群がる虫のようだと思った。そして僕は長谷の震える手を包み、血液を吐き出し続けている肉の亀裂に、至極自然な動作で、口をつけた。 
「いやっ、ちょっと!」 
長谷が驚いて手を引こうとするけれど、離さない、離せない。口いっぱいに鉄臭くて生暖かいものが広がる。美味であるということはなく、むしろ生臭くてすこし気持ち悪い。しかしそれは長谷の生をひときわ主張し、生物の宿す神秘への意識を喚起した。律動的な血液の排出がひどく愛おしく、舌で傷口をなぞる。丹念に、まるで初々しい恋人たちの前戯ような慎重さで。 
「痛いよ……」 
長谷は今どんな顔をしているだろうか。憤っているような気もするし、泣きそうな顔をしているかもしれない。しかし、長谷の肉体に魅せられてしまった僕には、もはやそんなことは眼中になかったのである。僕のペニスは痛みも忘れて屹立している。びくんびくんと脈動を繰り返す「それ」は明らかに長谷を欲していた。やがて血液の出が悪くなったことを口腔で確認した僕は傷口から唇を離す。そして長谷を今までにないくらい優しく抱きしめた。 
「僕が悪かったよ」 
さっきの威勢はどこへいったのか、今や長谷は僕の胸の中で縮こまって借りてきた猫のようにおとなしくなっている。絹のような髪を梳いて、長谷の襟首を愛撫すると、体をぶるっと震わせて、官能的に嘆息した。 
「応えてくれる?」 
そう耳元で囁くと、わずかに顎を引いた。僕は長谷をベッドに軽く押し倒した_____……。 



今日の木戸くんはなんだかおかしかった。私との約束を断ったくせして、漫画なんて読んでいたものだから、私はついかっとなって近くにあったカッターナイフで自分の手首を切った。さいわい、筋は傷つかなかったけど、意外に深く切れてしまった。そこで私が慌てていると、木戸くんがふらふらと近寄ってきて、血が溢れている傷口にむしゃぶりついた。最初のうちは、木戸くんの舌が傷口から体内に入り込もうとしているキモチワルイ寄生虫みたいに感じた。けれどこれは木戸くんだ、ってじぶんに言い聞かせていると、途端に可愛く思えるようになっていった。傷を抉られているんだから、もちろんものすごく痛かったけど、ちゅうちゅうと音を立てて傷をしゃぶる木戸くんが赤ちゃんのようで、ほほが緩んだりもした。しばらくすると木戸くんは傷口から唇を離してわたしを抱きしめた。すごく優しくて、小鳥の雛を撫でるように私を扱ってくれているように感じて、木戸くんの胸の中でいいようもない幸せな気分になった。骨抜きにされるってこういうことを言うんだろう。他の人からしてみれば多少気味の悪い光景かもしれないが、私たちにとっては最高のひと時だった。そのあとは、なんというか……推して量るべしというか……そういうことをした。血を飲んで昂るなんて木戸くんはドラキュラみたいだと思う。あ、でも似合ってるかもしれない。陽の光に当たると溶けそう。ニンニクも好きじゃなさそうだし。「僕、臭いの強いものは食べられないんだよ」とか言いそうだ。木戸くんのことを考えてると時間がびっくりするくらいはやく過ぎてゆく。恥ずかしいな。
今日はもう寝る。お母さんも珍しく早寝だし。久しぶりに安眠できそう。手首の傷はかなり痛むけど、木戸くんの名残りだと思って眠りに就こう。



その日から僕の絵の宿題はすらすらと進むようになった。恋人との異様な性体験にインスパイアされて筆が進むなんてプロの芸術家のようで、我ながら笑ってしまう。技能においては変わりようもないけれど。それでも僕はあの日何か掴んだのだ。今までにないくらい昂ぶって、収集がつかなくなるくらい交わったあの日に。僕があれほど積極的になったのを初めて見た長谷は、性的な愉悦に浸りながらも僕の変貌に、どこか戸惑いを覚えていたように思える。といっても行為の終盤には精も根も尽き果てて、原始的な反応しか返してこなくなったけれど。長谷が戸惑うのも無理からぬことで、どうしてあんな事になったのか、自分でも不思議なくらいなのである。結局あの日は母さんが帰ってくるまでやり続けていたから、きっと母さんも僕たちが何をしていたか気づいたに違いない。下半身へ思うように力の入らない長谷を気遣いながら、探るような目つきで僕を睨めつけていたからだ。長谷を送り出したあと、僕は母さんの疑惑の視線をくぐり抜け、素知らぬ顔をしてやり過ごした。やはり息子が何をやっているかが気になるらしい。僕は母さんのその視線を厭うて、その日のようなことがないように専ら行為は長谷の家で行うようになった。そして決まって僕は長谷に手首を切ることを要求した。最初は嫌がっていた長谷も、自傷行為後の快楽の味を覚えさせれば覚えさせるほど従順になっていった。長谷には生来マゾヒストの素質があったようだ。そのせいで長谷の手首は無残な様相を呈していた。けれど、その傷痕の数々を見る度に長谷は陶然とした表情を浮かべた。もはや長谷の存在意義は僕そのものだった。逆に僕も長谷に依存していった。長谷のいない生活なんて考えられない。僕たちは本当に一つになりかかっていた。僕と長谷が一つに混ざり合い、永遠を過ごす空想に酔いしれる。僕は今や最高に幸せだった。けれどもっともっとお互いを分け合いたい。本当の意味で一つになりたいと切実に願う。もちろん、カニバリズムなんてチープなことはしない。それは僕の中では一つになるという欲望を満たしてはくれない。僕はどうして僕で、長谷はどうして長谷なのか。どうして二人は一人じゃないのか。扼腕の念に奥歯をぎりりと噛みしめる……。 
そういえば長谷と交わった二日後、あの美術教師から電話があった。僕の絵の進捗具合を尋ねる電話だった。 
『どうですか?もう夏休みも終わりが見えてきましたけど、絵のほうは進んだ?』 
「順調ですよ。先日ちょっとしたことがあって、僕の理想が固まりつつあるんです」 
『あら、それはすごくいいことですね。でもほんとかな。あなたのことだから、口八丁で私をいなそうとしてるっていうセンも否めないわ』 
「ほんとですってば。僕ってそんなに信用できませんか?」 
『ぜんっぜんできない』 
先生があまりにも即答したものだから、思わず吹き出してしまう。すると先生のほうも笑いだし、なんだか和やかな雰囲気になってしまった。
『完成させてくれるのなら安心しました。私は残りの夏休みも個人的な活動のために学校にいますから、もし出来上がったら休みの間でも提出してくれても構いませんよ』
「わかりました。早急に完成させようと思います。でももう少し時間が必要かな」
『期待しています』
そうしてその後少しの雑談をして、僕は先生に続きを描くからといって受話器を置いた。もはや描くことに抵抗がなくなった僕は、軽快に階段を駆け上がり、鉛筆を再び握って画板に向き合った。すでに構成は出来上がっている。あとは鉛筆での仕上げがあと少しと色を塗るだけなのだが、適当な色を作るのがなかなかどうして難しい。特に赤い色がしっくりこない。僕の望む赤色が欲しいなあ、と長谷を思い浮かべながら思った。



今日も木戸くんと手首を切ってのエッチをした。もう何度目になるだろう。右の手首は切り傷でズタズタだ。でも手首を切れば木戸くんはノってくれる。びっくりするくらいに優しく撫でてくれる。それだけで私の痛みはどこかへ飛んで行ってくれるのだ。夏休みはもうそう長くない。ずっと一緒にいられるのも、あと数日になってしまった。多分この両手が傷だらけになるころには夏休みは終わってしまう。学校では、そう大胆なことはできないだろうし、私と木戸くんの距離感もすこし遠くなってしまう気がする。とても悲しい。胸の奥のほうがきりきりと痛む感じがする。新学期が始まっても、木戸くんはいつものとおりに私に接してくれるだろうか。それに私にしても木戸くんが他の女の子にベタベタされるのは忍びない。うちのクラスには、私ほどではないけど、クソビッチが多い。木戸くんは人気があるから、女の子ともよく話している。その目が空虚なのを馬鹿な女どもは気づいていない。そんな女どもに触れられている木戸くんを見ていると、きっと私は嫉妬の炎で身を焼かれる様な感じを覚えるはずだ。厄介なことにならなければいいけど。
今日はお母さんが帰ってきた。事を致した後、そのお客と料金について口論していた。中に出しただのなんだのとバカみたい。こんな女の膣から這い出てきたなんて、私は自分が賤しいものに思えて無性に悲しくなった。もう寝る。







 
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