高校受験は終わった。結果はまだ出ていないが、明日はもう卒業式だ。結果が出る前に卒業式があると、居場所を失くす。高校の入学が決まる前に中学を卒業。見捨てられた気分が付き纏う。三年間過ごしてきたこの校舎だって、明後日には私を拒絶するのだろう。もう、戻れない。
 201X年 3月8日。私、上村真麻は短い中学生活に終わりを告げようとしていた。
 受験が終わって、今まで勉強していた時間にぽっかりと穴が空いた。勉強する前は何をしていたのだっけ?ああそうか、部活か。懐かしい部室に戻っても、私の使っていたロッカーは空っぽだ。ここにも居場所は無い。引退するときに荷物は全て片付けてしまった。卒業するのだから、荷物は残して行けない。
 そこまで考えたところで、机の中に置きっ放しの本やプリント、教科書の存在を思い出した。昨日も持ち帰ったが、一回では持ち帰れなかったのだ。他にも荷物はあったから。
 どこへ向かうでもなくフラフラと遊んでいた私の足は、明確な目的地を見つけてはっきりと動き出した。懐かしい廊下や保健室を通り過ぎる。階段をゆっくりとのぼる。誰もいない放課後の校舎の中を疾走する。校舎は夕焼けのオレンジ色に沈んで、今にも溶けて崩れそうだった。空の教室をいくつか過ぎて、自分の教室に辿り着いた。
 教室も橙色に染まっていた。白い壁にオレンジが反射して、柔らかく机を照らしている。どの机も空っぽだ。もう誰も戻らない。
 私の席は窓側から二列目の前から三番目。その席にだけ中に荷物が残っている。机の中身を全部出してみた。教科書と本が数冊、それからプリントが少し。漫画が二冊。何故か折り紙。いつからあったんだろう?全部鞄に入るといいのだけれど。
 不意に廊下から足音が聞こえた。単調なリズムで、小さく高い音を響かせて、誰かがこちらに向かっていた。
 ドアががらりと開いた。クラスメイトの早川たすくがドアの前に立っていた。あれ、『たすく』って漢字でどう書くんだっけ。忘れてしまった。
「あれ、上村さん。何してるの?」
 彼はへらっと笑って話し掛けてきた。夕焼けのせいで彼の髪もオレンジがかって茶色っぽく見える。
 私は早川たすくとあまり会話をしたことが無い。一年間同じクラスだったけれど、これでは初対面も同然である。
「片付け。明日で卒業だし。早川君はどうして教室に?」
「探検だよ。部室行ったり、音楽室行ったり、ステージ裏に忍び込んだり」
 変わった人だ。友達と一緒にいないってことは、一人で校舎内をうろうろしてたのだろう。
 早川たすくは窓際の一番後ろ、自分の机に腰掛けた。椅子に座るつもりは無いらしい。
 沈黙。
 早川たすくは何をするでもなく、ぼーっと窓から外を眺めていた。私は荷物を鞄に無理矢理詰め込んだ。鞄はおかしな形になってしまった。
 共通の話題を持たない私達の間には、言葉は存在しない。そもそも相手の事なんてほとんど知らないな、と私は今更気が付いた。
 だから、最初は気付かなかった。彼に話しかけられていることに。
「上村さんてさ、何部だった?」
「……美術部」
 少し懐かしかった。アクリル絵の具の匂いを思い出した。しかしいきなり何なんだろう?
「あのさ、俺はバスケ部だったんだけど、知ってた?」
「……知らなかった」
 クラスメイトでも、部活なんて知らなかった。そういう人だっている。
 それから彼は、どうでもいいような質問をいくつかしてきた。これはありがたかった。沈黙はきっと耐えられなかっただろうから。
「好きな教科は?」
「音楽」
 そう応えると、彼は少し驚いたように目を開いて言った。
「美術じゃないの?美術部なのに?」
 自分でも不思議だったが、美術よりも音楽が好きだった。理由を付けるとしたら、あれだ。
「美術の先生が好きじゃない」
 木村先生、ごめん。心の内で謝った、
 早川たすくは目を細めて笑い、私にこう聞いてきた。
「じゃあ、好きな先生は?」
「さーちゃん」
 さーちゃんとは、数学の坂本先生のことだ。おしゃれな女の先生。
 こうやって話しているうちに、少しだけ打ち解けた。会話のテンポも良い。誰もいない校舎に私達の声が反響する。
「好きな食べ物は?俺、ラーメン」
 似合ってるな、と思った。早川たすくはラーメンが似合う。
「メロンパン。ラーメンも好きだよ」
「やっぱみそラーメンだろ。みそバター最高」
 みそバターって何だろう?
「私はとんこつ派だな。こってり系が好き」
 私がそう言い終えると同時に、下校のチャイムが鳴った。校舎に残ってる人は他にいるのだろうか。おそらく誰もいないであろう校舎に、チャイムは妙に大きく響いた。二人で同時に時計を見る。
 五時十五分。完全下校まであと十五分。
「やばい」
 校舎が閉まる。急いで帰らなければ。そう思ってがたがたと帰りの仕度をし始めたら、早川たすくがこう言った。
「もう一つだけ、聞いていい?」
「なに?早くしてね」
 早くして、と言ったのに、彼はすぐには言わずに少し黙った。もう帰らなきゃならないのに。
 沈黙の後、彼は私にこう言った。
「『まあさ』って、どう書くの?」
 なんだそんなことか、と思った。
「真実の麻。それで『真麻』だよ」
 じゃあ『たすく』ってどう書くの、と聞こうとした瞬間にまたチャイムが鳴った。あと十分。聞くのは止めた。急がないと。
 そのときふと気が付いた。手を止めた。
「馬鹿みたい」
「え?」
「明日卒業式なのに、今更こんな自己紹介みたいなことして、馬鹿みたい」
 この一年間、一体なにをしてきたんだろう?ひたすら勉強だけしてきた訳じゃあるまいし。一年間一緒にいたクラスメイトのことも知らなかったなんて、本当に、
「馬鹿みたい……」
 呟きは夕闇に吸い込まれて消えた。
 卒業したら、もうきっと会わないだろう。明日でお別れだと分かっていて、自己紹介。これほど無駄なことはない。

 そう思ったとおり、卒業してから早川たすくには一度も会っていない。

 これは七年前の話だ。私はもうすぐ大学を卒業する。七年も前の事だけれど、このことを私は今でもときどき思い出す。もしかしたら、あの短い間に早川たすくのことを好きになってしまったのかもしれない。
 もし彼に会えたら、あの日聞けなかったことを聞こうと思う。
「『たすく』って、どう書くの?」




あとがき

 『祐』と書いて『たすく』と読みます。助ける、という意味です。
 たすく君はどこにもいなくてどこにでもいます。今、この瞬間も、たすく君は誰かを助けています。



 推理小説を書いていて、収集がつかなくなって、〆切三日前にこの話を書き始めたことは秘密ですよ。