ばく【獏・貘】@ウマ目バク科の哺乳類の総称。 A中国で想像上の動物。形は熊に、鼻は象に、目は犀に、尾は牛に、足は虎に似、毛は黒白の斑で、頭が小さく、人の悪夢を食うと伝え、その皮を敷いて寝ると邪気を避けるという。 【広辞苑】より抜粋 駅前をぼんやりと歩いている少年がいた。小雨が降っていて、傘を差す人、気にも留めずに歩いている人など、駅前にはさまざまな人がいた。少年は傘を差さず、ただただぼんやりと歩いていた。彼の着ている制服は水をはじいて肩に小さな水滴を幾つもつくっていた。髪の先から水滴が落ちた。 少年は商店街の方へと向かっていった。この辺の商店街はどうにも客が来ないらしく、シャッターが閉まった店が多かった。もちろん、人はいなかった。 少年は一人足音を高く響かせながら歩いていた。ただ、少し猫背でポケットに手を突っ込んだその姿からは、何か明瞭な目的を持って歩いている風にはちっとも見えなかった。 「もし」 と、不意に声がした。女の小さな声である。 少年は立ち止まり、声がした方を見た。 そこには、シャッターの閉まった店の前、テーブルと椅子を出して座っている、白い無地の服の上から黒い上着を羽織った女がいた。年齢は分からない。奇妙な顔である。決して不細工ではなく、寧ろ整った顔立ち、だがどこかおかしかった。小さく真っ黒な目は少し離れていて、唇は薄く、眉も薄かった。存在も、空間に溶け込んで消えてゆきそうな感じがした。鼻はすっとした奇麗な鼻だった。 「少し私の話を聞いていきません?」 そう、彼女は言った。女の前にあるテーブルには、『占い 一回1,000円』という紙が貼ってあった。字は活字ではなく手書きの文字だった。 少年はその紙をちらと見て、断ろうとして口を開いた。だが、 「代金はいらないのよ。私があなたを占いたいだけなの」 胡散臭いな、と少年は思ったが、彼女の黒い瞳はじっと少年を見ていた。少年は、なにか魔法にでも掛かったように彼女のその瞳から目を逸らせなくなっていた。 「さぁ、そこの椅子に座って。私の目を見ていて」 「はい、お願いします」 少年は言われたとおり椅子に座った。どこにでもあるパイプ椅子である。 「お名前は?」 「……佐藤 勇人」 「嘘吐いちゃダメよ。あなたの本当のお名前は?」 女は笑ってそう言った。不快な感じはしない、飴玉をコロコロと転がしたような笑い方だった。 そう、少年は嘘を吐いたのである。初対面の怪しい人に名を教えたくなかったのだ。 「相沢 一樹」 「あいざわ いつき君。そう、ありがとう」 そう言って女は紙に名を書き込んだ。漢字でどう書くか少年は言わなかったのに、紙にはしっかりと『相沢 一樹』と刻まれていた。 「一樹君、将来の夢はあるかしら?」 女は少年にそう聞いた。 「君は高校生でしょう? 夢に向かって頑張っているかしら?」 少年は近隣の高校の制服を着ていた。少年はこくりと頷き、こう話し始めた。 「あの、俺は医者になるつもりです。でも、最近勉強とか難しくて……」 うんうん、と女は頷き、こう言った。 「医者かぁ。えらいのね。どうして医者になろうとしてるの?」 これを聞いた少年の顔が暗くなり、彼は俯いた。 「家が病院なので、両親に継ぎなさい、と……」 「あら……そうなの。でも、頑張ってきたのね? えらいじゃないの」 いえ、と少年は軽く首を振って言った。やはり表情は硬く暗いままだった。女はそんな少年をじっと見つめていた。悲しそうにじっと見つめていた。 さわさわと静かに雨が降っていた。どこかで車が水を撥ね飛ばしながら走り去った。 やがて、ゆっくりと女が口を開いた。 「何かなりたいものがあるの?」 「え……」 「医者になれと言ったのは両親なのでしょう? あなた自身の本当になりたいものはなあに?」 「……」 少年は黙り込んでまた俯いてしまった。今まで『医者になれ』とばかり言われてきて、自分の意思で選ぶということを忘れてしまったのだ。既に彼は誰かに何かを言われなければ行動しないようになってしまっていたのである。 そんな少年の様子に気付いた女はこう言った。 「質問を変えましょうね。あなたの趣味は? 好きなものは何かしら?」 少年はしばらく黙って考えていたが、不意にこう言った。 「建築士に……」 「え?」 「一級建築士の資格をとって、家を創りたい…」 それは小さな声であったが、少年の心からの叫びであった。自らの道を選んだのである。 「小さい頃から、家とか建物とか好きだったから……」 そうなの、と女は優しく言った口元に微笑を浮かべていた。 「でも、医者はどうするの? 両親の思いは? 一体彼らの希望は何処へ行ってしまうのかしら?」 女は口元に笑みを浮かべたままさらさらとそう言った。彼女の目は笑っていなかった。 「……でも、俺は建築士に」 「そうね。そうよね。医者はやめるのよね。誰かの敷いたレールの上を走っちゃダメよ。あなたのしたいようにしなさい。誰かの決めた悪い夢なんて、捨ててしまいなさいな!」 女は少年に向かってそういった。少年の顔が綻んだ。 「……そうですね、頑張ってみます。親にも、話してみます」 そう言って少年は立ち上がり、軽く女に礼をして去っていった。女は少年に軽く手を振った。少年は、ここへ来たときよりも幾分かしっかりした足取りで帰っていった。 そして、そんな少年の背中を見て女はこう呟いた。 「あなたの『悪い夢』、頂きました……」 女はぺろりと薄い唇を舐めた。 終 |