今日こそ、と思った。今日こそここから抜け出すんだ。屋上から飛び降りよう。
 私、黒沢真弓は自殺を考えていた。別にいじめられている訳でも、嫌なことがあった訳でもない。ならば何故?
 多分、この世界に飽きたんだろうな、と思った。ただ学校に通い、授業を受け、友達と二言三言挨拶を交わし、そして帰る。何の変哲もない日常。
 そして、飛び降りたら何か変わるのかな、と思った。私は死んでしまうけれど、平和ボケしたこの学校は大騒ぎになるんだろう。少しだけ、世界が変わる。
 屋上から雲を眺めた。屋上も、雲も好きだ。特に、夏の入道雲。見ているだけで胸の奥がぞわっとなって、ふわっとなって、妙にぼんやりして、それが好きだった。
 そんな大好きな屋上から、飛び降りようと思った。天気は快晴。風邪も柔らかくて気持ちいい。こんな日に死ねるなんて、すごく幸せ。
 ポケットの中には、ヘアピンが一本入っている。これでフェンスのドアを開ける。そしたら空はすぐそこだ。
 ポケットからヘアピンを取り出して、鈍く光っている南京錠の鍵穴にそっと差し込んだ。ピッキングの方法はネットで調べた。何て便利な世の中。
 カチ、と音がした。でも、軽い音だった。一応確かめたけれど、まだ鍵は開いていなかった。はぁ、と溜息を吐いた。もう一度。
 今度は、カチャッ、と心地良い音がした。開いた、と思った。確かに鍵は開いていた、けれど。そのときだった。
「……あれ、何してんの?」
 背後から声がした。そんな、ここまで来て、そんな。人が来てしまうなんて。
 それは男子の声だった。振り返って見てみると、知らない人が立っていた。もちろん、私の学校の制服を着ていたけれど。
「……別に、何も? あなたは誰?」
 そう、聞いてみた。早くどっか行ってほしい。
「うーん、えーと……しゅんや?」
「何で疑問系なの。というか、一人で何しに来たの?」
 しゅんや、と名乗った目の前のこいつはへらへらと笑った。何が可笑しいのやら。
「いや、俺、屋上が好きでさー……なんとなく?」
「……ふーん。そうですか」
「うわ、素っ気無いな!」
 関係ないでしょ、と答えようとして、やめた。こんな馬鹿そうな奴も、私と同じ様に屋上が好きだなんて。最悪。
「で、あんたは? 名前」
 そう聞かれた。こんな奴に教えたくない。けど、流石に答えないのは人としてどうかと思ったので、答えることにした。でも、名前だけ。苗字は教えない。だって、『しゅんや』も名前しか言わなかったから。
「まゆみ。これでいい? 私、教室に帰る」
「え、帰んの? つーか、まだ最初の質問に答えて貰ってないんだけど?」
「……『最初の質問』?」
 何言ってんだ、こいつ。と思って、少し考えてみた。最初の質問? 最初こいつは、私になんて言ったっけ?

『あれ、何してんの?』

 そうだ。多分これだ。……が、この質問には素直になんて答えられない。なんせ答えは『自殺しようとしてた』だもの。そうでなければ、『ピッキング』かな。
 いや、どうせなら素直に答えてみよう。こいつは驚くか? それとも、私のことをイカれてると思うかな?
「……自殺しようとしてた」
「……はぁ? えっ、何? 何で?」
 一瞬、妙な間があった。間抜けな顔。しかも、この様子じゃ信じてるっぽい。本当、馬鹿だ。こいつは。
 何か笑えてきた。変な顔。
 自殺志願者でも笑うんだな、と思った。
「……冗談よ。なに信じてんの?」
 今までへらへらと笑っていた『しゅんや』の顔が急に引き締まった。馬鹿な顔じゃない、真面目な顔になっていた。そして、私の顔をじっと見ていた。
 何、こいつ。
 やっぱ帰ろう。こんな奴の相手したのは間違いだった。さっさと帰ろう。自殺は明日にしよう。『しゅんや』が来ない、早くの内に。
 そうして私は踵を返し、階段室のドアへと向かった。
「……なぁ、おい! 帰んの?」
 後ろから声がした。私は振り返らない、立ち止まらない。少しの間、静寂が訪れた。聞こえているのは、私の足音だけ。そして、ドアノブに触れた。ひんやりと心地良い。そのままぎゅっと握り、ゆっくりと回した。
「明日も来いよ!」
 はっとして振り向いた。妙に響く声だった。しかし、後ろ手に閉めたドアの硝子に光が反射して、『しゅんや』の顔は見えなかった。ガチャン、とドアが完全に閉まった。

     ◇

 また屋上に来た。やっぱり、屋上は好き。ただし、一人だったり、知り合いがいない場合のみ。
「よぉ、まゆみ! 来たんだな。もしかして、お前毎日来るつもり?」
 前言撤回。知り合いはいてもいい。ただし、『しゅんや』以外なら。こいつさえいなければ、それでいいような気がする。
「……あんたが来いって言ったんじゃん」
「あ、あれ聞こえてた? 良かったー! ふぅ……聞こえてなかったかなーとか思ったんだよ。で、お前が来ないと俺は多分屋上で独りぼっちだった! うわ寂しい! とか思ってたらお前が来たんだよなー……。あー、本当に良かった」
 うざっ。台詞長っ。やっぱ来なきゃ良かった。
「帰るわ」
「え、もう帰んの? 今来たばっかじゃん。ちょっ、もうちょっといてよ!」
「……はぁ」
「溜息で返事するな! 一番傷つくから! うん、心が痛いよ!」
 勝手に一人でベラベラ喋って、一人で大騒ぎして、幸せそうな奴。こういう人は、自殺なんて考えたこと無いんだろうな、って思った。とっても綺麗な笑顔。憎い程。
「まゆみ、今日の授業どうだった?」
 昨日会ったばかりで『まゆみ』なんて、馴れ馴れしい。でも、あまりに楽しそうに笑いながら話しかけてきたから、無視することは出来なかった。
「別に……数学が難しかったけど、いつも通り」
「数学、苦手? へぇー……国語とかの方が苦手じゃねぇの?」
「国語は捨てたの」
「……うわぁー……」
 遠い目で見られた。いいじゃない、何だって。苦手なものは苦手なの。
「俺、国語は結構得意だぜ? 教えてやろっか?」
 上から目線。うーん、ムカつく。こいつはそんなこと、気にしてないんだろうな……
「明日、教科書とノートと筆記用具持って来いよ。俺が教えるからさ」
 俺に教われば大丈夫! と言ってるこいつは何なんだろう。
 まぁ、誰かに教わるのもいいかな、なんて思ったのは気のせいだということにして。

     ◇

 それから私は『しゅんや』から勉強を教わるようになった。『しゅんや』は国語が本当に得意だった。理科も得意、というより好きなようだ。教科書を読み耽っていた。
 まぁ、そんなこんなで私の成績は上がった。授業も苦ではない。『しゅんや』は予習も手伝ってくれる。
 いつか、お礼を言わなきゃ。そう思った。
 そういえば、もうすぐ夏休みだ。入道雲が綺麗で、太陽が眩しくて、私は静かに目を瞑った。

     ◇

「今までありがとう」
 そう、言った。明日は終業式、明後日から夏休み。屋上は強く日差しが照りつけ、白に近いグレーの床に日光が反射し、それでも風が吹いていて爽やかだった。
「おぅ。成績、上がったんだろ? 良かったじゃん」
 相変わらずお気楽そうな『しゅんや』はそう言って、白い歯を見せた。そう、彼の歯は綺麗だ。
「ねぇ、一つ聞いていい?」
 私は一つ、ずっと気になっていたことがある。そのきっかけは、お喋りなクラスメートの何気ない一言だったのだが。
「しゅんや、何組?」
 しん、となった。『しゅんや』は何も言わなかった。ただ私達の間を風が吹き抜けて、『しゅんや』の顔からは表情が消えた。
「どうして、答えないの?」
「……もしかして、気付いてる?」
「…………何が?」
 とぼけてみせた。でも、空気はぴん、と張り詰めていた。暑い日差しが、私達の頭上から降り注ぐ。しばらくして、『しゅんや』がはぁ、と息をついた。
「とぼけんな」
「っ! ……何、よ」
 ビリビリと空気が震えた、と思った。こんなのは初めてだ。『しゅんや』の目が怖い、なんて。
「気付いてんだろ」
 怖い。怖い。……怖い怖い怖い!
「……うん。気付いてる」
 声が震えた。だって、純粋に目が怖い。でも、言わなくちゃ。
「あんたが幽霊だって、私、知ってる」
 空気が緩んだ。溜息を吐いた。言ってしまった、と思った。もう元には戻れない。
「最初は知らなかったよな、俺が幽霊だって。お前、あんまり友達いないだろ」
「失礼ね。……確かに知らなかった。屋上の幽霊は有名なんだってね。全然知らなかった。そんな話、しないもの」
「友達いないから?」
「うるさいっ!」
ふ、あはは。『しゅんや』が笑った。あぁ、もう怖くない。いつもの『しゅんや』。
「で? 何で気付いた?」
「クラスの子が話してるのが、偶然聞こえたの。で、詳しく聞いてみたら……」
「ビンゴ、って訳か。気付くの遅っ」
「……うるさい」
「拗ねてんの?」
「うるさいってばぁ!」
 くすくす、と笑った。私達は、友達なのか。生きていようと死んでいようと、友達になれたのか。それはそれでいいと思った。そして、もうこいつには会わないだろう、とも思った。私はもう自殺なんて考えない。そんなもの、必要無い。あぁ、最後に一つだけ、聞いておこうかな。
「ねぇ、なんで私に話しかけてきたの? なんで勉強教えてくれたの?」
「……俺、幽霊じゃん」
「うん。それが、何?」
「いや、俺さ、昔ここから飛び降りたんだ。自殺だよ」
 驚かなかった。だって、屋上にいるんだもの。そんな幽霊、ここで死んだかよっぽど屋上が好きな馬鹿か、どっちかしかいない。
「で、俺なんでか幽霊になっちゃって。……もっと勉強したかったのかな」
「え、勉強?」
「俺が飛び降りたのは、その……えーと、いじめ、だから」
「……あ、そう」
 意外だった。いや、他に何かあると思っていた訳じゃないけど、いじめられてた風には見えなかった。
「そんで、俺が屋上にいるって噂が広まっちゃって。人、来なくなっちゃって」
「うん、そうだね。いつも人があんまり……というか全然いない」
「そしたらまゆみが来た」
「うん」
「嬉しかった、けど……」
そこまで、言って『しゅんや』は一瞬、ものすごく悲しそうな顔をした。
泣きそうな顔。情けない。
「自殺のために来たって気付いて、自分と重ねちゃって……」
 ああ、そうか。こいつ、もう誰かに自殺してほしくなかったんだ。意外とやさしいのか。いや、ものすごく優しいんだろうな。
「そんでさ、自殺止めようって思って、思わず話しかけちゃって……」
「で、勉強? 勉強したかったから?」
「うん。教えるついでに、教科書の先のページ読んだりして、勉強できた」
 そうか。これでもう聞くことは無い。
「じゃあね、しゅんや」
「うん、バイバイ」
「私、もうここには来ない」
「……うん」
「元気に、天国行きなさいよ。勉強できたでしょ?成仏しなさいよ」
「うん」
「じゃあね、……さよなら!」
 最後は声が震えた。涙が零れそうだった。
 でも、泣かない。『しゅんや』のおかげで強くなれたから。
 それでも、我慢できなくなって、私は走った。階段室までの僅かな距離を、全力で走り抜けた。夏の風と一緒に走った。スカートが翻って、こんがりと日焼けした太腿がむき出しになった。それでも構わなかった。これで、涙が風と一緒に消えるから。
 最後、屋上から出て行くときに、一瞬だけ振り返ってみた。
 キラキラと、細かい何かが光って、空に昇っていった、気がした。






お終い



2010年 文藝部誌 MINERVALIGHT掲載