「……え……。レイムさんが風邪を?」
その日。
通い慣れた執務室を訪れると、本来座っている筈のレイムの姿は何処にも見当たらなかった。
代わりに、引き継ぎのための書類を探しているレイムの部下が居るだけである。
「ええ、そうなんですよ……。珍しい事も有るもんだって、みんなで言ってたんです」
「そうですカ……」
ありがとうございマスと礼を述べて、ブレイクは執務室のドアを閉めた。
廊下の窓から見える景色は数日前から見事なまでの銀世界。
この冬一番の寒さを更新し続けていた気温は、この雪で一段と厳しい物になった。
ツイてない。
廊下を進む歩調が心無し遅くなる。
今日は珍しく仕事をするのも悪くないと言う気分だったから、それならとレイムを手伝いに来たのに
……。
ああ、そうか。
自分が慣れない事をしようとしたものだから、体調管理にうるさい筈のあのレイムが風邪なんか引いてしまったのか。
とは言えレイムだって人間なのだ。胃腸を壊すのは日常茶飯事だから、風邪を引く事だって有るかもしれない……が。
「どうせアホ公爵が、何か無理難題を押し付けて寒い中をコキ使ったに決まってマス。でなければ、あのレイムさんが体調を崩すわけが無いんですカラ」
先程までの仕事をする気はすっかりと消え失せてしまい、今はもうレイムの見舞いに行く事しか考え
ていなかった。
さっさと本部内の自室に戻って制服を着替え、いつも通り堂々とサボりに出掛ける。
手土産を何にするか思案しながら何件かの店先を覘いている内に、数日程前だったかにレイムが久しぶりに食べたいと漏らしていた洋菓子が有った事を思い出す。
自分も一緒に食べる事を考えて、マルコリーニのチョコレートセレクションはどうかと思案してみた。
一口大のモールドチョコレートが34個の詰め合わせにされた物で、甘すぎない適度な苦みを保っている。
その甘味と苦味の絶妙なバランスがレイムの好みである事は、よく一緒に紅茶を飲んでいるだけあって、ブレイクが一番よく知っていた。
チョイスに問題は無いだろう。
雪の通りで馬車を拾い、御者にバルマ公爵邸までと告げれば、後はもう一切の説明は要らない。
程良く温められた車内の空気にホッと安堵の息を漏らすと、ふわりとしたシートに深く腰を降ろして静かに足を組んだ。
多少の体調不良なら這ってでも出勤して来るようなレイム。
そんな彼が仕事を休んでしまうなんて、一体どれ程までに体調を崩してしまったのか心配にならないわけが無い。
ここの所ずっと寒さが厳しいが、昨日までは特に変わった様子は無かったと記憶している。
昼間に少し外出したと言っていたが具合は全く悪く無かった。
仕事帰りの自分の恰好があまりに寒そうだからと着ているコートを貸してはくれたが、予備が自室に置いてあるのだと言っていた。
「コートの予備ですか。さすが寒がりで準備に手落ちが無い君なだけの事は有りますネェ」と礼を言うべき所でからかって叱られたから、よく覚えている。
考えれば考える程、バルマ公の所為に思えて仕方ない。
「大ッ体、あの人はレイムさんに甘え過ぎなんですよっ。レイムさんに甘えて良いのは…………」
このワタシだけ……と言う言葉を言い掛けてから飲み込んで、ブレイクはハァと溜め息を吐いた。
「嫉妬なんて……見っとも無さ過ぎデス…………」
目をやった小窓の外に広がる視界に再び白い物がチラつき始めているのに気付いて、ブレイクは二重の溜め息を吐いた。