オレが思っていた恐怖とは、本物ではなかったんだと思う。
まるで、それまでの全てを簡単に削ぎ落としてしまうくらい、本当に恐ろしい物なんだ。
それを今日、生まれて初めて理解した。
痛切に胸に刻まれた恐怖。
愛する人を…失うという恐怖。
「アカギさん…」
隣で恋人だった男の友達が心配そうにこちらの名を呼んでくる。
そんな声を掛けられたところで、元気を取り戻せるわけでも、この涙が止まるわけでも、事実を受け入れられるわけでもない。
亡骸に縋り付いて、珍しく号泣する自分を第三者視点で見てみる。
あまりにも滑稽な姿だった。
神域の男、ピカロなどと呼ばれるオレが、ここまで狂ったように泣き叫んでいるのは、きっと周りから見るとそう見えるだろう。
「カイジさっ…カイっ…ああぁぁああぁぁっ!」
検視結果はあまりにも簡単で、唐突な事実を語った。
心拍停止、いわばショック死だそうだ。
いつも通り、ギャンブルに出掛けた彼を見送ってから、数時間しか経っていない。
いつも通り、勝っても負けても帰ってくるはずだった彼は、もうこの世にはいない。
全てだった。
生きる意味と存在する理由、オレの全てが彼、伊藤カイジのためだった。
それが今、全て消えた。
生きる理由が、無くなった。
周りには、彼にゆかりのある人たちが、眠るように横たわっているその姿に涙している。
彼等の涙と、オレの涙では意味が違いすぎる。
潤されていた心が、この時から全て枯れていくようだ。
「アカギ…気持ちは察する…本当に残念だな」
そう言って、肩に手を置いてくる南郷さんを、オレは見向きもせず泣き続ける。
このオレの何を察することが出来るというんだ。
その言葉が、白痴だった。
余計に涙が止まらない。
何故…何故オレを置いて逝った。
戻ってきて。
さよならなんて、言わせない。
言わない、別れなんて知らない。
アンタはオレを…裏切らないでしょう?
「カイジさんは幸せでしょうね」
向かいに立つ零が、ポロリとそう零した。
「こんなに沢山の人に、悲しんでもらえているんですから…」
本当に悲しむという意味を、お前らは知らない。
オレだけが、それを知っている。
軽々しい、偽善。
「葬式の手筈は私が整えましょう…」
一条がそう告げて携帯を取り出そうとしている。
「…いらない」
しゃくり上げながら言ったオレの言葉に、周りは大層目を丸くしただろう。
見てはいないが、沈黙がそれを語っていた。
「葬式なんかしなくていい…だってまだ、生きてる…眠っているだけ…ほら、カイジさんは…」
「アカギさん、受け入れられないのは分かります、でもカイジさんが亡くなったのは事実です…それは変えられません」
涯がきっちりと言い放ってくる。
分かってる、そんな事は分かってる。
信じたかっただけ、彼が死んでなどいないと、思い込みたかっただけ。
声が、笑顔が、体温が、存在が、もう一度欲しくて堪らない。
「…お前さんの心の整理が付いたら、弔ってやればいいさ…きっとコイツもそれを望んでいるだろうよ」
至妙な面持ちで言った平井銀次が出口へ歩を進め始めると、それに続くかのように次々と室内から人が消えていく。
最後に残ったのは、オレだけだった。
「…カイジ、さんっ………やだ…言って…裏切らないと…」
笑ってよ、カイジさん…もう一度だけでいいから。
その後、オレの意向で葬式はせず、彼の亡骸は海外の方式で棺桶の中に原形を留めたまま入れられ、埋められた。
どうしても、消させたくなかった。
残しておきたかったから…許して、カイジさん。
悲しみに明け暮れた数週間の後、相も変わらず代打ちとしての日々を過ごしていた。
だが、周りが言うにあの日以降から打ち筋が変わり、キレが無くなったという。
それだけ、彼の存在がオレにとってとても大きかったと言う事だ。
死んだような濁った瞳は、一体何を見ているのかと問われたこともある。
わざわざ答える必要なんて、ありはしない。
オレが見ているものなんて、一つしかないのだから。
それから更に時は刻まれていった。
月日が流れるのは早いもので、三年が経っていた。
彼を失って、もうそんなに経つんだな。
今日も命日にタバコとビールを持って、オレは彼の眠る墓にやってきた。
「カイジさん…」
言葉が、出てこない。
どうしようもなく寂しくなると、命日でもない日にたびたび足を向けやってくるが、そんな時でも言葉が続かなかった。
何を言っても、彼には届いていないと分かっているからか…いや、そうじゃない。
何を言ったところで、彼が戻ってくるわけではないと分かっているからだった。
彼の墓には、やはり沢山の花や線香、同じような考えをしているビールやタバコなどが所狭しと置かれている。
だが、いつも配慮されているかのように、墓石下だけ何も置かれていない。
そこにビールとタバコを置いて、見上げた。
伊藤カイジと掘られた墓石が、嫌でも目に付いて胸が痛む。
三年も経っているというのに、だ。
「………会いたい、寂しいよ…アンタが居なくて…つらい…」
久しぶりに続いた言葉は、全て泣き言。
自分がこんなに弱いとは思っておらず、どうすればいいか分からない。
泣けばいいのか、笑えばいいのか…忘れればいいのか。
立ち上がって、墓石を一撫でしてから立ち去った。
出来やしない、最後の選択は、在り得ない。
三年経った今でも、それは確実に言えることだった。
三年経っても胸が痛むのだから、そう言う事だ。
彼と住んでいた家で、今もまだ暮らしている。
拭えない、彼との思い出がこびり付いた物は全て、そのままにしておいてある。
いつも用意する食事は一人分、洗濯するのも一人分、タバコの吸殻さえも一人分。
それがつらい、しかしここを出て行くという選択はない。
まっすぐ見ているつもりで、しかし何処かずらして見ている気もして。
受け入れているはずが、未だに受け入れていないのだとたまに思う。
恋しくて、恋しくて堪らない。
だが、神と言う奴はまだ、オレを見放したわけではなかったらしい。
不意に、玄関の呼び鈴が鳴った。
眺めていた写真立てを棚の上に戻し、ゆっくりと玄関へ向かって来訪者を迎える。
「どうも、お元気そうっすね」
佐原が立っていた。
「…どうも、何か用?」
つっけんどんな所は変わらないっすね、と笑う佐原に返しもせず、ただ答えを待った。
「今時間あります?そしたら付いてきて貰えません?見せたいモノがあるんですけど」
ニコニコと弾んだ声で言われても、こっちは見たいものなど無い。
「…何を?」
「内緒ですよ」
「なんのつもり…」
「友として…ですかね」
「へぇ…」
元気を出して貰おうと計らっているつもりなのだろうが、もう何も見ることが出来ない今では、何を見ても何も感じることは無いだろう。
しかし、気紛れで付いていってやることにした。
期待はしていない。
ただ、何を見せようとしているのかだけ、気になった。
それを確かめたかっただけだった。
言われたとおり、佐原の後に付いていく。
進む道は、あの日号泣していた病院に続いているように思う。
思い出すだけで、胸が苦しくなってくる。
近付きたくない、あの場所に。
だが、辿り着いたのは予想通りあの病院だった。
「…こんな所に、今更何があるって言うんだ」
「まぁまぁ、とにかく付いて来てくださいよ」
ここまで来たんだから、と笑う佐原に溜息をついて戸を潜った。
そして行き着いた先は、検視室。
フラッシュバックする記憶は、白い白い、カイジさんの姿。
無意識に眉が歪んだ。
「きっと、喜んでくれると思うんですよね…さぁ、どうぞ」
そう言ってドアノブに手を掛けた佐原が、ゆっくりとその扉を開いていく。
何を喜べると言うのか、分からない。
オレが彼の死を受け入れなければならなかった場所だというのに。
だが…曇っていた顔が、徐々に晴れていくのが自分でも良く分かった。
そこには、言葉では表しきれない感動と興奮があったからだ。
「あ、アカギさんお久しぶりです」
そう言ってニッコリ笑っている零がいる。
「来てくれるかどうか、こんな場所ですから微妙でしたけど、良かった」
そう言って涯も微笑を向けてくる。
「驚いたろう?あなたもそうでしょうが、私もですよ」
晴れやかな笑顔で言う、一条もいる。
「全く…手段もクソもねぇが、喜ばしい成功だろ、そう思わねぇか?」
「こんなに早く上手く行くとは予想してませんでした、どうですか?」
銀次と森田も、こちらの様子を伺いつつ問い掛けてくる。
「………っ」
徐々に笑顔が浮かぶ。
彼等の立っている中心には、見覚えのある猫背の背中が立っていた。
信じられなかった。
あの日、ここで死んだはずの彼が…戻ってきたなんて。
「来ましたよ、カイジさん」
佐原がそう声を掛けると、背中はゆっくりとこちらへ振り返る。
そして…。
「…カイジ、さん…っ!」
黒い長髪も、頬の傷も、目つきの悪ささえもそのままで、彼も驚いたようにこちらを見ている。
「…アカ、ギ…?」
名を、呼んでくれた。
それだけで、満たされていく。
枯れたはずの心が、再び潤っていく。
無意識に早足で近付き、その頬に触れて確かめた。
確かにいる、ここに彼がいる。
嬉しくて…触れた肌が冷たい事もその色が鮮やかでない事も、その時は気付かなかった。
「カイジさん…カイジさん…っ!」
涙ながらに微笑みかけながら身を寄せると、彼も笑みを返してくれる。
戻ってきた、彼が戻ってきた。
が、彼の胸に頭を預けた時に、やっと気付く。
心臓の音が、聞こえないことに。
疑問の色が拭えないまま、もう一度彼の顔を見上げてみる。
微笑んでいる彼の顔は、こけてはいないものの…肌が青白く、唇も青紫がかっていた。
「…どうして…」
「それは、後でお話しますよ」
困ったような笑みを浮かべた零が、透かさず口を挟んできた。
何か理由がありそうだった。
とても、厄介な理由が。
その後、室内に彼と数名を残してオレは零と部屋を出た。
「…説明して、カイジさんのこと」
嬉しさは勿論ある。
あれほど戻らないと思っていた彼の存在が、こうして戻ってきたことに感動が無いわけじゃない。
しかし、異様と言えば異様な光景だ。
死んだはずの人間が、鼓動も無しに行動しているのだから。
「…現在の発展している科学と技術を駆使できるだけ駆使して、蘇らせたんです」
「どうやって…?」
「まず、死んだ脳を蘇らせる方法を探しました…彼の死は心拍停止、脳に打撃が無かった以上は、行動に関する様々な伝達機能は生かせるはずだと思って…」
それからは、流石は高IQの脳を持つ零だと思わせられる話が続いた。
海外の医療資料にアクセスしてクローン技術や不死研究資料、細菌兵器の研究やワクチン生成などの資料を漁りに漁って、どうにか見つけ出したのがこの結果だというのだ。
日本ではそういった研究は了承されていないため、あまりにも資料が少なくあまり役に立つ情報は無かったらしい。
人間は全てを脳で感じて、脳の命令で動いている。
その理論で考え、抜擢されたのがクローンと細菌兵器技術だが、クローンは成長させるのに時間が掛かるといった理由から、後者の方法で手を尽くしてみることにしたらしい。
勿論、成功するかどうかは他の動物やなんかの死体で試し、何度も結果を重ねて信頼が高まり成功基準に達したその時に、彼の脳に機能を活発化させる細菌を注入したと言う。
その結果、ああして彼は再び立ち上がることに成功はしたが、勿論記憶と言うものは全て初期化されているため、皆が一から全て教えたらしい。
今までの経緯も、今の状況も、誰が誰でどんな関係かと言うことも全て。
そして準備が整った今日、オレを呼び出して彼に会わせたと言う事だった。
「…じゃあ、カイジさんであって…カイジさんじゃないって事も」
「そうですね…確かにそれは否めません、生前の記憶は全て消えてますから…全てを元に戻すのは、正直言って難しいんです」
「そう…まぁ、だろうね…」
「ええ…それから、体調管理のことですけど」
「体調管理…?」
「はい、ああいう状態ですから内臓器官全て停止状態です、勿論普通の食事は取れません…今まで色々食べてみてはもらったんですけど…食せるのは一つだけでした」
「なに?」
「…生肉です」
「生肉…?」
「ええ…何ゆえそれなのかは分かりませんけど、それなら食べれるみたいで…」
「そう…」
まるで、ゾンビだった。
死人を蘇らせる悪魔の技術、そのままだ。
だが、それでも良かった。
オレのために他の者たちが頑張ってくれたことも最もだが、彼が戻ってきてくれた事だけが、そのときのオレには嬉しかった。
何でもいい、彼がどういう状態であれ、傍にいて笑ってくれるなら、何でも良かった。
「分かった、注意事項は以上?」
「はい、今はそれくらいですね…ああ、あと」
「…?」
彼には一度死んでいるという事実は絶対に知られてはいけない。
零から続いた最後の忠告は、それだった。
その後オレは、彼を連れてあの家に帰ってきた。
戻ってきた、全てが元通りになった。
この家にオレがいて、カイジさんがいるあの頃の生活。
幸せだった。
何にも変えがたいこの時間を、もう一度過ごせる幸せは、もうこないと思っていたから。
とても、幸せだった。