「おはよう…伊藤さん」
「えっ?………」
朝、教室で、挨拶された…アカギに。
カイジは一瞬、何が起こったのか分からず、黙り込んで相手の顔を、じっと見てしまった。
何故そんなにも、驚く必要があるのか。
それは入学以来、彼とは一度も会話をした事が無かった為である。
1年は経っていないものの、かれこれ半年は過ぎているだろうか。
その間の記憶を辿ってみるが、それらしい切っ掛けという物がどうしても思い浮かばない。
いや、無いことはなかった…一点は掠る。
しかし、あの出来事が切っ掛けとは、どうしても思えない。
今まで無接触だった事に対し、あの事柄では今の挨拶に繋げるための事実が少なすぎる。
そこまで考えていたら、目の前に立つ彼が笑顔のままクイッと眉を上げた。
どうしたんです?とでも言われているようだ。
ハッと思い出したように、カイジは口を開いた。
「あぁ…お、おはよう…」
ククッと笑い、彼は横を掠めるように過ぎて、自分の席に向かったようだ。
その姿を目だけで追っていると、それまでは見えていなかった周りからの、痛いほどの鋭い視線が今更ひしひしと伝わってくる。
それもそのはず、アカギは学園一の美男子であり、優等生…所謂マドンナってヤツだ。
更にはクラスの中でも劣等生として有名な自分に、朝からにこやかに挨拶をするというのは、他の者からすれば前代未聞。
だからこその、恐ろしいほど突き刺さる視線の数々。
とにかく、アカギと親しくなることは、同時にクラス中の連中を…いや、学園中の連中を敵に回すことになる。
そんな覚悟、オレにはねぇよ!と内心で叫びながら、しかし同時に嬉しくてはしゃぎ出しそうでもあった。
冷たい視線をくぐり抜け、自分の席へと辿り着いて腰を落ち着けてから、あの時のことを考えてみる。
まだ記憶に新しい、昨日のことであった…。
カイジは部活にも入っておらず、ただの帰宅部。
そのため昨日も、なんら変わった事も無く帰宅していた所だった。
ほぼ家に着きかけたと言うとき、教室の机に明日提出期限のプリントを忘れた事を思い出したのだ。
「あぁぁ…ヤッベ…っ!」
思い出すなら明日の朝にして欲しかった物だが、自堕落とは言えどそう言う物は案外守ってしまう性分。
それ故に、溜め息を吐いて踵を返し学校へと戻っていったのだった。
とは言っても、そこまで距離がある訳でもない。
自転車通いのカイジは、学校までたったの20分。
いそいそと使い古しの自転車をこいで、校門をくぐり抜けた。
指定の場所に自転車を止め、校内へと入ろうとしたその時…校舎の裏からだろうか、人の声が聞こえてきたのだ。
しかも、結構な罵倒の数々…ここはあまり関与しない方が身のためだと自分に言い聞かせ、そのまま校舎に入ろうとしたがその足は止まった。
「おい治っ!テメェ普段からベタベタしすぎなんだよっ!」
「そうだ!幼馴染みだからって、許されるもんじゃねぇぞっ!」
「お前みたいなひ弱な奴を、アカギさんが気に入るとでも思ってんのかっ!」
治とは、普段からアカギと一緒にいるナヨナヨした男のことである。
彼も何かを言い返しているようだが、声が小さくて聞き取れない。
カイジは余りの下らなさに、深々と溜め息を吐いて校舎入り口から遠離った。
校舎を壁にして影から状況を見てみると、治は大層痛めつけられたようで、所々から血が滲んでいる。
(アイツ…今まで何度もこんなイジメが…?)
状況を見守りつつ、幼馴染みってのも結構な被害があるんだな、と思っていた。
実際の所は確かに、あのアカギと幼馴染みと言うのが、かなり羨ましいとは思っていた。
だがそんな事でアイツ等のような愚行を働く気にはならなかったし、むしろ誰もが皆、生まれ育ちを選べるわけではない。
幼い頃から一緒であるなら、尚更だ。
アカギが皆の注目の的になるなんて事は、知る由もないわけだから当然である。
それにも気付かないとは、アイツ等はただの馬鹿か、とカイジは深々と思ったのだった。
恐怖で完全に縮こまって、怯えている治の精神的状況から見ても、反撃なんてまず無理そうだ。
敵は三人だが、まぁ図体が細めのため、勝てないわけでも無いだろう。
しかし知ってしまった目の前の行いを、見過ごすことも出来ないカイジは、罰が悪そうに影から抜け出る。
「おい、もうその辺で止めてやれよ」
声を掛けると、治に寄って集っていた三人は一斉にカイジへ視線を移した。
「あぁ?…なんだよカイジ、やんのかテメェ!」
「クラス一の劣等生が良い子ぶってんじゃねぇぞ!」
「すっ込んでろクズ野郎がっ!」
クズに反応し、元々目つきの悪いカイジの目が更に鋭く光る。
「…クズか…そんなお前等も一緒だろうが…っ!」
「テメェと一緒にするんじゃねぇよ!」
「少なくとも、オレは嫉妬で人をいたぶったりはしねぇな」
「んだとテメェっ!」
「なんなら、オレと勝負でもするか?代償はそうだな…お前等の指で良いぜ」
そう言って左手を掲げて見せてやると、ビクリと身体を震わせた三人は、口々に文句を吐き捨てながらその場を去っていった。
カイジの左手には、四本の指の付け根に縫い合わせた後がある。
それを目にして三人は、異様な危険を感じたのだろう。
静かになったその場で溜め息を吐いて、治に振り返った。
「大丈夫か?…相当やられたみたいだな」
手を貸してやると、彼は申し訳なさそうに笑って立ち上がる。
「ありがとうございます、助かりました…えっと、確か同じクラスの」
「あぁ、伊藤カイジだ…治っていったよな、お前…いつもこんな目にあってんのか?」
「はい、そうです…でも大丈夫ですよ、昔からですから」
血まで滲ませて、一体なにが大丈夫なものか。
「…お前なぁ、少しはやり返せよ」
「む、無理ですよっ!出来るわけないじゃないですか…」
困惑した顔で言う治に対し、カイジは頭を掻きながら丁度持っていたポケットティッシュを差し出した。
「ほら、使えよ…こんなモンしか無くてワリィけど」
差し出されたそれを、治はおずおずと受け取る。
「ティッシュまで…色々ありがとうございます、伊藤さん」
「あぁ、カイジで良いよ…苗字呼びは先校だけで十分だ」
そう言ってやると、治はクスクスと笑った。
「なんか、すみません…俺、ずっと勘違いしてました…」
「…ん?なにが?」
両手で優しくティッシュを握る治に目をやると、俯いて笑みを浮かべながらまた小さく続きを話し出す。
「怖い人だとばかり…思ってました…」
あぁ…と声が漏れ、笑いながらカイジは答えた。
「そりゃ当然だろ、こんな傷だらけじゃあ怖がられるのも仕方ねぇ…自分でも分かってっから、別に謝らなくても良いって」
正直喧嘩も得意じゃない、とぶっちゃけると治は顔を上げて大層驚いた後で、さも愉快そうに笑う。
「ま、この傷もたまにはこうやって、役に立つってのは分かったよ…お前のお陰でな」
「そうですね、俺も付けようかな…傷」
そうすれば強きに行けますかね、と言い出した治にカイジはまた笑った。
「止めとけ止めとけ、怖がられるぞ?オレみたいに」
「俺はもう、怖くないですよ?」
「そりゃあ、お前はな?」
二人揃って吹き出して、少しの間腹を抱えて笑う。
それが収まる頃に、やっと学校へ戻ってきた理由を思い出した。
「おっと、忘れてた…手当ぐらいは出来るだろ?じゃぁオレは行くから…またな」
「…あ、なんか引き留めてしまって、すみません」
「良いって良いって…」
「あの…っ!」
「…ん?」
校舎入り口へ再び歩を進めようとしたところで、何やら治が真剣な顔で引き留めてくる。
振り向くと、少し俯き加減で何かを言おうとしている様子を察して、じっと待っていると次期に意を決したように話し出した。
「またっ…俺と話してくれますか…っ?」
その瞬間、カイジは噴き出して答えた。
「当たり前だろ?」
返答を聞いた治は、とても嬉しそうに笑っている。
「気を付けて帰れよ…じゃぁまたな、治」
「はい!カイジさん、また明日っ!」
治が大袈裟に手を振ってきたので、カイジはヒラヒラと振り返してやった。
素直な奴だな、と微笑ましく思いながら教室を目指す。
机の中に入っているプリントを鞄に突っ込み、再び自転車で家路を辿ったのが、昨日の放課後の出来事であった。
その中に、一切アカギは含まれていない。
含まれていたとすれば、名前だけ。
治が彼と幼馴染なのだから、もしかしたら手助けした事を話したのかもしれない。
だがそれでも、本人からは御礼の意を貰っているし、わざわざ昨日の今日で態度を改める必要もない。
(いや…待てよ?)
治が日々あんな目に遭っている事は、彼も勿論知っているはずだ。
だとすれば、こちらの様子を窺うため、警戒するためにこうして話し掛けてきたのかも知れない。
助けてやったと見せかけて、実はイジメの首謀者、なんて考えを持たれている可能性もある。
そりゃあクラス一、質の悪い劣等生だと言うレッテルが付いているカイジにとって、有り得なくもない話だ。
すると、教室にまた一人誰かが登校してきた。
彼はアカギを見付けるなり、サッと席へ近寄って笑顔で挨拶している。
「おはようございます、アカギさん」
「おはよう、治…傷はどう?」
「大丈夫です、ちゃんと手当てしましたから」
「そう…なら良かった」
カイジはそんな二人の会話を片耳で聞きつつ、一限目の用意をする。
治は一通りの会話を終えると、今度はカイジの席へと近寄って来て同じように礼儀正しく挨拶をしてきた。
「おはようございます、カイジさん」
「おぅ、おはよう治」
彼はにっこり頬笑むと、隣の自分の席へ着く。
カイジの右隣の席が、治の席で、更に二列ほど挟んだ所にアカギの席があるのだ。
隣で一限目の用意をする治から目を離して、カイジは考えることを止めた。
あまり深く考えなくても、いずれ答えは示されるだろうと思ったからだ。
深く詮索すればするほど、無駄な物も見えてきそうで怖かったと言うのもある。
アカギには未だ、色恋の噂が一つもない。
だからこそ、あの二人が付き合っていると言う事実まで、浮き彫りになってしまうんじゃないかと示唆した結果だった。
(幼馴染みなら…有り得るよな…)
一人有るかも分からない仮定に項垂れ、机に突っ伏そうとしたところで担任が教室へ入ってきて、ホームルームが始まる。
日直が日課をこなす姿を眺めつつ、小さな声でおはようござーすと皆に交じりながら言った。
「おぅ、おはようさん…もうすぐ文化祭だが、それに伴ってクラスで何をするか後日決める、それぞれ提案を考えておいてくれ…以上だ」
本当にこの担任は簡潔だ。
名は平井銀次。
生徒達の間では闇金絡みと言う噂が密かに囁かれており、しかも生徒指導部の顧問でもあるため、大層恐れられていた。
だがカイジにとって、さして気に止めるほどの者でもない。
一担任として見るだけで、別に恐れる必要など無く終わる筈だったが…。
「あぁ、それと伊藤」
「え?…あ、はい」
「一限目が終了し次第、校長室に来い」
「…っ!?」
その瞬間、クラス中がざわついた。
カイジ自身も、一切悪行の身に覚えがない。
成績だってギリギリではあるものの、赤点は免れているのだ。
なんで?と言う思考が拭えぬまま、担任は足早に教室から姿を消してしまった。
唖然と教卓を見つめたまま、真っ白な頭の中では文化祭の案など浮かぶ筈もない。
「あの…何かあったんですか?」
隣から治が心配そうな顔で問い掛けてくるが、それはこっちが聞きたいくらいだ。
「さぁな…見当も付かねぇ…」
ボリボリと頭を掻きながら答えていると、不意に治の向こう側から、此方へ目を向けるアカギの姿が目に入った。
気まずすぎる、校長室に呼ばれたなんて事実が。
変な疑心暗鬼があるにも関わらず、更にそんな事態に持ち込まれると、もうダメだ。
完全にアカギからも変な疑いを持たれていると言う、その思考から抜け出せない。
気落ちしたまま、一限目を告げるチャイムの鐘が鳴り響き、授業が始まった。
しかし、隣で治がオロオロしていることに気付く。
「…どうした?」
「あ…教科書を、忘れてしまって…」
俯いてノートだけ開いている治に、カイジは少し机を寄せた。
「ほら、見せてやるよ…オレは殆ど見ねぇし」
「すみません…ありがとうございます、カイジさん」
「おぅ…その代わりさ、後でノート写させてくんね?寝るわ」
クスッと笑って、治は小さく頷く。
「えぇ、良いですよ」
「サンキュー…」
机に突っ伏し、カイジは一限目が終わるまで爆睡していた。