帝愛への借金が嵩み、地価強制労働施設に送られてから6ヶ月後、カイジは見事借金からも解放され、改めてシャバでの暮らしが戻ってきた。
気持ちを入れ替えて働こうと、勤め先を絞って面接に行こうとしているのが今日である。
意気込んで支度をしながら、上京後一度も着た事が無かったグレーのスーツを着込み、ネクタイを鏡で調えると一つ頷いて部屋を出た。
久しぶりすぎて普通の暮らしも新鮮な気がして、これから頑張ろうと思えるカイジだった。
まぁ、そこで決まれば…だが。
時期バス停に到着し、予め調べておいた時刻のバスが来るまで待機する。
問題のバスは9時23分にやってくるが、今はまだ少し早めの15分。
すると静かに隣へ中高年くらいと見られる男性が並んだ。
会社に行くんだろうな、と思ったがチラリと男性を盗みると、何も持っていない。
むしろ、この時間に会社へ向かうのは圧倒的に遅刻じゃないか。
不思議に思ったが、変に声を掛けても仕方の無い話で、重役出勤かと勝手に結論付けたときだった。
白髪の男性が、不意にこちらへ振り向いたのだ。
向けられるその双眼は赤く、鋭い光が宿っている。
額と眉間のシワで、その顔がひどく恐ろしく見えた。
「…一本遅らせる方が、身のためだ」
「はっ?…」
不意に無表情で言われ、驚く前に意味が分からずそんな言葉が出た。
すると男性は前方に向き直り、その後は何も言わず互いに黙ってバスが来るのを待つ。
未だに首を傾げるカイジだが、一本遅らせるとなるとこっちも遅刻してしまうわけで、流石に大切な面接でそれは避けたいところだった。
しかし、カイジはここで自分の決断ではなく、彼の指し示した道を行くべきだったと、後で思い知らされることになる。
23分になり、時刻どおりにバスはやってきた。
何の躊躇も無く乗り込んだカイジだが、バス内の異様な光景に唖然とする。
乗客が自分以外に、誰一人として乗っていないのだ。
先ほどの男性は乗らないようで、停留所でただ佇んでいるが、ひたすらカイジに視線を向けてきている。
一つ、二つと重なっていく異様さに背筋が凍るような気がした。
バスに体だけではなく心まで揺らされながら、目的地へ到着するのを待つ。
駅前の停留所へは20分もあれば到着するはずだった。
しかし…突如起こる急ブレーキの強烈な音と衝撃。
カイジは一瞬にして、意識を手放してしまった…。
「…っ、あれ…?」
それからカイジが目を覚ました時には、見た事も無い場所に倒れていた。
時間もどれほど経ったのかは分からないが、辺りが真っ暗になっている事から夜なのだと分かる。
しかし見渡す限り事故ったはずのバスが見当たらず、事故処理されたのかとも考えたが、自分が放置されたままと言うのはかなりおかしい。
更には激しい雷雨にスーツがびしょ濡れで、クリーニングに出したばっかりだったのに、と項垂れた。
だが、落ち込んでばかりは居られない。
ここが何処だか突き止め、帰る手立てと面接するはずだった会社に電話を入れなければならないからだ。
立ち上がり、改めて周りを見回すと暗い中に一軒だけ明かりが灯っている。
しめたと思い、カイジは歩き出してそこへ向かった。
階段を上がった二階の扉横に設置されている窓には、雀荘みどりと店の名前が貼り付けられている。
「雀荘か…こんな名前のとこなんてあったっけな」
呟きながらかなりの年数を重ねているのであろう扉に手を掛けた。
すると、数人の男性が宅を囲んでいる様子があり、更にはその内の一人から強烈な視線を送られる。
「なんだお前、ここは若造が来るところじゃねぇ…帰んな」
「…いや、あの…」
雨宿りしたいという意さえ言葉にする前に門前払いとは、酷い野郎がたむろう雀荘だと思った瞬間。
「…待ってくれ!彼はオレの甥っ子なんだ、12時を過ぎても戻らなかったら来るように言っておいたんだ…そうだな?」
図体の良い男が多少なりとも笑顔を作りながらこちらに同意を求めてくる。
こんなおっさんは知らないが、一応合わせておいた方が良さそうだった。
カイジの勘が、そうした方が得だと告げていたからである。
「あ、はい…そうです」
一応中に通して貰える事になり、名も知らぬ二人目の優しいおじさんに感謝をした。
タオルを手渡され、頭を拭こうとした瞬間に、また雀荘の扉が開く。
(あれっ?…いや、でも違うか…どう見ても歳がなぁ…)
扉を開けた未成年と見える歳の少年は、白い髪に赤い双眼をしてたため、カイジはバス停でのあの男性を思い出したのだ。
しかしどう見ても中高年には見えないので、他人の空似だろうと考え直した。
「…南郷さん、アンタ何人に伝えたんだ」
「あ、いや…彼ら兄弟は仲が良くて、きっと付いてきてしまったんだ…そうだろう?」
南郷と名の知れたおじさんは今度、少年にそう問い掛けている。
少年も小さく頷いてカイジ方へ視線を向けてくると、兄さん置いて行かないでよ、と言い出した。
兄弟と断言出来るほど似てはいないだろうが、それでも目つきの悪さだけは似てるか、とカイジは内心だけで呟く。
従業員なのかどうか、定かではない黒服の男がまた新しいタオルを持ち出してきて、今度は少年に渡している。
「南郷さん、休憩だ…店の家具を濡らされても困るんでね」
男が周りに待機している男達に、おいっ…と指示を出すとさっさと動き出して奥の部屋から二人分の衣類を持ってきた。
それぞれ手渡され、着替えるように指示を出される。
服までくれるとは、案外優しい人たちなのかも、と思ったカイジは早速その服に袖を通した。
この際タダで貰える物に、ダサいとか文句は言わない。
しかし少年の方はと言うと、合う大きさが無かったのか多少ブカブカしている様だ。
着替え終わった二人がソファーに腰を下ろしたのを見計らって、皆は囲んでいた卓に戻ってきた。
麻雀をしているようだが、南郷さんの点棒は残りわずか。
しかも、何局目かは知らないがかなり危うい状況といえよう。
イーピンかスーピン待ちにしたいところで、捨て牌としたいウービンは対面の捨て牌リャンピンの近く。
(これならオレでもリャンピンを切るかなぁ…)
勿論麻雀を知っているカイジはそんな事を考えながら、思考する南郷さんを見守っていた。
「…死ねば助かるのに」
「…っ!?」
すると、リャンピンを手に取った南郷さんが河へそれを打とうとした瞬間に、隣に座る少年が口を開いたのだ。
その場の空気が一瞬で静まり返り、ひんやりとした空気が漂う。
「…お前、麻雀が分かるのか?」
「全然…」
(どう見ても二十歳前だろうが、そりゃあ分かるわけねぇだろ)
「ただ…今、気配が死んでいた…背中に勝とうと言う強さが無い…ただ、助かろうとしている…博打で負けが込んだ人間が、最後に陥る思考回路…アンタはただ、怯えている」
ぽつぽつと言葉を続ける少年に、南郷さんどころかカイジも驚きである。
(と言う事は、オレがあそこに座ってても同じ事言われんな…)
普段からギャンブルで勝とうと言うより最後は、どうにか助かる道を探すカイジにとっても少年の言葉は耳が痛い。
しかしその言葉を受けて、南郷さんはウーピンを切る覚悟を決めたようで、リャンピンから持ち替えたそれを勢いに任せて河に捨てた。
するとどうだろう、ウーピンは通り、更には待ちだったイーピンを次の者が河に捨てたことで南郷さんはアガることが出来たのである。
すげぇ…っ!とその流れを見ていたカイジは内心で思った。
その結果にばつが悪そうな顔をした他の男たちが奥の部屋へと引っ込んで行った後で、南郷さんは振り返り少年へと声を掛け始めた。
「お前、歳は?」
「…13」
「13って…中学生だったのかよ!?」
驚いたそのままにカイジが思わず口を開く。
南郷さんもタバコ片手に、確かに見えねぇなぁと呟いた。
続けて名前は?と南郷さんが聞くと少年は小さな声でまた答える。
「赤木…赤木しげる…」
「お前、一体何をやらかしたんだ…」
え?とカイジが隣で二人へ交互に視線を向ける。
「こんな嵐の夜にほっつき歩いて…知りもしねぇ雀荘に転がり込むなんて、まともな学生じゃない事だけは確かなようだが…」
(そりゃあ、確かにそうだよな…さっきの発言もそうだが)
とカイジも思いながらアカギと名乗った少年を見やる。
南郷さんは一旦言葉を止め、アカギの脱ぎ捨てた衣類を一目見てまた口を開いた。
「しかもそのシャツに付いた砂は…こんな深夜に海水浴かい?」
(あ、これ浜辺の砂か…っ!でもなんで…)
「分かってる、話したくなんかない事は…多分お前は、ここに来る前に死線を越えてきた…分かるんだ、オレも今死線を彷徨っているから…そんな気配がさ」
南郷さんの語る言葉を聞きながら、カイジも今まで経験した命がけのギャンブルを思い出す。
そして失った数々の大切なモノを思い出す。
人を信じる心、人を慈しむ心、そして何より命が費えた彼らの事。
今でもこんな自分だけが生きて残っていても良いのかと考えてしまうほどだ。
「今夜勝たなきゃオレは、奴らに殺されちまうんだからな…」
南郷さんのその言葉に、あの日のギャンブルが過ぎる。
Eカード。
なんとか勝てたものの、左耳は切り落として接合する羽目になった。
その後も兵藤とティッシュのくじ引きで勝負をしたが、あっさり負かされて四本の指が、左耳と同じような末路を辿ったのだ。
カイジは己の耳に左手で軽く触れてから、その手を省みる。
指四本の根元には、荒く縫い合わせた痕がしっかりと残っていた。
それを掲げて、カイジは改めてその痕を睨んだ。
忘れもしない、命を弄ばれた瞬間である。
まるで今の南郷さんと同じように、勝たなければ殺されるという恐怖。
それに打ち勝った証として残っているように見えた。
「…お前も超えてきたのか…その指、どうしてそうなったのかは聞かないが…かなりヤンチャをしたと見える…で、名前は」
「伊藤カイジだ…歳は21」
「なるほど…スーツ着てどこに行くかは知らないが…あまり首を突っ込みすぎるなよ?若いんだ」
「………」
ただ職に着くため面接に行こうとしていた、なんて言う気にならないのは、今この場に流れている空気のせいだと思う。
「所で頼みたい、どちらでも良い…っ!次の半チャン…オレの代わりに入ってくれないかっ?…感じるんだ、お前達から勝負する者に不可欠な、運とツキと気っ!…お前達なら死線を越えられる…っ!」
こんな事を言われるなら、面接行くためだと言っておけば良かったと、カイジは思った。
対して少年は無表情のまま、南郷さんをジッと見詰めている。
「いや、オレはちょっと…恥ずかしい話だけど、運が無いって言うか…」
「だからその指か…だが逆も言える、指だけで済んだのは運があったからだとな」
確かにそう言われれば、そうかもしれない。
だが今まで挑戦してきたギャンブルに、真っ当な真剣勝負など一つも無かったと、カイジは今更思い返して気が付いた。
真っ当な勝負といえば、パチンコや競馬など、シャバで行われている公式なものばかり。
しかもそれのどの勝負も当たった事が無いってんだから、かなり痛い…悲しくなる程に。
「…まぁ、そうだけど…今までのギャンブル全て、イカサマ相手だったからな…運使うより、頭使う方が多かったんだ…」
「お前っ…そんな勝負を生き残ってきたのか…っ!?」
「ああ…まぁ、こうして何とか…」
十分凄い、と南郷さんが称えてくれる中、チラリとアカギの様子を伺うように視線を向けてみると、彼はジッとこちらを見ていた。
ヤバイ、これはオレが行くフラグが立ってないか?と冷や汗交じりで思った瞬間、アカギが小さく口を開く。
「…いいよ」
「っ!…打ってくれるかっ?」
「そう言ってる…でも、やり方を少し教えて欲しい…まぁ、今の勝負を見ていて多少の事は理解してるけど」
「ああ…っ!勿論だ…っ!」
カイジは内心、ホッとした。
多分だが南郷さんのこの勝負、大事なもののはずだ。
しかし今し方、彼と同じ捨て牌を選んでいた自分では、多分だがあまり役には立ちそうに無い。
たった一言で状況を一変させたこのアカギこそ、代打ちとして座らせるのが今は一番正しいのではないかと、カイジは考えていた。
椅子に座ったアカギに南郷さんは一から麻雀について教えている。
他の者たちが戻ってくるまで、それは経ったの5分程しか無かった。
アカギが代打ちをすると言う事を南郷さんが伝えると、彼等はたかが子供相手だから逆に楽だと考えたのだろう、あっさりと了承し再び勝負が続行される。
しかし…それは大きな見誤りだと、彼等は後々思い知ることになるのだった。
アカギの打ち方を見ながら、南郷さんが後悔のオーラを出し始めた最中、途端に雀荘へ警官が訪ねてきたのだ。
どうやら、話を聞くとチキンランの生き残りを探しているらしい。
オレもなんとなくだが、ピンと来た。
多分、それはアカギの事だろうと…。
「南郷さん…取引しませんか?警察も何かネタがあって、ここを嗅ぎつけたんだ、多分引き下がらない…ものの一分もしない内に入ってくる」
横耳で話を聞きながら、オレはその状況を見守る他に手は無い。
「その時口裏を合わせて、オレの身分とアリバイを証明してくれればいい…勿論、カイジさん、アンタもだ」
なんか色々大変なことになってきたなぁ、と生半可で聞いていたカイジはハッとしてアカギを振り返った。
「オレもかよっ!?」
「代われるって言うなら、オレはそれでも構いませんが」
「…いい加減にしろっ!取引ってのは、ブツを持っている者同士で始めて成立するんだ…っ!」
南郷さんが割って入り、抗議の言葉を述べるがアカギはそれを笑って返す。
「ククッ…ブツなら、ある…」
言いながら伏せていた手配を開くと、そこには…なんと大三元を示す牌が並んでいるではないか。
いつの間に揃えたのか、と言うよりなんで揃っているのか。
今先ほど伏せる前までの手牌は、そんな明確に揃ってはいなかったはずだと言うのに。
考えられるのは、一つだけ…イカサマである。
「…お前、やりやがったな…?」
カイジが小さくそう問い掛けると、アカギはまたククッと笑った。
こうなると南郷さんも、もう言える事が無くなる。
警察が来て本来一番焦るはずの本人は、悠々と河から欲しい牌を盗み取る、と言うあたかも他人事のような認識で大胆な行動を取っていたのだ。
更には事もあろうに、アカギは中と描かれる牌を上段へ移し始めた。
これには南郷さんも、少し考え込んではいるが、勝ちの目を潰されるわけには行かず頷かざるを得なくなるだろう。
それによく考えれば、中を切られアカギが敗北すると、彼は警察へ連行される事になり、代わりとして今度はカイジがその席に着くことになる。
結果そうなると困るのはカイジであり、結局自分も頷かざるを得なくなるというわけだ。
全く、大したクソガキである。
「…分かった…証明すりゃいいんだろ」
カイジが断言してやると、隣で南郷さんも小さく頷く。
勝ち誇ったようにニヤリと笑うその顔が、またなんか策士じみていて嫌だ。
するとタイミングを見計らったかのように警官たちが入ってきた。
アカギを一瞥し、図体の良いいかにも刑事だと言う男が薄ら笑いを浮かべる。
「いるじゃねぇか…問題のガキがこんな所に…なぁ坊主、さっきの話聞いてたろ?お前だよな、チキンランの生き残りってのは…」
「………」
しかしアカギは勿論、何も答えない。
「刑事さん、ちょっと待って下さい…それは誤解ですよ」
そう言って立ち上がった南郷さんは、アカギを庇う様に異論を申し立てる。
「コイツ等ぁオレの兄貴のガキでね、訳あってちょっと預かってるんですよ」
「そう、今日は叔父さんが麻雀するって言うから、ちょっと無理言って弟と一緒に見学がてら連れてきて貰ってんすよ…な?」
そう言ってアカギの肩を抱いて、くしゃくしゃと髪を乱し、あたかも兄弟ですと言うアピールをカイジはしてみせた。
アカギからは、そこまでしろなんて言っていない、と言う鬱陶しそうな視線を向けられたが、構いやしない。
「彼の言う通りですよ、昨日は6時からこの雀荘にいました…オレ等と一緒にね…そうだろ?竜崎さん」
「えっ?…あぁ、そうだったかな…」
不意に話を振られたからか、竜崎と呼ばれた男は動揺しつつも同意している。
しかしやはり何か掴んでいるのか、刑事もそう簡単には引いてはくれないようだ。
「…見たって奴がいるんだがなぁ…それに、足跡もある…恐らくそこのガキが付けたびっしょり濡れた足跡がな…」
すると突然アカギは笑い出し、語りだした。
「ククッ…刑事さん、それはさっき叔父に頼まれて、タバコを買いに行った時のものですよ」
「こんな深夜に、か?」
南郷さんが不安そうに横目でこちらを振り返っているが、アカギの抗議も止まらない。
「えぇ…ボクもこんな夜中に無理だって言ったんだけど、叔父がどうしてもって言うし、兄さんも一緒だから平気だろうって言うからしょうがなく…叔父も負けが込んでて、熱くなってたから…ね?」
「あ、あぁ…そうだな」
「それに刑事さん…そんな事した奴がこんな所で、悠長に麻雀打ったりしてますかね…もし仮にそうだとして、なんでまたここにいる人達が庇うんですか…そんな事をしても、何もメリットがない」
よくもまぁ、しれっと次々に綺麗な御託を並べられるものだと、カイジは感心する。
もっとも、そこは本来感心するべき所ではないけれど…。
「なるほど…」
あたかも納得したかのように見せかけている刑事の演技に気付いているのは、カイジだけではないはずだ。
しかし、話は終わったと言う風にアカギは卓に向き直って、さぁ始めましょうかと言い始める。
きっとこれも、アカギの策略だろう。
警官が室内に残っており、彼等の注意が警官に向かっている最中ゲームを再開させたのは、すり替えた牌に気付かせないために違いない。
どこまで悪知恵の働くガキなんだ、とカイジは思った。
すると、そんな緊張感の中再開されたためか、竜崎がアカギの待ち牌を簡単に出してきてくれたお陰でロン。
しかし大三元と言う役を見て、すぐに河から抜いたと気付いた彼らはアカギを捲くし立てた。
右隣に座っていた男が胸倉を掴み、舐めとんのか!と怒鳴り散らし出したが、それを竜崎が止める。
「よせ…っ!」
「でも、兄貴っ!!!」
竜崎が顎で警官を示すと、男は渋々引き下がった。
「兄貴…良いんですかいっ!?」
「良いも悪いもねぇっ!やられた方がアホなんだっ…だがな小僧、一度だけにしておけよ?またやって現場を押さえられたらこの世界では指が飛ぶ…」
その言葉に、カイジは身に覚えがあった。
以前裏カジノの沼攻略の際に、イカサマ工作がばれた時だ…今は地下送りになっているあの男に、爪の間を抉られた記憶が蘇る。
「どんなに泣き叫ぼうが許さない…一度たりとも許したことは無いっ…ヤクザを舐めた罪、それはこの世で一番重い実刑、情状酌量の余地なし…っ!」
竜崎のその言葉で、やっとカイジは彼らがヤクザだと言う事を知り、同時にそんな奴ら相手にイカサマしたのかよ!?と言う驚きが沸き上がる。
だが、次の勝負、そしてまた次の勝負と二連続でアカギはイカサマ無しであがった。
そこで竜崎達が待ったのタイムを掛けたことで、カイジ達は多少の自由時間を与えられることになったは良いが、警官が待機しているのであまり下手なことは言えない。
相変わらず、アリバイ工作の続きでアカギと兄弟を演じていた。
「お前すごいじゃねぇか、麻雀始めたばっかで連勝だもんな、才能あるんじゃね?プロの雀士目指してみろよ」
そう言ってアカギの頭をまたくしゃくしゃと撫でると、これまた鬱陶しそうな目で見られる。
「…止めてよ」
無表情で言われると、それはそれで一生懸命演技してやっているのに、と言う苛立ちが募る。
しかし、ここは大人として耐えなければ…。
カイジがふと、アカギから目を逸らしたその時、店に掛けられたカレンダーに目が行く。
するとそこには、信じられない事実が記されていた。
「…えっ…嘘だろ…なんで…っ!?」
「…?」
アカギが不思議そうに、こちらへと視線を向けてくる。
しかしカレンダーに記された信じられない年号を理解するため、カイジは思考を凝らすので精一杯。
「なに、兄さん…どうかしたの?」
ハッとして、あらぬ事を口走っていないかどうか不安になったが、兄さんと呼ばれて我に返り、いや何でも無い、と苦し紛れに笑って見せた。
信じられなかった、自分が今居るのは昭和33年だなんて事を。
ヤクザがどうこうとか、もうそんな事もどうでも良くなってきた。
何で過去に居るんだオレは!?って言うかどうやって還ればいいんだ!?と、原因を脳内で模索してみるが勿論のこと、見付かるはずも無い。
掠ると言えば、あのバスの事故だが…。
「…何を必死になってんの…」
俯いて何やら必死に考え出したカイジを不思議に思ったらしい、アカギが服の裾を掴んで小声で問い掛けてきた。
「…なんでも無いって…」
「いいから、話してよ…」
「…後でな…」
「………」
信じねぇと思うけど、と脳内で呟きながら頷くアカギを見下ろす。
今は考えないようにしよう、とカイジは思う。
折角作り上げたアカギのアリバイを、自分の変な言動で崩すわけにはいかない。
それから間もなくして竜崎達が戻ってくると、麻雀勝負が再開されたが、カイジはその勝負の行方を上の空で眺めていた。
当然だ、越境の事実を知ってしまった以上、呆然としない奴など居ないのだから。
日が昇り、勝負が終わるまでの間にあった事を言えと言われたら、カイジには二つしか答えられなかった。
アカギが連勝している事と、誰かが途中参戦してきたと言う事ぐらいである。
雀荘の外は完全に日が昇り、昨晩の雷雨が嘘のような快晴が広がっていた。
安岡と言うらしい刑事と南郷さん、その二人と別れた後、カイジとアカギは適当なベンチに座って例の話を始めた。
「…そろそろ話してよ、あの時何を必死に考えていたのか」
「…いいけど、まず先に言っとく」
「ん…」
タバコの煙を吐き出しながら、カイジは言い切る。
「オレは正常だからなっ?」
「…いきなり何?」
「これから言うんだ、黙って聞けよ?」
「分かってるよ」
渋い顔をして、カイジは正面に向き直ると口を開いた。
「…オレは、未来から来た…この時代に居るべきはずの人間じゃない…カレンダーを見て驚いたよ…昭和33年なんて、オレはまだ生まれてもいねぇんだからな…」
横でピクリと動くアカギを感じ取って、振り向いてみると切れ長の目を最大限に大きく見開いていた。
反応の仕方が、やはりまだ子供だな、と思った。
「信じてねぇだろ…?」
少し笑って言ってやると、ムッとした表情に一変させたアカギが言う。
「…信じて無いなんて、言ってない」
「まぁ、どっちでも良いけどさ…お前が信じるか信じないかなんて」
ベンチに背を預けて、ぐったりと天を仰ぎ見ながらカイジは言った。
「…アンタ、どうやって還るの?」
「さぁな…」
「…これから、どうするの?」
「しらね…」
「…方法無かったらこっち≠ナ生きるの?」
「かもな…」
会話のキャッチボールと言えるのかどうか、定かではないが何も決まっていないし分からないのだからこんな返答しか出来ない。
カイジは大きく深いため息を吐いて、タバコを持ったまま立ち上がる。
その様子をアカギは目だけで追ってきた。
「満足したろ?…じゃあ、オレ行くわ…元気でな」
歩き出したその後ろからは、さようならと言う言葉ではなく、ひたすら足音が聞こえて来る。
止まって振り返ってみると、静かに後ろをアカギが付いてきていた。
「…なんだよ、まだ何かあるのか?」
「知りたい、アンタのこれからを…」
「面白くないと思うぜ?それに、お前今度もう一回勝負すんじゃねぇのか?」
目を逸らすことは無く、ただジッとこちらに同行の了承を求めるべく見詰めてくる。
別にアカギが付いてくる事に関して、こちらとしては何も問題は無いのだが、気に掛かるのは彼の両親たちの心境だ。
普通は大切な息子が消えて消息が分からないとなれば、警察沙汰は勿論のことカイジが誘拐犯として認識される可能性もある。
まぁそれ以前にチキンランで警察に追われているほどだ、こちらがそこまで心配する必要も無いかもしれない。
一応だが、形だけでもアカギに尋ねてみる事にした。
「お前まず家に帰らなくていいのかよ、親が心配してんだろ」
「…帰る場所なんて、オレには無いよ」
これまたしれっとすごい返答をしてくれるものだ。
聞いたこっちが申し訳なくなるが、アカギがそうだと言うなら仕方が無い。
「…分かったよ、好きにしろ」
心なしかアカギの表情が少し明るくなったような気がした。
まるで生まれたての雛の様にアカギはヒョコヒョコと後ろを付いてくる。
さて、これからどうしたものか。
眠いとか、腹が減ったとか、求める事柄は沢山あるが何を隠そう金が無い。
在るには在るが、平成紙幣のため使えるかどうかが分からなかった。
「ねぇ、何処に向かってるの…?」
「…宛があるように見えるか?」
「全然…」
「…だろ、だから適当に歩いてんだよ」
「ふ〜ん…」
それからはまた互いに黙ってしばらく歩いていた。
何十年と言う過去の時代には、当たり前だが知り合いなんていやしない。
居たとしても、それこそまだガキかそこらだ…助けになるわけも無い。
ならば、どうするのが得策か。
考え付くのはたった一つ、それは結局ギャンブルだった。
手持ち無沙汰からある程度の金を得るためには、多分この身を賭ける事になるだろう。
だが一度は切り離した左手の指がある、これを使えば何とかなるかもしれない。
あまり気は進まないが、カイジにはそうする他に道は無かった。
左手を見詰め、グッと拳を作って意を固めた時、アカギが服の裾を軽く引いてきた感覚がし、上体だけで振り返る。
「どうした…?」
「やるの?…博打」
「それ以外に金を掴む方法があるか?」
「…どうだろうね」
微笑で言うアカギに対して、小さくため息を吐きながら前方に向き直り、賭博場でも探しながら行こうとまた歩き出した。
すると…。
「…待って!お母さんを連れて行かないで…っ!」
と前方でアカギほどの歳の男の子がそう言って声を張り上げながら、車に乗せられそうになっている母親を取り返そうとしている。
相手は少しばかり柄の悪そうなスーツの男二人組みで、いかにも借金取りと言う感じだ。
茶色い短髪で、顔にそばかすのある男の子は、必死になって男達の足にしがみついて泣いている。
「うるせぇんだよクソガキがっ!」
小さな子供相手に、真剣な罵倒と足蹴りを食らわせるその男二人組み。
車に押し込められようとしている母親が、止めて!どうか息子には手出ししないで!と必死に叫んでいる。
その光景を見て、カイジは歯を噛み締めた。
無言で歩き出したカイジの後を、アカギもぴったり付いてくる。
そして…。
「おいっ、よせよ…っ!」
カイジが止めに入った事で、母子共に男二人も皆同時に視線を向けてくる。
勿論その集まる視線の中には、アカギの物も含まれていた。
カイジがお人好しな性格だと言う事を知らなかったアカギは、彼がただ脇を掠めるように通り過ぎるだけだろうと思っていたからである。
「ああ?…なんだテメェは、痛い目みてぇのかっ!」
「うるせぇっ!子供にまで手を出す必要があるかっ!もう少しやり方ってもんがあんだろうが…お前らのやってる事は外道だ…っ!」
「テメェぇぇ…っ!」
かなりの怒りを含んだ男の怒鳴り声は、今にもカイジを殴り倒さんばかりの勢いだった。
それでもカイジは一歩も引かない。
それはそうだ、散々酷く腐った人間達を幾度となく見て来ているのだ。
今更こんな事で物怖じなどするはずもない。
「勝負で決着をつけようぜ…ギャンブルだっ!そこの二人の解放を賭けた、な…」
面と向かっている二人には負けぬほどの目つきの悪さで睨み返し、カイジははっきりと言ってやった。
だが勿論相手も引きはせず、むしろ胸を張って返答してくる。
「テメェは何も賭けねぇつもりか、あぁ?」
カイジはフッと笑って左手を掲げた。
「オレはコイツを賭ける…お前らが勝ったら好きなだけ持ってけよ」
その手に残る縫合手術の痕を見て、二人組は顔を見合わせてから頷く。
了承したと見たカイジは、空かさず更なる条件を告げる。
「お前らが負けた時は、治療費として10万だ」
その提示には男二人組みの他にアカギも愕然としていた。
「テメェ!そんな条件が通ると思ってんのかっ!」
「当然だろ、ガキに怪我させてんだ…それともなんだ?警察でも呼んで状況判断でもして貰うか?」
苦虫でも噛み潰したような顔をした二人組みは、渋々条件を呑んだ。
警察沙汰になれば彼等の俗柄厄介な事になる上に、闇金融と言う違法や児童に対する暴行罪などの罪にも問われる事になるだろう。
それに比べれば敗北したとて10万の出費なら安い物だと考えるはずだと、カイジは彼らの思考の行き付く所を見事に読んでいた。
そんなやり取りを横で見ていたアカギは笑いを零し、さも愉快そうに事の運びを見物している。
相手の決めた場所に彼等の車に乗せられ移動し、二人は提示されたギャンブルを行ったが、カイジの圧倒的閃きとアカギの手助けもあって、簡単にケリが付いた。
「さぁ…頂きましょうか、契約書」
そう言ってアカギがククッと笑いながら催促すると、再び苦虫を噛み潰したような顔をした男二人がゆっくりと薄っぺらい紙を差し出してくる。
契約内容と拇印を確認した二人は、互いに顔を見合わせて頷いた。
「確かに…それと忘れんなよ、10万もだ」
今度はカイジが催促すると、何やら財布を探って嫌々差し出してきた札束。
乱暴に受け取って数えてみると、きっちり10万あった。
「どうも…これであの親子には金輪際関わんなよ」
覚えてろよクソガキ共が!と捨て台詞を吐かれ、二人は指定のビルから追い出された。
送迎は無しか、とカイジがぼやくとアカギが当然でしょ、と笑う。
「仕方ねぇ…タクるか」
「…たくる?」
「タクシー捕まえるってこと…行くぞ」
「うん」
二人は大通りに出て、適当に車の行き来する様子を眺めながら空車のタクシーを見付けると手を上げて停めた。
それに乗り込み、あの時の家の前まで行こうと思ったが…いかんせん住所を確認していないことにカイジは、しまったと後悔。
すると、それを笑いながらアカギが運転手へ住所を告げた。
運転手はそれを聞いてすぐに了承すると車を走らせ始める。
「お前、よく確認してたな住所なんて」
「移動するって言い出されたんだ、それくらいは当然するよ」
「…抜け目がねぇのな」
「まぁね」
そこまで遠かったわけでもなく、経ったの5分ほどで本来の場所に到着し、料金は先ほど受け取った10万を削ることになるが、それで支払った。
「何処のどなたか存じませんが、ありがとうございます…っ!」
そう言って母親が笑顔を向けてきたので、カイジはサッと残った9万と小銭を差し出した。
「あの…これは?」
「ガキの治療費としてあいつ等から奪ってきた…コレに懲りたらもう借金なんてすんな」
そっぽを向きながら言ったカイジの言葉に、母親は涙しながら深々とお辞儀しつつそれを受け取っている。
すると、脇で見ていた子供がサッと駆け寄ってきて、お兄さんありがとう!と笑った。
カイジもクスッと笑って、その子供の頭を撫でる。
そんな光景を見ながら、アカギが隣でジッとカイジを見ていた。
「じゃあ、元気でな…アカギ、行こうぜ」
「ん…」
背後では何度も礼を言いながらお辞儀をする母親の姿と、お兄さんみたいになれるように頑張るから!と笑顔で手を振り続けている子供がいる。
遥か遠く離れたとき、アカギが不意に口を開いた。
「…ねぇ、カイジさん」
「んー…?」
「オレにもして、さっきの」
「…さっきのって、何の事だよ…」
「………頭…」
「単語だけじゃ分かん…ああ、もしかしてアレか」
ポッと思い付いたカイジは、その手でアカギの真っ白な髪を優しく撫でる。
だが先ほどの子供と違って淡白なアカギは無反応。
何で要求してきたのか、何を考えているのか理解に困るガキだ。
「…なんの反応も無しかよ、可愛げがねぇな」
「じゃあ、なんでアイツにはしたの」
「お前と違ってそれなりの反応はあったろ」
撫でていた手を退かして、カイジはポケットに手を突っ込む様子をアカギは目で追ってくる。
「カイジさん、アイツのこと好きになったの?」
すると、あらぬ事を口にし始め、カイジは困惑させられた。
「はぁ?…んなわけねぇだろ」
「じゃあ、なんで?」
「子供が笑顔作って寄ってくりゃ、いい年の大人ならみんな大体するだろ」
「そうなの?」
「ああ…」
「オレは…されたことない」
「お前は笑顔作って寄り付くようなガキに見えねぇんだけど」
「笑顔を作らないと駄目なの?」
カイジはため息をついて歩を止めると、アカギに向き直った。
「あのな、何が良くて何が駄目なのかなんてオレはしらねぇの、分かったか?」
「…アイツには優しくしてたのに」
何やらへそを曲げ始めたアカギから死線を外し、歩き出したカイジは背中で言ってやる。
「今度から撫でてやるよ、お前も…」
すると、背後で止まっていた足音が少し早めに地を踏む音が聞こえ、スッとアカギが隣に並んだ。
素直じゃねぇな、と思いつつ再び頭を撫でてやると、今度は少し嬉しそうな様子を見せるアカギに微笑ましさが込み上げるカイジであった。