―――小さな命の芽吹きと共に、終焉のカウントダウンは始まっていた。
数十人という研究員達が一つのカプセルを眺めながら、メモを取っている。
その中央に置かれた溶液の中に存在する一人の人間は、この研究所を仕切る男の元恋人だった。
一人だけ着丈の足元までにも及ぶ白衣を着た男が、恍惚な笑みを浮かべながらソレを見ている。
「限りなく同一に近付けて…どんな些細なところもね」
周りの研究員にそう告げて、優しくカプセルを撫でる男は瞳を閉じて耳を寄せる。
コポコポと酸素が送られる泡の音が届き、それが彼の再生の音だと喜ばしく思った。
どうして、彼はこんな研究をしているのか。
それは…―――

ハッと目を覚ましたカイジは、不可解な夢の内容に首を傾げながら上体を起こす。
辺りを見回しても普段と変わらず、使い古されたヤニの黄ばみが目立つ壁紙と、低い染みが所々に点在する天井、そして古くさい家具と真新しい電気機器が置かれる、部屋で少しホッとした。
「おはよう、カイジさん」
すると二人分のコーヒーカップを手にする見慣れた男が、笑みを浮かべながら一言そう言って歩み寄ってくる。
「おはよう…アカギ」
カイジがベッドから降りる動作と、アカギがカップを机に置くのは同時に行われた。
毎日を共に過ごす大切な恋人、アカギの隣りに座って青い方のカップを手に取る。
「お前の淹れるコーヒー、やっぱ好きだ…うめぇ」
「ククッ…そう?ありがとう」
アカギは嬉しそうに笑って、カップに口を付けている。
「なぁ…変な夢を見たんだ…」
「へぇ、どんな?」
手にしたままのカップを覗き込むように俯いて、カイジは続きを答える。
「オレがホルマリン漬けみたいになってて…その前にお前が笑いながら立ってた…」
フッと笑顔が消え、アカギはカップを机に置いた。
「………確かに、変な夢だ…でも、所詮は夢だよ」
「…だよな」
気を取り直して笑ったカイジがアカギの方を見たとき、悲しそうな目をしている気がした。
胸が締め付けられるような感覚に襲われたカイジは、すぐにアカギを抱きしめる。
腕の中に感じる温もりが恋しくて、現実味があって胸の痛みが徐々に和らいでいった。
「…カイジさん?」
「アカギ…オレ、何処にも行かねぇから…そんな目すんなよ…っ!」
「…っ!…ああ、分かってる…」
すると、腕の中のアカギが不意に小さく溜め息を吐いているのを感じた。
「なぁ、カイジさん…」
「ん?…どうした?」
包んでいた腕を解放すると、アカギは瞳を閉じたまま身体を離し、小さく言葉を発する。
「賭けをしようか…オレと」
「え?…賭けか、負けた方が何でも一つ言う事を聞けってか?」
そう言ってカイジが笑うと、アカギは閉じていた瞳を見せる。
そこには何故か、怒りの色が濃く浮かんでいる事に、カイジは訳も分からず戸惑った。
「っ、アカギ…?」
「違う、そんなんじゃ足りない…腕を賭けてよ…腕一本…アンタなら、出来るでしょ…アンタだったら…」
「はっ?…いや、お前何言ってんだよ…出来るわけねぇだろ!?そんなこと…っ!」
そう、カイジは普段もパチンコやスロット、麻雀やポーカーなど、様々なギャンブルを全くしない。
毎日をアカギと共に生活すると言う、ぬるま湯の中で過ごしていた。
ギャンブラーとしての彼の姿は、欠片も面影もないのだ。
「どうして?…ただ、負けたら腕を落とすだけで、命が無くなる訳じゃないのに…」
「馬鹿っ、ふざけんなよっ!…そんな事してみろ、生活に色々支障が出るだろうが…っ!」
「出来る筈なんだよ…アンタなら、出来なきゃおかしい事なんだよ」
「はぁ?…何考えてんだよお前…訳わかんねぇよ…」
目を伏せたアカギは、スッと立ち上がって小刻みに肩を振るわせ始めた。
とんでもない事を言われたと思ったら、今度は逆ギレでもされるのだろうかと、カイジは身構えながら仲直りの算段を立てるが…。
「違う…アンタは、全然…開司さんじゃ、ない…っ!」
キッと睨み付けられ、その目には涙が溢れんばかりに堪っている。
言われている意味が、カイジには分からない。
「おい、お前…何言って…」
「アンタなんか開司さんじゃない…っ!」
伸ばした手は簡単に振り払われ、アカギは奥の部屋へと立ち去っていく。
急いでそれを追い、部屋に入ると…彼は胸元に何かを抱えながら泣いていた。
「…アカギ…?」
「来るな…アンタなんか、知らない…アンタは、開司さんじゃない…っ!」
「オレは、カイジだろ?…それ以外の何だって…」
「違うっ!…出て行け…今すぐに…っ!」
意味も分からず、説明もないことに、段々とカイジも苛立ちが募って、力無く垂れ下がっていた腕には拳が作られていた。
ゆっくりとアカギに近付き、肩を掴んで此方を向かせると思い切り詰め寄る。
「じゃあオレは誰だって言うんだよっ!説明も無しで散々なこと言いやがって…っ!訳がわからねぇんだよこっちはっ!」
そして胸に抱えている物を強引に奪い取ると、何を隠していたのかと目を向けて絶句した。
「…えっ…なんで…」
カイジが映っている写真立て…いや、似てはいるがカイジではなかった。
写真の男には頬に傷痕がある、しかしカイジにはそんな物は無い。
己の頬に手を宛がって再度確かめるが、やはり傷の感触はなかった。
この男は…酷似しているこの男は一体誰だ。
カイジは塞がらない口のまま、黙々と考えるが思い当たる節はない。
双子であるという事実も無ければ、他人の空似と言えるほど軽いものでもない。
コレは一体誰?じゃあ、オレは一体誰?
「アカギ…これは、どう言う事なんだよ…」
驚愕と疑惑の混ざった顔で問い掛けると、アカギは恨めしそうな顔で睨み付けて来た。
「…開司さんと同じにした筈なのに…そう作った筈だったのに…アンタは只の凡人…っ!」
「作った…っ?」
「博打に多少のリスクも負えない臆病者…意気地無し…開司さんと同じ顔をしただけのアンタなんて…ただのクローンなんて、要らない…っ!」
「…っ!!!!!」
その言葉を吐いたアカギは、そのまま勢いよく立ち上がり、颯爽と部屋を後にしたかと思うと、すぐに玄関の戸が強烈に閉まる音が響いた。
手にしていた写真立てはスルリと抜け落ち、床へとガラスを散らしながら転がる。
出て行ったのはすぐに察しが付いたが、カイジはその場を動くことが出来なかった。
唐突に晒された驚愕の事実は、彼をその場に貼り付けるには十分すぎる物。
ポロポロと頬には大量の涙が伝っていき、声さえも出せずに表情をくしゃくしゃにする事も出来ず、ただそれを溢れさせるばかりだった。
今まで長い間時間を共にし、愛し合ってきた者からの悲痛な現実の提示。
たった一つの違いで、それが全て崩れ去ってしまった。
ギャンブルが出来れば、きっと彼は戻ってきてくれるのだろうか。
カイジは足元に転がっている写真立てに目を落とし、源を見下ろした。
必要だからオレを作ったんじゃないのか。
この男がオレだというなら、どうして…オレなんか作ったりした。
もしかすると死んでいるのか。
探そう…オレを、探しに行こう。
カイジはゆっくりとその場を立ち去った。
覚束無い足取りで、手掛かりに辿り着けそうな場所を当たってみる。
しかし、なかなか見付からなかった。
やはり源は死んでいるのか…。
そう思ったときだった、遠藤金融という闇金融会社を取り仕切る者に聞けとの情報を得て、カイジは早速与えて貰った住所を頼りにビルを探した。
そして見付けたのだ、古くさい如何にもなビルの窓に貼り付けられた遠藤金融という文字を。
カイジは急いで、そこへと駆け込んでいった。
「あのっ…すいません…っ!」
拳を作って扉をノックすると、何だ騒々しい!と暴言を吐かれながら扉が開かれた。
黒いスーツに身を包んだ男が、怪訝な顔でこちらを見てくるがカイジはお構いなしで言う。
「あの、遠藤さんと言う方…いませんかっ?」
「何だお前は、何の用だっ?」
「どうしてもお聞きしたい事があって…少しで良いんで、そのっ…」
お会い出来ませんか?と続けようとしたところで、背後からまた別の誰かがやってきた。
「どうした?騒がしいじゃねぇか…」
「あ、遠藤さん…すいません、この男が…」
「遠藤さんっ?…貴方が遠藤さんですかっ!?」
「ああ…って、開司じゃないか!久しぶりだなぁ、元気でやってるのか?あれから」
そう言って笑うサングラスを掛けた遠藤という男は、オレをカイジと呼んだ。
「まぁ入れ、立ち話もなんだ」
お招きの了承を得、事務所に通されたカイジはソファーに腰掛けるよう言われた。
「で?…どうした、そんなに慌てて」
また借金しに来たのか?今度は自分で、と笑いながら言う遠藤にカイジは早速尋ねてみた。
「あのっ、カイジって…今どこに居るか、知りませんかっ?」
その瞬間、遠藤は阿呆な顔をして言う。
「何おかしな事言ってンだ?…今此処にいるじゃねぇか、伊藤開司と言う人間…お前が」
「違うんだっ!オレじゃない…別の、もう一人の伊藤カイジだ…っ!」
怪訝な顔のまま考え込む遠藤は、暫くしてハッと顔を上げて左手を見せろと言ってきた。
よく分からず、しかし要求通りに手を見せると、愕然とした顔で遠藤は答えを告げる。
「確かに…お前さんは伊藤開司じゃないな…左手の指四本、その根本に縫合手術の痕が無い…」
更に唸りつつ考え込みながら、遠藤は決心したように何処かへ電話をかけ始めた。
数分会話をし、彼は電話を切ってカイジへと振り返る。
「居るぞ…今、住所を教えてやる…そこへ行けば会えるだろう」
未だに状況を全て把握出来てはいないのだろうに、遠藤はある住所を書いて渡してくれた。
腑に落ちない顔をしているが、カイジが急いでいる事を分かっているのだろう、引き止めずに行けと言ってくれる。
感謝を込めた笑顔で、カイジはありがとうございます!と礼を述べてビルを出た。
改めて住所を見ると、ここからそう遠くはない場所のようで助かる。
カイジは早速そこへと向かった。
聞くんだ、全て…オレ自身の口から聞くんだ、オレの事も…アカギの事も。
日も暮れ始めた頃に、漸く辿り着いた古くさいボロアパート。
その二階に住む、伊藤開司の元へ。
意を決し、伊藤と表札の付いた扉を軽くノックする。
大した時間も掛けず、扉はすぐに開いて見慣れている同じ顔が出て来た。
オレも驚いているが、相手の方が更に大きく驚いている。
それは至極当然の事だろう、いきなり自分と全く同じ者が訪ねて来たのだから。
「な、何だよっ…誰なんだお前っ!?」
「す、すいませんっ…怪しい者じゃないんです、ただ話を聞きたくて…っ!」
「はぁ?…全く同じ背格好で、怪しく思わない奴がいるかよ…っ!」
「いや、ホントにオレはっ…ちょっ、待っ…!」
ふざけんな、と言われ扉を閉められてしまった。
どうにか話を聞かせて貰えないかと、思考を懲らした結果出たのは…。
「…アカギ…アカギを、知りませんか…?」
え?…と小さい声が聞こえたかと思うと、締め切られたはずの扉がゆっくりと再び開かれた。
「アカギって…あの、アカギしげるか…?」
「そうですっ!…彼について話を聞きたくて…来たんですけど…っ!」
少し居たたまれなさそうな顔をして、同じ顔の男は小さく、入れよ…と言ってくれる。
「あ、ありがとうございます…っ!」
部屋に入ると、そこは自分が住んでいたアパートの部屋と、全く同じ内装となっている事に気付いた。
いや、逆なのだ、きっと…オレが棲んでいた部屋がここと同じなのだ。
「テキトーに座れ…で、アカギが何だ」
男はマルボロと印字された箱から一本タバコを取り出して、火を付け始めた。
こんな所まで、一緒にしたらしい…カイジはタバコを取る手を止めて答える。
「アカギが…アンタの写真を持っていたんだ、知り合いなんだろ?」
「…お前の写真じゃねぇのかよ…同じ顔だろうが」
「いや…頬に、傷があった…写真には…」
「………まだ持ってたのかよ、アイツ…」
「なぁ、教えてくれっ!アカギは…どうしてオレを作ったのか、アンタなら知ってるんだろっ!?」
灰を落としながら、はぁ?と声が帰ってくる。
「知るか、まずお前が居た事自体知らなかったぜ…こっちが教えて貰いてぇよ」
タバコを灰皿に擦り消しながら、同じ顔の男はカイジに向き直った。
「アカギが作ったって言ったよな…お前ロボットなのか?」
「いや…クローンだ」
「っ………アイツ…っ!」
「…必要だからこそ、生み出されたと信じたい…だが、アイツはオレを要らないと言った…多分だが、アンタが生きている事を知ったからなんじゃ…」
「違うな…そんなんじゃない」
伏せ見がちな目を上げると、男の方が目を伏せていた。
「どうやって生み出したかは知らねぇ…だが、生み出す理由なら…見当が付かない訳じゃねぇ…」
聞かせて欲しい、その意を瞳に込めて見つめ続けると…目を閉じ溜め息を吐いて男は答えてくれた。

―――それは…数年前に恋人を失ったからである。
しかし、死に別れたというわけではない。
自分が見ていた者と、彼が見ていた者が違う者だった…そう言うことだ。
忘れられなかった、どんなに時が経とうとも心は正直だった。
だから彼をもう一度この手に収めたくて、この研究に適した人材を集めて再生を試みたのだ。
そして今、長い月日を得て成功の二文字が飾られようとしていた。
遺伝子、脳信号、臓器活動、循環器官、全てにおいて何も問題は無く、カプセルからの解放が良しとされた個体がやっと出来上がったのである。
溶液に浸る彼は、肩まである黒く艶やかな髪をしており、鼻筋の通った雄々しい顔立ち、そして筋肉質で立派な20代の身体をしていた。
男の愛した元恋人の名は、伊藤開司。
このカプセルの中は、そう…彼のクローンだった。
本物は今も尚、何処かで彼らしく光の下で生き続けていることだろう。
手を伸ばそうにも、眩しすぎるそれにどうしても近付けない。
だからこそ、男はこの道を選んだのだ。
幾度の検査を通ったこの個体が、男の唯一の希望の光。
そして、それは今日…―――

「…じゃあ、アンタはアカギじゃない、別の奴を愛して…」
「そうだ…まぁ、まさか変な研究に没頭するとは思わなかったけどな…」
彼は説明を終えて、また新しいタバコを取り出して吸い始めた。
俯いたままカイジは、ただただ…アカギを想う。
今どこに居るのか。
今なにを思っているのか。
今だれを待っているのか。
考え続け、結論が出ると勢いよく顔を上げ、言った。
「お願いしますっ…アカギを…迎えに行ってくれませんかっ!?」
吸っている最中だったのか、ゲホッゲホッと咽せながら涙目で、何言ってんだ、と訴えてくる。
「アンタじゃないと…ダメなんだっ!オレじゃ…オレじゃあアイツは満たされない…救われないんだっ!」
目の前のテーブルから二歩三歩下がって、土下座をしながらお願いしますと言い続けた。
最中、男はひたすら否定の言葉を繋げていたが、結果黙り込むに至ってしまう。
それでもカイジは、ひたすら頭を下げ続けた。
誰よりも愛しているアカギのため、この意見を曲げる事は出来なかったのだ。
どうしてももう一度、アカギに心から笑って欲しかった。
それが自分には出来なくとも、誰かが成し得られるなら、それで良いと心で復唱し続けて…。
「…それをオレが了承したとする…そうしたらお前、どうすんだよ…」
投げかけられた問いに答えようと頭を上げると、悲痛な表情を浮かべながら此方を見つめてくる男が居た。
「…それは、」
「そんなんじゃ…無くなっちまうだろうが…お前の作られた意味が…っ!」
それでも良いのかっ!?と必死な形相で言われ、カイジは迷い無く答える。
「オレは良いんだ…アカギが幸せになるなら、それで構わない…っ!」
満弁の笑みで言うと、男は何故かポロポロと涙を流しながらバカ野郎…と呟いた。
「…アイツも、お前も…それにオレも…ホント馬鹿だ…っ!」
そう言ってグズグズと鼻水を啜っている。
強く涙を拭うと、男は力強い目色で頷いてくれた。
「あぁっ!…ありがとうございます…っ!!!」
カイジは何度も頭を下げ、そして自分も彼のように涙を流しながらその言葉を繰り返した。
暫くして、涙も感情も収まった頃に同じ顔の二人は、再び玄関で対峙する。
廊下側に立つカイジは、ポケットから鍵を取り出して差し出した。
「さっき伝えた住所の部屋の鍵だ…アカギを、お願いします…っ!」
「ああ、分かった…お前これからどうすんだよ…?」
ニッと笑って、カイジは答える。
「ちょっとやる事があるんだ、これから」
「そっか…また来いよ、同じ人間のよしみで相談くらいは乗ってやるから」
そんな彼の言葉に笑みを浮かべ、カイジは猫背を更に折り曲げてお辞儀すると、力強く歩き出した。

鍵を受け取った開司は、扉を閉めたと同時にジッとそれを見つめたかと思えば、その場で泣き崩れる。
自分自身の決断の浅はかさと、優柔不断さに。
アカギに与えた苦悩や悲痛と、変な研究へ着手させた事に。
カイジと名の付く、もう一人の自分の存在意義を無駄にしてしまう事に。
あの日、アカギを選んでいれば…悲しみを抱える人間を大幅に減らせたのだ。
それを考えたら、もう既に約束を守らぬ事など…開司には出来ない。
しかしアカギに、どんな顔で会えばいいのか分からず、心の準備が必要だった。
だが今の開司に、その時間で彼の運命が変わるとは、思ってもいない…。

アカギはいつもの生活し慣れた部屋で、一人膝を抱えて座り込んでいた。
カイジが姿を消し、戻ってこない。
ただ一点、彼と同じでは無いと言うだけで否定し、傷付けてしまった事を悔やんでいた。
彼が帰ってきたら謝ろう、そしてまたやり直せば良いと、ひたすら待ち続ける。
「カイジさん…何処にも行かないと、言ったじゃない…なんで、戻ってこないの…」
寂しかった。
いつもは、帰ってくれば必ずカイジが居て、おかえりアカギと笑ってくれる。
それが無く、ただ無駄に静寂が部屋を覆っていた。
それからどれ程の時が経ったのか、不意に玄関から解錠の音が聞こえてくると、アカギはスッと立ち上がり玄関に急いだ。
扉を開けて入ってきたのだろうカイジが背を向け、扉を閉めているところで到着する。
「カイジさん、おかえり…ごめん、酷い事を言って…もう言わない、あんな事は…だから」
「お前…なんて事してんだよ…っ!」
戸を閉め切り、アカギの言葉を遮って言ったカイジは振り返る。
「…か、開司さん…なんで…」
それはカイジでは無く…開司だった。
しかし、何故彼がここに来たのか、そしてどうやってここを知ったのか。
「オレが教えてくれたんだよ…お前が待ってるから、迎えに行ってくれって頼まれて…」
悲しみを滲ませた目は、馬鹿な事しやがって…と言われている気がした。
思わず目を反らして、口を噤む。
「自分が何をしたか分かってんのかっ!?」
「…アンタがオレの前から消えたからだろ、だから用意しただけ…アンタの代わりを」
「分かってんだそんな事はっ!…そこじゃねぇんだよ、オレが言いてぇのはっ!」
「…勝手にアンタのクローンを作った事は、悪いと思って…」
「だから違うっ!良いんだ作ったってそんなもんはっ!…作っておいて、踏みにじるなって言ってんだ!それが分かんねぇのかっ!?」
開司は怒りの形相で捲し立ててくる。
「自分で作っておいて、要らねぇなんて身勝手過ぎるだろうがっ!アイツにはお前しかいなかったろっ!何でそれが分からないっ!?」
「だから謝ろうと待っていた…ここでずっと、そしたらアンタが来て…」
「さっき言っただろうが、頼まれたって…アイツはもう戻ってこねぇだろ…自分じゃ無理だと、お前を満足させられないと感じたからこそ、オレに頼みに来たんじゃねぇのかよっ!?あんなに必死に頭下げて…土下座までして…なんで、もっと自分を大切にしねぇんだよ…どいつもこいつも…っ!」
開司は目に涙を溜めながら必死に言っている。
アカギはそれを聞きながら、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、次の開司の言葉でアカギは胸の奥が酷く痛む事になる。
「アイツは…お前の幸せのために、自分の存在意義を捨てたんだぞ…っ!!!」

―――…解放される。
「…カイジさん」
背後で研究員の一人が開封の指示を待っている。
ククッと喉を鳴らした男は、研究員に目配せをしてみせる。
小さく頷くと一際目立つ大きな赤いボタンを、研究員は押した。
カプセル内に充満していた溶液がゆっくりと抜かれていき、無重力を失っていく彼の身体はその場に横たわっていく。
完全に溶液が抜けきると、周りを覆っていた透明なガラスが上へとシフトされていく。
これで漸く、触れ合うことが出来る。
男は笑みを濃くして、彼の元へと近付いた。
「おはよう…カイジさん」
一声掛けると、彼はゆっくりと瞼を開いていく。
一つ、二つ瞬きをしてから、ジッと白衣の男を見つめて口を開いた。
「…誰…だ…」
「オレはアカギ…赤木しげる」
持ってこさせたタオルを手に、アカギはカイジに付着している溶液を拭いながら、その質問に答えた。
「ア…カ、ギ…?」
「ククッ、そうだよ…どう?立てる?」
小さく頷くカイジを見て、アカギは嬉しそうに手を差し伸べた…―――

もう、失う物など何もない。
カイジはある場所にて、ポーカーを行っているところだった。
生まれて初めての、ギャンブル。
勝てば1000万、負ければその分の臓器を売らなければならない、と言う条件下で始めた博打だった。
本物が持っていて、自分が持っていなかった物…そしてアカギが必要とした物。
その答えはきっとこれだ…ギャンブルに血肉を賭けるという、意気地と勇気。
人として生きるには、多分コレが必要な物だったんだ。
命さえ賭ける事も、時には大切な物を守るために必要な物なのかもしれない。
アカギがああまでして得させようとした物だ、かなり必要不可欠な物なんだと思い込み、勝負をしていた。
しかしカイジはこれが初めて、イカサマ何て物があるなんて事さえ…知らないのだ。
まるで転がり落ちるように、あっと言う間に勝敗が決まってしまった。
勿論カイジは…敗北。
そして振り返る、今まで過ごした幸せだった日々の事を。
もしもまた再び、アカギと共に過ごせる時が来るとしたら、これで一緒に笑えるのだろうか。
カイジは負けたとて、たった一つの悔いもせず、ただその結果を受け入れた。
「オレの負けだ…さぁ、持って行けよ、一千万円分を」
彼の反応に、対戦相手も仕掛け人達も驚愕の顔だった。
やりきったと誇らしげな顔に、周りは一時沈黙し顔を見合わせる。
何処でも良いのかと問われ、勿論とカイジは答えた。
そしてカイジは周りの者に連れられて、奥の部屋へと連行される。
悲痛な叫び声は、誰に届くことなく止み、そして…。

「来ているはず、カイジという男が」
「会わせてくれ!今すぐに…っ!」
そう言って二人は例のポーカーギャンブル所に到着した途端に、そう告げた。
主催側は驚いたように開司の顔を覗き込んで、双子か?と問い掛けて来たが、二人は適当にあしらう。
その時、奥から代打ち達の声が聞こえてきた。
「アイツはド素人だったな」
「ああ、オレ等のやり口さえ見抜く気配もなかったもんな?」
「それに最期の誇らしげな顔、アレには今更笑えてきたぜ!」
「なんだっけ?名前」
「あー…確かカイジって言ってなかったか?」
「じゃぁカイジ伝笑って訳だ」
大笑いする複数の男達の話に、二人は耳を傾けながら沸々と怒りを煮えたぎらせる。
アカギは入り口に立つ男の胸倉を掴み、射殺すような視線を向けて告げた。
「早く案内しろ…カイジさんのもとにっ!」
「アカギっ、落ち着けって」
「ひぃっ!…ア、アカギ!?あの伝説の…っ!?」
アカギは更に詰め寄り、低すぎるほどの声で言った。
「結果次第では、アンタ等の命はない…っ!」
ガクガクと震えだした男は、覚束無い足取りで案内を始めた。
横を通り過ぎていく仕掛け人の男達を鋭く睨み付けながら、奥の鉄扉の前に辿り着く。
震えながら男がその扉を開けていくと…。
「っ!…カイジさんっ!!!」
無残な姿のカイジが、台座の上で横たわったまま微動だにしない。
二人は急いで駆け寄り、安否を確かめようとしたが…。
それは見てすぐに分かるくらい、明らかなものだった。
胸元が抉られ、そこにあるはずの物がごっそりと丸々無くなっているのだ。
開司は目を反らし、大粒の涙を零しながら声を殺して泣き出す。
アカギは震える手をカイジに伸ばし、見開いた目からは初めて涙が溢れ出した。
「…カイジ…さん……っ!」
大層痛かったであろう、苦しかったであろう、辛かったであろう。
自分のために創り出したと言うのに、自分の都合で要らないと存在を否定し、苦しめた挙げ句にこの結末。
彼に謝る言葉の一つも、送る事が出来なかった。
きっとギャンブルが出来なければ、自分には存在価値がないと判断したのか。
だからわざわざこんな陰気くさい所に赴き、自ら死線を越えようと試みたのか。
いや、既に生きる価値など無いと、命を捨てるために来たのか。
今のアカギには、カイジの考えを全て知り得る術はない。
ふと彼の顔に目を映すと、その顔は…笑顔だった。
「…ごめん…カイジさん、ごめん…っ!」
ギャンブルなんて出来なくても、命を張れなくても、アンタはアンタのままで良かったのに。
彼が居てくれて、本当に嬉しかった事が数え切れないくらい在ったにも関わらず、それを最期に全て自分から否定してしまった。
必要だと彼を作った自分から、彼の存在を否定してしまった。
愛していたのに…たった一つの異も許せなかった所為で、こんな事になってしまった。
流れる涙は、彼の胸元の窪みに滴って赤く染まっていく。
手を差し伸べて続けてくれたのは、彼だけだったと言うのに…最期の最期で裏切ってしまった。
差し伸べられた手を払い、見限った挙げ句…助ける事も出来なかった。
アカギは血塗れのカイジの身体を抱き上げ、首元に顔を埋めて静かに泣く。
「…愛してるっ…カイジ、さんっ…」
「あの時…引き止めてりゃ…オレの所為だ…っ!」
開司もカイジの後側から二人を抱き竦めるように寄り添い、鼻を鳴らしながら泣いた。
少しの間そうしていた二人だが、次期に涙を拭うと顔に血が付いている事も構わず、アカギはゆっくりと台座にカイジの身体を横たえる。
そして、彼に目を落としたまま口を開いた。
「開司さん…オレの最期の我が儘を、聞いてくれない?」
「…ああ、何でも言えよ」
開司の返答を聞き、アカギはククッと笑って告げた。

―――奴等の命を毟ろう…。
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