何処に行くわけでもなく、オレはただ歩いていた。
丁度陽も落ちきった夜更けと言うこともあり、オレの外見を気にして目を止める奴なんて居ない。
その時、パッと目に付いた前方にある廃ビル。
人目をはばかるには丁度良いと、早速そこへと足を踏み入れる。
外装に見合わぬ程、内装はまだまだ充分奇麗だと言えた。
今晩はここを塒にすれば良さそうだ。
それより、今はまだ就寝するような時間ではない。
むしろこれからが面白いところ、時間を無駄にするのは勿体ない。
体中を駆けめぐる殺戮の欲望を満たすために、グッと拳を握ってヒビの入っているガラス窓の外に視線を送る。
勝手に口元がつり上がり、期待と愉悦にゾクゾクした。
しかし、それと同時にアカギを思い出す。
殺さなかった…いや、殺せなかった。
あんなに切望されていたからなのか、それとも少しでも好意が胸の傍らに残っていたからなのだろうか。
くそっ…と吐き捨てるように言った瞬間、キンッと頭の奥底が痛んだ。
顔を歪め、その場に膝をついて頭部を左手で押さえ込む。
すると、誰かの顔が浮かんでくる。
瞼の裏に浮かんできたその姿は、白い髪、筋の通った鼻、柔らかい笑顔、まだ幼い声変わりをしていない男の声。
アカギか?…いや、違う…アイツじゃない。
オレは知っていた、脳裏に浮かんだ男を、知っていた。
「…幸雄、っ…」
名を呟いた瞬間、また脳天に痛みが走り、また違うイメージが浮かんでくる。
白い壁、鉄の扉、分厚いガラス窓、様々な電子機器。
失ったはずの記憶が疼き、激痛に乗ったそれは鮮明に色付いて溢れ出す。
「オレのトリガー≠ゥ…凝った言い回ししやがって…」
頭痛も治まり、立ち上がってもう一度窓の外を見た。
「この方ずっと、騙され続けてたってわけかよ…」
ギリギリと歯を噛み締め、鋭い光を宿した瞳がヒビの入ったガラスを突き破らんばかりに輝いた。
それは、たった数ヶ月前に起こりえた事実であり、真実である。
その頃カイジはまだ五歳にも満たない、幼い子供であった。
白い壁に覆われた一室には、何とも穏やかな空気が流れている。
清潔な白いベッドは勿論のこと、いつでも親身に身の回りの世話をしてくれる一条の姿があり、ときたま笑顔でやってきては遊び相手を務めてくれる佐原の姿もあった。
部屋中にオモチャを散らかして、笑顔で今度はこれで遊ぼうと告げれば二人は嫌な顔一つせず、むしろ笑顔で頷いてくれる。
一緒に絵を描いたり。
一緒にパズルを解いたり。
一緒にカードゲームをしたり。
一緒に積み木を組み立てたり。
毎日が穏やかで楽しく過ぎていたのは、確実に言えることだった。
そんなある日のこと。
いつもの身体定期検査を行うため、一条に連れられて長い廊下を歩いているときだった。
向かい側から、白髪を逆立てた同じ歳ぐらいの男の子が歩いてくるのが見えた。
しかもその施設では検診の時間が各自で決められているため、なかなか他者を拝むことはない。
幾多の都合上でずれ込み、こうして鉢合わせになった。
しかしその頃のカイジにとってそんなことはどうでも良かったし、第一そこまで細かく物事を考えない。
ただ自分と同い年くらいの者が居ることに対して本当に嬉しく思い、一条の制止も聞かずに彼の元へと走り寄っていった。
「初めまして!オレ、カイジって言うんだ、よろしくね!」
彼もまた、同年代がいた事に大層驚いた様子で、しかし嬉しそうに笑って差し出した手を握り返してくれる。
「初めまして…オレは幸雄、よろしくカイジくん」
「カイジで良いよ!ねぇ、今度一緒に遊ぼうよ幸雄くん」
「うん、遊ぼう!オレも呼び捨てで良いよ?カイジ」
子供らしい会話の途中だったが一条が、まずは検診に行かないとな、と頭を撫でてきた。
カイジは笑顔で頷いて、幸雄に手を振って検診室に向かって歩く。
「ねぇ、検診が終わったら幸雄と遊びたいな」
優しい笑顔で見下ろしてくる一条だが、微かに困ったような表情が混ざっているのを、カイジが気付く事はなかった。
「そうですね…聞いてみましょうか」
やったぁ!と喜ぶカイジに、一条はただただ、笑顔を向け続けている。
それから無事検診が終わり、自室に戻ってきたカイジは一条が戻ってくるのを、今か今かと待っていた。
幸雄の都合を聞きにいっているのだ。
すると、次期に鉄の扉がキィっと音を立てて開かれる。
すぐに反応を示して視線を向けると、一条が戻ってきたのが見て分かった。
期待を濃く浮かべたカイジの目は、一心に告げられる答えを待っている。
「…残念だが、都合が合わないそうだ」
「そっか…」
だが、返ってきた答えに悲しみへ変わった色の目を伏せた。
柔らかく撫でてくる大きな手を頭部に感じながら落ち込んでいたが、伏せられたその顔はすぐに上がる事となる。
「だが…明日なら平気だそうだよ?カイジ」
澄み渡るような笑顔で顔を上げたカイジに、一条も笑みを返してくる。
それまで良い子にしていること、いいね?と言われれば、大きく何度も頷いた。
次の日、朝食を取り終えたカイジは一条に連れられて幸雄の部屋へと赴く。
自分の部屋と殆ど変わらない内装のためか、緊張など何処吹く風で幸雄と一緒に沢山遊んだ。
その次の日も、そのまた次の日も。
ときたま佐原も混じって、みんなで一緒に遊んでいた。
それから程なくして、カイジは幸雄が描いていた絵を見てふと気付いたように問い掛ける。
「幸雄の絵はいつも真っ黒だね、どうして?」
その瞬間、動かされていたペンがピタッと止まった。
「…うん、なんでだろう…オレにも、分からないんだ」
「そっか…」
答えている幸雄の顔が強張っていることに気付いているのは一条と、幸雄の世話係である治だけであった。
カイジは暢気に、じゃぁオレも黒で描くよ!と言って黒いペンを手に取る。
その頃には二人とも大分成長していて、もうすぐ問題の試験が行われる5歳という年齢に近付いていた。
それも、たかだか二週間ほどで、である。
何かの予兆か、はたまたただの勘違いか、一条には知り得なかったが彼の絵には深い意味が込められていたのだ。
無意識下に、カイジだけはその意を読み取ったのかも知れなかった。
彼自身は、その事に全く気付いては居ないけれど。