アカギを家に住まわせるようになってから早一ヶ月が過ぎようとしていた。

彼は度々家を夜更けに出て行っては、明け方に帰ってきて大金を手渡してくると言う日常が続いた。

その度に、カイジは受け取って良いのかと未だに迷ってしまうが、欲に心が傾くのは今も変わらない。

そしていつもと変わらない日常が、今日の朝も訪れるはずだった…しかし今日は少しいつもと違うイレギュラーに日になるとは…2人は思ってもいなかっただろう。

今は午前7時ちょっと前、アカギがいつも帰ってくる時間帯だが、いつものカイジならまだ爆睡している。

しかし、何故か今日は胸がざわざわして、夜中やっと寝付けたかと思ったらこんな時間にもう起床してしまった。

二度寝でもしようと床についてみるが、全く寝付けず、むしろ胸のざわざわ感が大きくなる一方だ。

「くそっ…何なんだよ一体…」

髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら起きあがり、取り敢えず水でも飲んで落ち着こう…と台所へ。

コップに水道水を入れ、口元へと運んで二、三口呑んでコップを口から離した。

何故か時計に目をやったカイジは、7時30分過ぎという時間を目にして30分もゴロゴロしてたのに寝付けないのかよ…とぼやいた。

その瞬間、玄関の扉が開く音がする。

アカギが帰ってきたんだな、と思いつつコップを持ったまま玄関へ足を運んでみた。

するとどうだろう…電気が付いていない薄暗い玄関だが、日の光が窓から入っているため多少は風景を見て取れるのだが、いつもと少しアカギの様子がおかしい気がする。

靴を脱ぐ様子は変わらない…手にビニール袋を持っている事も変わらない…では、一体どこがおかしいのか。

それは、アカギの外見的様子だ。

いつもなら出掛けた服装のまま奇麗サッパリで帰ってきていたはずが、今日に限っては土汚れが付着して所々茶色く汚れている。

何故か胸元がはだけてしまっているYシャツ。

それだけならまだ、少し色々考えて納得は出来そうなものだが、至る所に痣がある様に見える。

半袖のシャツにも、そこから伸びている奇麗な白い腕にも、整った美形の顔にも、その口元にも、何かの黒い染みのような物が見える。

カイジは思わず持っていた水の少々残っているコップを手から滑り堕としてしまった。

耳障りな高い音を立てたコップは粉々に砕け、残っていた水がそこらに散らばった。

そんなことは構いもせず、カイジはアカギに駆け寄る。

「おいっ!お前どうしたんだよっ…」

「…別に、なにも…それより、これ…」

いつもの上がり下がりのない声の調子ではぐらかされ、札束入りの袋を差し出してきたが今日に限っては、カイジがその袋を手に取る作業は省かれた。

「んなもんは後でも良いだろ!つか、答えろよ…何があったっ?」

「………ここに、置いとくよ」

そう言って、散らばったガラスを除けながら歩いていった先の机にガサリと音を立てて袋を置いたアカギは、答えるわけでもなく窓際に腰掛けてタバコを吸い始めた。

薄暗い玄関とは違い、日の光が直に当たる窓際は、アカギの異様な姿を映し出す。

はだけたYシャツ、よく見たらボタンは引き千切られたかのように無くなっている。

よく見えなかった黒い染みのような物は、全部血痕の跡のようだ。

更には首元に、赤い斑点が幾つも見える。

「聞いてんだから答えろって!…その姿、ただ事じゃねぇだろっ?」

「なにもそんなに心配する事じゃない…少し喧嘩してきただけ」

「少しって…どう見たって少しじゃないだろそれは!?」

「………」

何も言わなくなったアカギの目は、いつも以上に淀んでいる気がした。

とにかく、カイジは風呂を沸かす。

服に汚れが付いていると言うことは、それなりに地面には体を付けたと言うことになる。

奇麗サッパリ汚れを洗い流してから傷の手当てをした方が、消毒にも効果がありそうなものだ。

「待ってろよ、10分くらいで風呂沸くから…まぁ少し傷に滲みるかもしれねぇけど、風呂から上がったら手当てしてやるから」

ワタワタと準備しているカイジの姿を見ることもなく、アカギは黙って頷いた。

しかし風呂を沸かす作業と救急箱を用意する作業なんてほんの一瞬で終わってしまう。

その後の風呂が沸くまでの時間、カイジはどうしようかと頭を悩ませた。

事実を聞いても答えようとしないし、はたまた普通の会話をしようにもアカギの様子が気になってまともな話にはならなそうだ。

アカギの態度を見ても、いつもと何ら変わらない淡泊な感じではあるものの、やはり瞳が淀んでいるのを改めて確認する。

色々考えていた挙げ句、割ってしまったコップの事を思い出したカイジは、片付けでもするか、と立ち上がった時だった。

「ねぇ、カイジさん…」

呼び止められた、アカギに…しかし何かが違和感として引っ掛かる。

一歩踏み出していた脚を戻して振り返ると、アカギがこちらを見ていることに気付く。

しかし感じている違和感はこれではない、違うところにあるはずだが…はて、何処だろう。

カイジはそんなことを考えながら、彼の様子を見つつ言葉を待った。

「…男とするなら、掘る方と掘られる方…どっちがいい」

「はっ?………」

思わず出た声が、あまりにも意味不明だという感情が露わになっていた。

それ以降言葉を発しないアカギは、オレからの言葉を待っているのだろう。

と言うか、どういう経路でそんな質問に辿り着いたんだと問いたくなるが、きっと聞いても答えは返してこない気がしたのでカイジは額に汗して考え始めた。

「えっと…オレは……………う〜ん…」

今まで生きてきて一度もそんな事を考えたことがないわけで…と言うか考える筈がないことなもんだから、カイジが答えに詰まるのは当たり前っちゃ当たり前。

男とするなんて事を、真剣に考えたのはこれが初めてで、掘るか掘られるか何て考えてもみないこと。

カイジは一応真剣に、黙々と考えてみる。

掘られるのが良いのか…そうなると、ケツにあの突起物をねじ込まれるわけで、たぶん考えるに排出物が出たり入ったりするようなもんだと思うと、何か良い気分はしなかった。

となれば、掘るのが良いか…しかしそうなると今度は、自分がケツに突起物をねじ込むわけで、その感覚を女性のアレと思えるかどうかと考えたら、何か出来る気がしなかった。

結局考えがループするだけで、答えが導き出せずただ黙々と考えていたカイジだったが、その沈黙を破ったのはアカギの方だった。

「………で、どっちなの…カイジさんは」

「…っ!!!」

その瞬間、カイジが今さっきまで感じていた違和感の引っかかりの正体が分かった。

呼び方だ、アカギがオレを呼ぶときの言い方。

今までは苗字の方で呼んでいたはずだが、今日に限っては名前で呼んでいる。

不謹慎だが、これで少しカイジのもやもや感が晴れた。

と、そんなことは良いんだ…問われている質問に答えなければ。

「オレは、そうだな…だったら掘る方だな…」

とりあえず、男女どちらが相手だろうと男の本来の行動としてはこうだろうと言う考えに至ったカイジはそう答えた。

そこでアカギが今日初めて、笑った。

しかしいつものナチュラルな笑い方ではなく、妖艶な…背筋にゾクッと来るような、そんな笑顔でオレの体を強張らせる。

「だ、大体なんでそんな質問投げてくんだよっ…」

体中を這い回るような悪寒を紛らわせるように、カイジは言ってみた。

アカギは、そんな笑顔のまま口を開く。

「…話しても良いよ…今日何があったのか…」

喉の奥で笑うアカギに対し、心の奥で何故か青ざめるカイジは真実を聞くのが段々怖くなってきた。

意を決するように生唾を飲み込むと、カイジはアカギの前に座り込んだ。

それを彼は聞く態勢だと察したのだろう、ゆっくりと口を開いて小さな声で話し始める。

「…いつものように、雀荘で麻雀勝負をした…相変わらず相手のキレが無くてね、オレの圧勝だった…でも、今日の相手は少しイカレタ奴だったようだ…」

そこまで言って小さくため息を吐いて瞼を閉じるアカギ。

「勝負が決して、オレに大金を渡すのが惜しくなったんだろうな…捕まった挙げ句、少し痛めつけられたよ…」

「反抗、しなかったのかよ…」

「…そんな簡単に痛めつけられるわけない…3、4人ぐらいだったら簡単に逃げられただろうけど…10人以上いたから…流石に難しかった」

何で今?と思ってしまうのだが、アカギは何かが面白いのだろうククッと笑っている。

オレ的には全く笑えない話しなんだけど…。

「それから、裏に連れて行かれて押し倒された…大金持っていくならそれなりの代償も払って貰うってさ…ズレた事言ってるだろ、オレは勝負で勝ったから当然の権利な筈だけど」

そこまで言われて、オレはやっと気付いた。

Yシャツから無くなったボタンの意味を…。

アカギの首筋に付く赤い斑点の意味を…。

淀んでいた瞳と投げられた質問の意味を…。

「お前…まさか…」

「そう言うこと………」

この時点で、とうに10分経っていたがオレ達がそれに気付くことはなかった。

未だ妖艶な笑みで見つめてくるアカギに対し、オレは絶句し硬直したまま見つめる。

どれ程の時間そうしていたのか、いちいち時計なんて確認していないが少なくとも、5分は経っているだろうか。

「………えよっ…」

「…?」

硬直から立ち直り俯き加減で小さく言った言葉を、アカギは聞き取れなかったようで少し怪訝な表情をしている。

「言えよっ!その雀荘の場所…オレが仕返ししてやるっ…卑劣にも程があんだろ!」

顔を上げたオレを見て、アカギは不意に豆鉄砲を喰らったかのような、キョトンとした顔で見つめてきた。

そんな顔してる場合かよ…笑い事かよ今の話しは!

かなり険しい表情をしている事さえ気付けないほど、怒りと憎しみで煮えたぎっていた。

しかし、アカギは俯いて静かに答えた。

「止めときなよ…それよりさ…」

アカギは言いながらタバコを擦り消すと、その態勢のままオレの方に躙り寄ってくる。

「…っ…ちょ、お前近いっ…」

思わずそう漏らすと、アカギは更に笑みを濃くして更に息が掛かるくらいまで急接近してきた。

オレの体は無意識に後ろへと反る。

アカギはまたゆっくりと口を動かした。

「…風呂、入ってくる…」

スッと立ち上がり、脱衣所へと何事もなかったかのように歩いていく後ろ姿を目で追いながら何故か深いため息を吐いてしまった。

どこかホッとしたようなガッカリしたような…ガッカリ?…おい待て、どういう事だよ。

知らずの内に、何かが芽生えてしまったショックにカイジは一人青ざめていた。


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