「飲む?」
蜂須賀が目の前の自動販売機で買ったミネラルウォーターを促すように掲げて見せる。僕が首を振ると彼は「それならこれでも飲んでおけば」と可愛らしい瓶入りの乳酸菌飲料を買ってくれたが瓶の蓋がなかなか開かない。僕よりも体格の良い蜂須賀も捻ってみたがそれでも開かず、結局彼の持っていた折り畳み式のバタフライナイフで蓋を弾き飛ばすようにして開けてくれた。
「それで発作的にテレクラの看板を見て電話してみたんだけど」
「やっぱり抵抗が?」
「何か駄目だった」
自動販売機の前に座り込む僕の肩に腕を回すと、蜂須賀は励ますように僕の背中をポンポンと明るい調子で叩く。
「ま、誰だって心の中に一匹はいるだろ」
「そうかな…」
「俺も人を殺して来たんだ」
蜂須賀は飲み掛けの水をコンクリートの地面に置くと先程のナイフを取り出して見せる。
…人を?
けれどもそんな小さなナイフの刃で人を殺す事なんて到底出来ないような気がするけれど。と訝しがる僕の視線に気が付いた蜂須賀は、穏やかに微笑むと逞しい武骨な指で僕のうなじに優しく触れた。ゾクッと冷たい肌に熱い指が触れた感触に皮膚が泡立つ。彼が顔を近付けて来る為に僕と蜂須賀の唇は今にも触れ合わんばかりの距離にあるがそんな事は今は関係ない。
「丁度この辺りか。この延髄に鉛筆を突き立てれば誰でも人を殺せるんだ」
「え?えんずい?」
「声を立てる暇も逃げる隙もなく雷に撃たれたみたいに一瞬にしてハイサヨナラ」
「…」
僕はその言葉から蜂須賀が何を伝えようとしているのかを必死に読み取ろうとするけど、目の前の蜂須賀が予想外に端正な顔立ちをしているのでついジッと見詰めてしまう。まるで闇を覗き込んでいるような漆黒の瞳と形の良い唇と通った鼻筋。そしてシャープな物腰も相まって、これでは女子が騒いで夢中になるのも仕方がないと納得出来る美丈夫だ。
「性的な事でも猟奇的な事でも、抑圧された感情をモンスターと呼ぶのなら自覚しているかしていないかと言うだけの問題で誰の心にもソイツは住んでるだろ」
ああ彼の言わんとしている言葉が僕には分かる。
そしてまるで磁力で引き寄せられているかのように。
「俺達は同類だ」
蜂須賀と僕の唇が重なった。
「藤原の欲しいものは俺がみんな与えてあげる」
しかしそんな囁きと共に一度離れた唇が再び重ねられた時。先程の口付けよりも随分と深くなったキスに驚いた僕がもがいた時には、既に蜂須賀の指が後頭部をしっかりと押さえ付ける事で僕の動きを封じていた。
「…ん、っ…!」
そのまま自動販売機に背中を押し付けられたまま続く蜂須賀のキスは酷く手慣れていて、同い年のに比べて経験豊富である事が伺える。そして僕は蜂須賀と言う人間に感じていた不思議な異質さが、多分その人生経験と懐の大きさの違いから来る物であろう事に何となく気が付いた。それは蜂須賀が一匹だけ他の生き物だからだ。
メエメエと鳴く従順な羊の群れの中に悪魔の化身とも例えられる山羊が混ざっていれば違和感を覚えるのは当然の話なのだ。
「藤原」
「…ん、はっ、あ…」
けれど蜂須賀の舌が僕の唇を割って侵入した瞬間。
僕の理性は呆気なく吹き飛んだ。
体の中から痺れる感覚。
ずっとこうされたかったのだと言う自虐的な欲望に火が灯る甘い疼き。僕は無意識の内に蜂須賀の背中に腕を回し、もっと激しくと強請るように服の上から爪を立てる。着ているシャツの裾を捲り上げ、指を這わせながら蜂須賀の素肌の背中に手を回し鍛え上げられた肉厚な男の肉体美に欲情をする。
ああ。御願い。
そのまま僕を滅茶苦茶にして。
すると蜂須賀の履いているデニムの後ろポケットに触れ、手に固い物が当たったような気がした僕はそれを摘まみ出す。そして恍惚として焦点の合わない瞳を必死に凝らして蜂須賀の背中越しに掲げてみると、それはどこかのクラブか飲食店のコースターでーー白地の固い紙に金色の箔押しで店の名前らしきものが書いてあり。
不思議に思いながら裏返すとそこには手書きの携帯番号らしきものと女の名が。
ーーガリッ。
「…いてっ!!」
突如唇に走った鈍い痛みに蜂須賀が体を起こす。
どうやら彼も彼なりにキスに没頭していたようだ。蜂須賀は僕に歯を立てられて切れた唇の端から滴る血を拭う事も忘れたように余程驚いているのか唖然としている。
「どうした?」
「ちょっと、人を殺して来たなんて嘘でしょ」
そして取り出したコースターを蜂須賀の顔面に押し付けるよう見せてやると彼は直ぐにそれが自分の所持品である事に気づいたようだ。
「げ」
「最低だね。僕の事を理解している振りをしてからかってただけとは思わなかった!」
僕の目の黒い内は視界に入れたくもないし即刻この場から立ち去って、口も聞きたくない!けれども怒りに任せて立ち上がった拍子に先程迄のキスで軽い酸素欠乏に陥っていた僕は目眩を覚えて反射的に自動販売機に手を突いて体を支える。
昔から自分が背徳者である事で悩んでいた僕にとっては蜂須賀の「自分の心の中にもモンスターが住んでいる」と言う優しい手にどれだけ救われたか。だからこそ彼の作り話を真に受けた自分が悔しくて堪らないーー出来れば殴り倒してやりたい程の怒りを封じて、心配そうに見詰める蜂須賀の手を振り解くと夜の街へと我武者羅に駆け出して行く。
「モンスター...俺の中にも生まれたみたい」
自動販売機の前に取り残された蜂須賀が指に付いた血をペロリと舐めながら呟いた言葉はまだ僕には届かない。
「藤原が欲しくて堪らないみたいだ」
モンスターは誰の心の中にもいる。
モンスター完
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