久々に目から大雨を降らしたあの日。

徐々にぼやけていった視界にしっかりと色が映ったのはそれから2日後のこと。

天井の真っ白が目に入ると同時に、独特な消毒液の匂いが鼻を掠めた。

周りに人はいなかったが、出しかけのパイプ椅子、片付けられたマグカップ、水を染める花瓶などから、人の跡が見えた。

その日の午後、家主が見舞いにやってきた。手には花ではなく紅茶。

自分が好きなものを覚えていてくれたらしい。それだけでもう泣きそうだった。


「大体の話は軍艦から聞いた。」

「…よかった。あの人無事なんですね。」

「あぁ。お前が守ったんだろ?」


そんなことない。貴方たちが守ってくれたんですよ。


「まぁしばらくは絶対安静だが、他の奴らも皆、傷が治れば普通の生活に戻れるだろう。」


そうか。よかった。


「で、だ。」


妙に区切られた短い単語に、本題はここからだという意図を感じる。

力を抜いていた背を伸ばし、真っ直ぐ前を向いた。


「お前たちが今までやってきた中身も聞いた。」

「…はい。」

「…人を殺めた。とも。…間違いは?」

「ありません。事実です。」


今だって、自分が手にかけた人物の名前や顔は全員はっきり覚えている。

夢に出てくるくらいに鮮明な忘れたい記憶だ。

「そうか。」と小さく結んだ男は、膝に手を置き、重心を前に傾ける。


「やむを得ない理由があったのは分かった。だが…。」

「…分かっています。自分が犯した罪がどれほど重いものなのか。」

「…。」

「処遇はどうなりましたか?」


どんな結果でも受け入れられる自信があった。

あの男に殺されるなんて結末より、よっぽど味のいい終わりではないか。



「引き続き、俺が引き取ることになった。」



だからこそ、その回答は予想外だった。


「……え?」

「監視も兼ねて、お前には今まで通りうちの屋敷で働いてもらう。」

「そ、そんな…。」

「手下の中でも、お前が一番手練れだという話を聞いた。」

「それは、確かにそうですが…。」

「それなら俺の目が届くところに置いておくのが一番安全だろう。上の奴らも納得した。」

「でも…。」

「悪いがもう決まったことだ。拒否権はないぞ。」


私は人殺しだ。


許されないことをした。自分のために他人を多く傷つけた。

そんな大罪人の最後が、


「こんなハッピーエンドでいいのですか?」


思わず口から零れ落ちた言葉に目の前の男はサングラス越しに瞬きを2度。

そして、



「エンドも何も、これから始まるんだろうが。」



口角を上げ、平然と言ってのけた。


唇を噛む。一度決壊した涙腺というのは脆いもので、すぐに目の前が水浸しになった。

家主が大きな手を伸ばし、スズの頭を優しく叩く。


「まずは、その傷しっかり治せ。帰ってきたらまた3人で飯を食おう。」


嗚咽を噛み殺し、彼女は小さく了承を口にした。


それから1週間。入院した彼女の元には次々と9極戦士が現れた。

聞けば、3世の存在を暴くため、数年前からわざと囮になるような職業に成りすましていたらしい。

だが、スズが敵のスパイだと気付いたのはここ最近なのだとか。

「騙していてすみません。」と謝罪の言葉を口にすれば、皆は口をそろえて


「でも貴方は悪い人でないと分かっていた。」


と返す。

毎日誰かが病室にやってくるので、無機質な白い箱でも寂しくない。

でも結局、あの人だけは最後まで顔も見せに来なかった。


ようやく白い天井とお別れした日の空は、真っ青に塗られていた。

馬車から降り、広い緑とその奥の建物を見上げる。

また自分がこの屋敷の前に立つことになるなんて夢にも思わなかった。

スズは恐る恐る庭へ繋がる扉へ手を伸ばす。

ふと、初めてここに来た日のことを思い出した。

あの日もこんな風に緊張していた。

これから会う標的に自分の存在を勘付かれないか、自分はうまく演じきれるのか。

でも、今日は違う。あの時よりずっと心地のいい空気だ。

扉のロックを外し、庭へ足を踏み入れる。

そこにはスズが育てた植物が彼女の帰りを今か今かと待ちわびていた。

その表面を水滴が覆い、陽の光を反射して宝石のように輝く。

自分がいない間も、彼らが水やりしていてくれていたという事実がそこにあった。

足裏で草の感触を確かめる。

屋敷での出来事を思い出しながら。これから始まる新しい日々に期待を抱きながら。

次の茂みを曲がれば屋敷の入り口が見えるという所で、見知った背中が見えた。

1週間以上見ていなかったが、ひと時も忘れることのなかった姿。


「…破天荒さん。」


かつての標的は振り返った。


何も言わずに歩み寄る。

かける言葉が見つからず思わず俯いた。

会いたかったのに、会いたくない。

相反する二つの感情が混ざり合い、自分がどうしたいのか分からなくなっていた。

彼は、私を待っていてくれたのだろうか?


「スズ。」


待ち焦がれていた声が聞こえた。

自分が今ここにいると実感できるその呼び声。スズは顔を上げた。

目の前には片膝をついた破天荒の姿。

彼の目線が思ったより下にあり、スズの表情は驚きに変わる。

すると彼が何かを差し出した。

手の中にあるのは、


「…ハナミズキ?」


あの日、彼女が彼に残した感謝の気持ち。

これは一体…。


「あの…私なにか…。」

「そっちじゃねーぞ。」


『そっち』というのは、


「『お礼』じゃねーよ。」


それはハナミズキの花言葉。

『返礼』『永続性』 そして…。


「・・っ!」


その意味を思い出せば、彼は一等優しい微笑みを彼女に向けた。



『私の思いを受けてください。』

「好きだ。」



堤防は敢え無く陥落することとなる。


「いつか言おうと思ってた。いつかでいいと思ってた。」

「でもあの日、お前が俺の前から消えたとき、なんで言わなかったんだって後悔した。」


「後悔」なんて人生で一番したくないことだったのに。


「だから、次にお前に会ったら絶対言うって決めてた。」


スズは口元に手をやる。

しっかり見たいはずの彼の表情が揺らいでうまく読めない。

まったくこの人たちは、私をどれだけ脱水させれば気が済むというのだ。


「なぁ。スズ。」


もう一度、その手の花枝を差し出される。

スズは乱暴に顔を拭い、一歩前へ踏み出した。


貴方が花言葉を覚えていたのなら、私もきちんと返さなくては。


スズは全身から溢れる喜びを口元に写し、そっと手を伸ばした。



「お受けします。破天荒さん。」



その大きな想い、私が全部受け止めましょう。


「さぁ。ボーボボが待ってる。」

「…はい。」


手を取り、新しい人生の入り口に向かう。

ふわりと香るハナミズキの香りに目を細めれば、磨かれた屋敷の窓に自分の姿が写った。


ほら、もう自然に笑えてる。


彼女は扉に手をかけた。


第一声は何にしよう。

ただの挨拶じゃ味がない。

人生の門出だ。もっと彩り豊かにしていかないと。


よし、決めた。


「おかえり!」


家主の大きな声が聞こえたならば、


「ただいま!」


負けないくらい大きな声で言ってやろう。







(もう邪魔な雲はない。)


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