キッチンに心地の良い風が吹き抜ける。
柔らかなそれはスズの美しい金髪を躍らせた。
そして隣には同じく金髪の破天荒。
ステップを踏むほど長くないそれは、差し込む日の光を吸い込み、空気に溶けるようだった。
いつの間にか、こうして2人でキッチンに立つことが日課となっている。
相手は用心棒とは言え、スズを雇っている側の人間。
これはいかがなものかと何度か進言したが、右から左へ、一向に聞き入れるつもりはないらしい。
そしてこの時間に落ち着きを覚えだした自分も、存外彼の毒気に当てられているようだ。
思わず口元に自笑が浮かぶ。
すると隣から訝し気な視線が注がれた。
見てはいないものの、何となく分かる。
いけないいけない。
スズは手元の視線をそのままに、最近覚えた必殺技『気付かないフリ』をした。
2人の間に会話はなく、ただ蛇口から零れる水音だけがキッチンを占拠する。
家主は二階の自室に下がった。仕事をすると言っていたが、心地よく夢の世界を旅行中に一票。
会話がないのをいいことに、スズはまた一人物思いに耽る。
この気持ちは抱いていいものなのか。
ここ数日、スズは自問を繰り返していた。
気付いてしまった。今まで感じたことのないこの気持ちを、人が何と呼んでいるのか。
念を押すようだが、腐っても相手は雇い主で自分は使用人。
何かにつけてちょっかいをかけ自分の隣にいる彼に、自分と同じ気があるのかは分からない。
自惚れだとしたら、何と滑稽なことだろう。
私は所詮、彼の掌の上で踊らされているだけの人形に過ぎないのかもしれない。
私はこんなことをしている場合じゃ…。
「スズ!」
突然呼ばれた名前にハッと顔を上げる。
名を呼ぶ声は隣の彼からではなく、今しがた下りてきた家主のものだった。
顔には分かりやすく机の跡が付いている。本当に夢の旅へ出ていたようだ。
「どうかされましたか?」
「コーヒーおかわり貰っていいか?」
「かしこまりました。」
鳴れた手つきでコーヒー豆を手に取る。
「それから、今日は夕食後に出ることになった。泊りになるから寝てていいぞ。」
「かしこまりました。急ですね。」
「魚雷先生からパーティーのお誘いだ。」
家主は右手の指3本を折って耳に当てる。彼がよくする電話のジェスチャーだ。
どうやら社長直々のお招きらしい。
「今日は雲もないし、月が綺麗に見える日なんだそうだ。」
「そうなのですか。では私も見てみることにします。」
「破天荒。お前も留守番でいいぞ〜。」
「は?俺は仮にもお前の護衛だぞ?」
「先生が屋敷まで迎えに来てくれるらしい。それにお前を連れて行くとパーティーどころじゃないからな。」
確かに。料理もダンスもそっちのけで殴り合いが始まりそうだ。
スズが肩をすくめて笑うと、またも視線を感じる。
しかし今度はそれを取り繕おうとはしなかった。
スズがその方針で固めたことを察した破天荒は、大きく息を吐き出し「分かった。」と素直に了承する。
香ばしい新入りをカップに注ぐと、家主はまた自室へと戻っていった。
しばらく無言がキッチンを占拠する。止めている蛇口からは水の音も流れない。
先に口を開いたのはスズだった。
「解雇されちゃいましたね。」
「うるせぇ。」
「一緒に留守番しましょうか。」
「そうだな。」
「それなら…。」
心臓の音が一段と大きく聞こえる。
風がまた彼女の髪をさらった。
「一緒に月を見ませんか。」
その言葉に破天荒は勢いよく顔をこちらへ向けた。
こちらを見つめる顔には「意外だ。」という言葉が張り付いている。
「綺麗な夜空を一人で見るなんて寂しいじゃないですか。」
「そんな顔で見ないでください。」とスズは眉を潜めて笑った。
「とっておきのお茶、ご用意します。」
「いかがですか?」と最後に結べば、彼の顔が綻ぶ。
近頃よく見るそれは、言葉にせずとも返事を言っているようなもの。
続いて「それいいな。」と賛同の言葉が返された。
夕食を食べ、家主が意気揚々と出かけて行った後、スズの部屋の扉が音をたてる。
もちろん、訪問者が誰かなど、聞くまでもない。
「どうぞ。」
スズは何の疑いもせず、入室の良しを声に発した。
「本当にお前の部屋でよかったのか?」
「はい。ここなら部屋の中からでも空を見ることができますから。」
来訪者を一人掛けのソファーに案内しながらスズは微笑む。
ここは彼女に与えられた部屋であり、普段は彼女以外の者を通さない部屋だ。
というのも、彼女自身この部屋は就寝目的のみでしか使っていないようなもなので、人を招く理由がない。
しかし、なぜそんな彼女の部屋が小さな夜会の会場になったのか。
理由はこの部屋にある大きな天窓だった。
屋敷に来た初日、どの部屋にするかと家主に問われた際、天窓を決め手にこの部屋を選んだ。
夜の外は冷える。湯浴みをした後の体を冷やしては風邪を召してしまう。
スズなりの気遣いもあって、彼女は初めて部屋に客人を招いたのだった。
「本当。よく見えるな。」
破天荒は天を仰ぎながら感嘆の息を漏らす。
その向かいの席に、紅茶を持ったスズが座った。
「いつもは一人で見ているのですが、何だか不思議な感覚です。」
「お茶、どうぞ。」と私物のカップとソーサーを彼の前に差し出せば、短い礼が述べられる。
彼がその金の縁に口をつけ、最初の一口を飲み込んだ。
「うまい。」
驚いたような、嬉しそうな、そんな幸せな感情の混ざった声に、スズはやっと肩の力を抜いた。
「紅茶はお好きですか?」
「飲む機会があんまりある訳じゃねぇが、これはうまいな。」
「だって、私のとっておきですから。」
「紅茶好きなのか?」
「はい。」
「でもいつもコーヒー淹れてるよな?」
「ボーボボさんがコーヒー好きでしたので。私はどちらかというと紅茶の方が口に合います。」
「そうなのか。知らなかった。」
「言っていませんでしたから。」
昼間とは打って変わって弾む会話に手元の茶も進む。
会話の合間に見上げる夜空には、家主の言った通り大きな月が昇っていた。
「先日、ビュティさんからお手紙が届きました。」
「へえ。何て書いてあったんだ?」
「新しく育て始めた苗が芽吹いて綺麗な花が咲いたそうです。」
「お前の植物好きが見事にお嬢ちゃんに移ったな。」
「私としては大変光栄なことです。」
「そういえば、天の助が新しい事業を始めたらしい。」
「そうなのですか?」
「今度は食品加工の会社だそうだ。」
「それはそれは。おめでたいことですね。」
「お前、この前あいつがボーボボにボコボコにされた後、手当してやったんだってな。」
「あのまま屋敷の庭に放っておくのもどうかと思いましたので。」
「感謝してたぞ。『事業がうまくいったらお礼の品を持って挨拶させてもらう。』 だそうだ。」
「…あまり期待しないでおきます。」
「そういえば先日、また田楽マンさんが来ていましたよ。」
「お前が田楽作った後か?」
「はい。次の日です。」
「お前、相変わらず勘がいいよな。」
「たまたまですよ。」
「それで、あいつの感想はどうだったんだ?」
「喋ってくれないので分かりませんが、最後に手を振ってくれました。」
「はぁ?犬だぞ。」
「犬ですね。」
「お前、今日はよく喋るな。」
「あら、お気に召しませんでしたか?」
「そんなこと言ってないだろ。珍しいなと思っただけだ。」
「私は元来、どちらかというとお喋りです。」
「日中はあんまり喋らないのに?」
「お仕事中ですから。」
「…今は仕事じゃないのか?」
「今は…プライベートです。」
「…そうか。」
「…すみません。無礼なことを言いました。」
「…いや、それでいい。……それがいい。」
「…あまりそういうことは軽々しく言わないほうがいいと思います。」
「……軽々しく言ってるつもりはないんだけどな。」
「……。」
「………お前だから………。」
その言葉を最後に、破天荒は目を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
彼女はスカートを力強く握りしめ、ソファーに深く身を埋める彼を見つめる。
「…ずるい人。」
彼女は大きく息を吐き出した。彼は起きない。
女はわざと大きな音をたてて立ち上がった。やはり男は起きない。
掛かった。
女は、男が先ほどまで口にしていたカップを引いた。
中に溶かした粉はもう跡形もない。
2つのカップを手早く片付け、また男の向かいに立つ。
何も知らない彼は、先ほどまでの幸せな色を残したまま夢の世界を漂っていた。
結局、聞けなかった。言えなかった。
貴方が私をどう思っているのか。私が貴方をどう想っているのか。
でも、これが正解なのだろう。
すべてなかったことにしよう。
もともと、私はそのつもりでここに来たのだから。
女は右手に拳銃を構えた。
その弾丸の標的は、自分に初めての感情を教えてくれた優しい男。
「……さようなら。」
女は狙いを定める
( 初めて愛した人。 )