5月中旬。

時計の短針は8を指し、外からは涼しげな虫の鳴き声が聞こえる。

机の上に広げた教科書とノートはそのままに、スズは自室の本棚と睨みあっていた。

上は天井まであり、彼女の部屋の側面をおおよそ埋め尽くしている、と言っても過言ではないサイズの棚に、溢れんばかりに本が並べられている。

その深み掛かった木目には、かなりの年季を感じた。


『確か、上の方に片づけたはず。』


スズは顎に手をやりながら、ゆっくりと本の帯を目で追う。

この大きさだ。

目的の物を見つけるのにも、多少なりとも時間を要する。

すると、上から2番目の列に、頭の中で唱え続けたタイトルを見つけた。


『2段目なら、背伸びで届くかしら?』


スズは狙いを定めて、踵を持ち上げると、力の限り右腕を伸ばした。

指先が微かにザラザラとした本の表面に触れるが、抜き取るまでには及ばない。

試しにもう一度腕を伸ばすが、結果は同じだった。


『…だからと言って、椅子を持ってくるのは面倒なのよね。』


スズはちらりと、勉強机の前に鎮座する椅子に目を向ける。

椅子の足元に据え付けられている収納ケースには、教材がわんさか詰め込まれていた。

かなりの質量をもつあれを、ここまで移動させるのは一苦労だ。


『ならば…』


スズは2、3歩後退する。

もう一度、目当てのタイトルに狙いを定めて、

右足を大きく踏み出し、床から飛び上がった。

伸ばした右手の指に本が触れ、手が重みのある何かを掴む。


『よし! とれ…。』


口元が綻んだのもつかの間。

次の瞬間、着地しようとしたスズの頭上から、大量の本の雨が降り注いだ。


「うそっ!? わあぁぁっ!!」


とっさに頭を庇って、下を向くも、重みのある雨に、スズはその場に座り込んだ。


頭上で紙の擦れる音が鳴り、古い書物独特の香りが鼻腔を刺激する。

攻撃雨が止むころには、頭の上に、開いた本が帽子のように被さっていた。

おまけに、体のあちこちがジンジンと鈍い痛みを訴えている。

おそらく、落下してきた本の角などが当たったのだろう。

スズは強く目を瞑って、体に走る痛みに耐える。

嵐が去った室内には、外からの微かな虫の鳴き声だけが聞こえた。

すると、

鳴き声をかき消すような人の足音がしたかと思えば、

ベランダ側の窓が開く音とともに、


「どうした!?」


慌てたような、男性の声がした。

遮られた視界でも、誰が来たのかは容易に想像ができる。

活用性のない帽子の端から窓の方に視線を投げれば、

目を見開いた、破天荒の立ちつくす姿があった。



「…お前、何やってんだ?」


焦りの表情の後に見せたのは、呆れだった。


「…遊んでる…わけでは、あり…ません。」


恥ずかしさと、痛みの相乗効果で上手く舌が回らない。

また思わず目を瞑ると、足音がこちらに近づいてくる。

破天荒はスズが被るやけに重たい帽子を取り払い、屈みこんだ。


「何となく想像はつくが、何があったんだ?」

「…本を取ろうとしたら、上に乗せていたであろう本たちが降ってきました。」

「やっぱりな。」


破天荒は辺りに散らばる大量の本に目を向ける。


「分厚いのばっかじゃねーか。怪我は?」

「…あちこち痛いですけど、じきに治ると思います。」


スズは身を守ろうと頭上に掲げていた自分の両手や、両足に目をやる。

ところどころ赤くなってはいるが、大したことはない。

何なら、恥ずかしさで染まった自分の顔の方がよっぽど赤いだろう。


「お目当ての本はどれだ?」

「えっと…あ、それです。その緑色の本です。」


スズは見つけた本表紙を恨めしそうに指差した。

彼女の表情を見て、破天荒が軽く吹き出す。


「そうむくれるなよ。 後のやつ片付けるぞ。」

「…すみません。」


スズはおもむろに立ち上がると、目当ての本を卓上に移動させ、辺りに散らばった本を拾い始めた。

落下時についてしまったであろう寄りを戻しながら、落とさないように抱え込む。


「並び順は?」

「決まってません。適当に並べてもらって大丈夫です。」


同じように本を拾い集めた破天荒は、棚の上の方から本を戻していく。

すべての本を拾ったスズは、彼の足もとにそれらを置き、彼の動作を見守った。


背伸びしなくても届くのか…。

やっぱり背高いなぁ。


自分は、背伸びしても2段目に届かないというのに。

スズは、唐突に訪れた締め付けられる胸の痛みに、思わず口を固く結んだ。


「今日は、どうしてここに?」

「バイト休みだし、暇だったからな。お前が勉強してるようなら帰ろうと思ってたんだが…。」


「ナイスタイミングだな。」という言葉には、ぐうの音も出なかった。


「にしても…。」


破天荒が、棚に戻す本のタイトルをまじまじと見ながら、眉を顰める。


「お前の部屋、難しい本多すぎねーか?」

「…そうでしょうか?」


「そうだよ。」と、破天荒は手に持つ本を、表紙をスズの方に向けて軽く振る。

表紙には、題名と著者名が筆で流れるように書きつけられていた。


「やけに長いタイトルのもそうだが、何だこれ。古文か?」

「はい。」

「うわっ!英語のもあるじゃねーか。」

「中学の時に、教師に勧められて買ったものです。」


「もう、読み飽きてしまったのですけれど。」と付け足せば、更に白い視線が向けられる。


「…お前、英語得意なのか?」

「得意というか…英文を読むのは好きですが…。」


スズの回答に破天荒は大きなため息を吐いた。

思わずスズの肩が震え、額に冷や汗が滲む。

急に部屋が静寂に包まれたような気がした。


…引かれただろうか?


しかし、彼の口から出たのは意外な言葉だった。


「すげぇな、尊敬するわ。」


その一言に、肩の力がスッと抜けた。


「俺、そもそも文を読むのが得意じゃねーから、そういうの羨ましい。」


褒められたことが嬉しくて、思わず目線を下にする。

同時に、また本の香りがした。


「…初めは、興味からだったんです。」


スズのポツリと呟いた言葉に、破天荒は手を止めた。

歩を一歩進め、破天荒と並ぶ。

お互い、体は目の前にある仕舞われた本たちに向けながら、しかし、破天荒の視線はスズに注がれる。


「言葉って不思議だなって思ったんです。私、あまり人とお話するの上手くないので。」

「現代は国が違う人同士でも、英語を使って会話をすることができる。」

「じゃあ、昔の人はどうだったんだろう。とか考えて、」

「いろんな国や時代の言葉を見てみたい、触れてみたいと思って集めていたら、」

「気づけば、部屋は本で一杯になっていました。」


スズは目の前の本に、指を走らせる。

すべて、スズが知りたいと思って手に取ったものたちだ。


「まだまだ、勉強は足りないですけれどね。」


そこで初めて、彼女は破天荒に笑顔を向けた。

その表情に、彼はフッと息を吐いて口元を緩める。


「なるほどな。いっぱい本読んでるから、お前は敬語で話すんだな。」

「それは、そんなに関係ないと思うんですが?」

「関係あるだろ。お前、時々とんでもなく難しい言葉使ってるぞ。」


あぁ、確かに。

過去の会話レコードにおいて、心当たりはありすぎた。


「俺としては、なんだか距離を感じて複雑なんだがな。」


何気なく呟かれたそのセリフに、過去のレコードに取られていたスズの意識が、一気に引き戻された。

思わず、目を見開いて破天荒を見上げる。


「え…いや、そんなつもりは…。」

「知ってる。ってか、むしろお前タメ口とか使えるのか?」

「失敬ですね!使えますよ!」


あっという間に彼のペースに戻され、スズは思わず声を大にする。

「へぇ〜。」とニヤニヤした笑みを浮かべながらこちらを見下ろす破天荒に、スズは思わず眉を顰めた。

だからこそ、次の言葉に耳を疑った。



「じゃあ、俺にもそうしてくれよ。」



思わず開いた口からは、声は漏れなかった。

ただ、大きく開いた瞳で破天荒を見上げることしかできない。


「堅苦しいの苦手なんだよな。」

「で、でも…あなたは年上で…。」

「年は関係ねーよ。」



「俺は、お前にもっと近づきたいんだ。」



あぁ。なんてズルい。

そんな勘違いするようなこと、言わないで。

私ばかり浮かれて、ドキドキしてしまう。


「なぁ、スズ。」


破天荒は軽く屈んで、スズの顔を覗き込む。


なんて人だ。


スズは、叫びたい気持ちを、手を握りしめることで抑え込み、一言。



「…わか…った。」



それが今の彼女の精一杯だった。


彼女の言葉に、子供のような無邪気な笑顔を浮かべる破天荒。

返答に満足したらしい彼は、再び本の収納作業の戻った。

胸に手を当て、深呼吸をする。

いきなりの展開に、頭は追いつかないまま、体温だけが上昇していた。

落ち着け!と頭の中で暴れまわる自分に言い聞かせる。

ここで、やられっぱしじゃダメだ。

素直になれ。

呪文のように、呟いた。


「しばらくは、慣れないから…時々戻るかもしれないけれど…。」

「まぁ、いきなりだからな。仕方ねー。」



「私も、あなたに近づきたいから。」



また、破天荒は動きを止めた。

注がれる視線に、思わず足が震える。

照れ臭いけれど、顔から火が出そうだけれど、


今、私に出せる最高を



「頑張る。」



破天荒はスズの表情を見た途端、髪をクシャッとかき上げた。


「…おう。」


ぶっきらぼうに返事をすると、また本の山を崩し始めた。


ちゃんと、言えた。

勇気を出した自分を褒めてやろう。

とりあえず、頭の中で声を大にして叫びたい。



クリアファイル、入荷待ち

(もう容量いっぱいです!!)



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