臆病者の掌



こつん、こつん、と革靴の音だけが響いていた。
真っ暗な住宅街には、申し訳程度の街灯しか灯っていない。
いかにも何が出そうな雰囲気に、私はびくびくしながら歩いていた。

いつの間にか季節は冬に向かっていたらしくて、日が落ちるのが徐々に早くなっていた。
まだ夏の感覚が捨てきれず、油断していたらこの有様だ。


ふと、足音がもうひとつ聞こえた気がした。
気のせいかな、と思ってよく耳を澄ませてみる。
こつん、こつん、と聞こえるのは私の足音だけ。
やっぱり気のせいか、とほっとして息を吐き出したそのとき。

ぽん、と肩を叩かれた。
「ひっ……!」
思わず悲鳴をあげそうになったら、その口を後ろから手でふさがれてますます焦る。
変質者だ、と脳が警鐘を鳴らす。
対処法なんて知るはずもなく、ただがむしゃらに暴れてみるしかできない。

しかし、抵抗もむなしく私は後ろの人の腕の中に閉じ込められてしまう。
どうしよう、と泣きそうになったとき、そっと耳元に吐息がかかった。


「なまえ、ボクです。暴れないで」
聞き覚えのある声に、今度は別の意味で驚いた。

「手を放しますけど、叫ばないでくださいね。ご近所迷惑ですから」

こくりと私が頷いたのを確認して、彼はそっと私を解放した。
振り向くと、そこには予想どおりの人物。


「黒子くん……」
「変質者と誤解させてすみません」

相変わらず表情の乏しい顔で、彼はそう言った。


黒子くんとはご近所さんで、幼い頃から一緒に遊んできた。
いわゆる幼馴染という関係だ。
そして、私の初恋の人。

小学校までは私は彼をテツくんと呼び、いつも一緒にいた。
けれど、中学生になったらそうはいかない。
クラスが離れ、お互い部活をはじめたら自然と距離は遠くなってしまった。


「なんだか久しぶりですね」
「そうだね、同じ学校なのに変なの」
「そうですね」

私は久々に見る黒子くんをまじまじと見つめた。

「…………黒子くん、背のびた?」
私が尋ねると、彼は首を傾げる。

「少しは伸びましたけど……残念ながら一目でわかるほどは伸びてませんよ」
「そう? だって、なんか……少し大人っぽくなった気がする」

なんとなく、だけど。
そう付け加えると、黒子くんはまた不思議そうに首を傾げた。

「筋肉がついたからでしょうか……?」
「そうなの?」
「まあバスケ部なんで、それなりには。触ってみます?」

そう言って差し出された腕に私はそっと手を伸ばした。

「わっ……硬いね」

自分の腕とは違う、引き締まってごつごつした男の人の腕。
どきりと胸が高鳴って、ふと思い出す。

そういえば、私は昔この人が好きだったんだ。
そして、今もその気持ちはそんなに変わっていない。


意識してしまうと、急に腕を触っていることが恥ずかしく感じられて、私はぱっとその手を離した。

「ばっ……バスケ部って、大変なんだね!」

にっこりと笑ってみせると、彼もにっこりと笑い返してくれる。

「無駄にきつくて。体力馬鹿が多いせいですかね」
「あはは…………」
その言いように、私は苦笑いだ。


「まだ、その口が悪いの治ってないんだ」
「ええ、治す気がありませんから」

でもちゃんと人は選んでいますよ、と悪びれる様子もない彼に私はため息をついた。
「変わってないようで何よりだよ……」


昔からこうだった。
人畜無害そうな顔をして、わりと口が悪くてずばずば物を言う。
言いたいことは我慢しないタイプ。

「おかげさまで生きるのが楽ですよ。ストレス溜めないから」

言葉どおり清々しい笑顔で、彼はそっと手を差し出してくる。

「一緒に帰りましょう。送りますよ」
「あ、うん………」


私はその差し出された手を、ためらいながらもやがてそっと握った。
自分より大きくて熱い掌にキュンと胸が高鳴る。

「懐かしいですね。昔はこうやって帰っていたんですが」
「そうだね」

私たちはゆっくりと家の方向に足を向けながら、視線はどこか遠くを向いた。


「なんか変だね。私たち会ってないのはせいぜい半年くらいなのに、もうずっと会ってないみたいな話し方」
「そうですか?」


私の手を握る手にきゅっと力を込めながら、彼は呟くように言った。


「ボクはずっと見ていましたよ」

「え?」


驚いて隣を見上げた。
しかし彼はどこか遠くをぼんやりと見つめたまま、私の方を見ようともしない。


「ずっと、見ていました。なまえのことを」

その言葉を聞きながら、私は考える。


これは分岐点だ。
ここで私がその理由を聞けば、もしくは彼が私の方を見れば、私たちの関係はもっと親密なものへと変化する。

分かっているのだけれど。


「――――何それずるーい! 見かけたなら声かけてくれればよかったのに!」


私は何事もないかのように、声をあげた。
少しわざとらしいのは分かってる。
それでも彼は、微かに笑ってくれた。まるで安堵するかのように。


「じゃあ今度から見かけたら声かけますね」
「約束だよ?」


お互いに分かっている。
私たちはあと一歩踏み込めば、違う関係になれる。


でも一歩踏み込む勇気がない。

踏み込んだ先が落とし穴だったら?
相手が踏み込むことを望んでいなかったら?

足を出そうとした瞬間に頭をよぎる、そういった考えを振り切ることができない。
結果私たちは、この安全地帯を抜け出すことができなくて。


「私もちゃんと話しかけるからね! 見つけられたら、だけど」
「なまえには無理でしょう。昔っからボクにかくれんぼで勝ったことないじゃないですか」
「それは黒子くんが異常なの! ていうか、さっき肩たたかれたときも全然気配なかったからすっごい怖かったんだけど!」
「それは……すみませんでした」


他愛もない話をしながら私たちは家路を歩く。
家についたときこの手は何事もなかったように離されて、私たちはお互いにその手を振るのだろう。

そして、明日からも私たちは幼なじみ。
私たちが臆病者であり続ける限り、私たちは幼なじみを続けるのだ。
いつかこの関係が変わる日が来るのだろうか。
その遠い日のことを思い、私は彼の手を握る力を少しだけ強めた。


(どんなことを口にしたとしても)
(一番言いたいことは言えない、この唇)


*凛華さまリクエスト作品。
両片思いの難しいところは、相思相愛になっちゃいけないところだと思います。


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