蛍が死んだ日



(※死ネタ)


その連絡を受けて、オレはすぐに駆けつけた。

制止する先輩の声も信号も進路を塞ぐ駐禁区域のチャリも全部無視して飛び越えて、オレは全速力で走った。
少しも速度は緩めなかった。
息が上がっても気にならなかった。
足がもつれて転んでもすぐに起き上がった。
最速で駆けつけたはずだった。

なのに。


「火神くん…………」

連絡をくれた、なまえの母親。
真っ白な部屋の中で、その人だけが色を持っていた。
彼女が握りしめてる青いハンカチは、ぐっしょりと湿っているようだった。

その側には、真っ白なベッドがある。
走りすぎたせいでガクガクと震える足で、オレはそれに近寄った。

一歩進むごとに、母親で隠されていた、そこに横たわる人物が見えてくる。


そのベッドのすぐ傍らに立つと、オレは膝から崩れ落ちた。


「なまえ」


名前を呼んだ。
しかし、返事はなかった。
ピクリとも反応しなかった。


「なまえ」


そっと頬に触れてみた。
暖かい。
眠っているみたいだ。


「起きろよ。なまえ」

ぺちぺちと軽く頬を叩いてみた。
随分よく眠っているらしい。
全く反応がない。


まるで──────と思考の海に一瞬浮かんだ言葉に、オレは目を見開いた。


「なまえ!? おい、なまえ!!」

突然声を荒げたオレに、なまえの母親は泣き崩れた。
オレはそれに構わず、なまえの肩を掴んで揺さぶる。


「なまえ!! 起きろよなまえ!!」

どんなに強く揺さぶっても、全く反応を示さないその小さな身体に、オレの手は、声は段々と力を失う。


「おい、なまえ…………! なまえ……………っ」

頼むから、目を開けてくれ。
お願いだから。


祈りながら見つめたなまえの蒼白な顔に、ぽたりと雫が落ちた。
それを袖で拭ってやっても、またぽたりと落ちてくる。

妙に霞む視界を訝しんで、袖で自分の目を擦ろうとした。
すると、袖がぐっしょりと濡れた。


唐突に理解する。
オレは泣いているらしい。


「なまえ……………っ………」

ぼたぼたと零れてくるそれの対処法が分からなくて、オレはひたすらに袖で目を覆った。
すると、なまえの母親がそっとタオルを差し出してくれる。


「あり、がと………です」
オレはそれをありがたく受け取って、溢れ出てくる涙を押さえる。


「おばさん、なまえは────?」
「…………本当に、ついさっきだったの。ほんの数分前」


オレはその言葉に絶望する。

あの場所で歩行者に邪魔されなければ。あそこで転ばなければ。あの道を通っていれば。
オレは、なまえがその瞳を閉じた瞬間に、間に合ったのかもしれない。


「なまえ…………ごめん………!! オレ………オレ、間に合わなかっ…………………」

息が苦しい。声が詰まる。
謝罪の言葉すら上手く言えない。


言葉なら、まだ間に合うかもしれないのに。
旅立ったなまえが、まだその辺にいるかもしれないのに。


「なまえ、ごめ…………なまえ………っ! 間に合わなくて…………なまえ……っ、ごめん……………!!」


身体が弱い子だった。
しょっちゅう入退院を繰り返していて、今まで何度も命の綱渡りをしてきていた。
今回の入院もそんな綱渡りのひとつだった。

いつ容態が悪化するか分からない。
悪化したら、死ぬかもしれない。
ずっと聞かされていて、それなりに覚悟していたつもりだった。



『──────泣かないでね、大我』

ぐちゃぐちゃな頭の中に、遠い日のなまえの声が響いた。


『私は生きていることの方が奇跡なの。だから私が死んでも泣いちゃダメ』
『何だよそれ………! 死ぬとか、そんなこと言うな!』

激昂したオレを見て、なまえはぷーと頬を膨らませた。


『私は死ぬの。大我だっていつかは死ぬの。ただ、私の方が大我より何十年か早く死ぬだけ。それはもう決まってることなの』


拗ねたような口調。
言っていることは重く辛いことなのに、彼女はそんなものには押しつぶされないようだ。


『その覚悟がないなら、"私と一緒にいたい"なんて言葉、口にしないで。そんな空っぽな言葉ならいらない』


なまえは点滴の痕が無数に残る、細く頼りない腕を持ち上げてオレの頬に触れた。
白い肌が、窓から射し込む太陽を柔らかく反射する。

その淡い輝きがまるでホタルみたいだ、と柄でもないことを思った。


『お願い、大我。泣かないでね。私が死んでも、泣かないでね────』



そう、オレはその言葉に頷いたんだ。

オレは必死に涙を止めようとする。
しかし、そんな努力も虚しく、オレの目からはぼたぼたと大量の涙が溢れてくる。

「ごめん、なまえ…………っ………泣いてごめん………!」


覚悟はしていたんだ。それは嘘じゃない。
いつかなまえが健康になって、オレと一緒に年をとって、婆さんになったなまえがオレの隣で笑ってる─────なんて、そんな夢物語を信じていたわけじゃない。
オレより何十年も早くなまえがいなくなることは覚悟していた。本当なんだ。


「なまえ、ごめん…………っ……………愛してる、愛してる!!」

ただ、覚悟していたよりも、この穴は大きかった。
ぽっかりと心に空いた穴が、オレを呑み込もうとする。


もっと伝えたいことがあった。

なまえを愛していること。
なまえと一緒にいられることが幸せなこと。
オレが18歳になったら、なまえと共に歩きたい人生があること。
もっと、もっと伝えたいことが山ほどあった。


「なまえ、愛してる……………愛してる………っ……………なまえ……」

せめてこの言葉が、がらんどうのこの胸に反響して、もっと大きな音になって、なまえに届けばいい。
オレはそう祈りながら、もう一度、愛してる、と呟いた。



(君のいなくなった世界が、ただひたすらに寂しい)
(せめて、旅立つ君は寂しくないようにと、ただひたすらに、愛してる、と声を張り上げた)


*穂さまリクエスト作品。
夏から蛍がいなくなるときのやるせなさに、無性に叫びたくなるのは私だけだろうか。


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